昨日の午後3時過ぎより、私は一冊を本を読みだした・・。
曽野綾子・著作の『緑の指 ~ガーデニングの愉しみ~』(PHPエル新書)であり、
2002年4月に発刊され、私は本屋で偶然に見て、購読した一冊であり、
正確には9年過ぎた今、再読となった・・。
本書は、裏カバー紙に、
《 植物を育てる才能のことを英語で「緑の指(グリーン・フィンガーズ)」と言う。
三浦半島の西海岸の海辺で、畑をする日々を始めた著者。
トマト、エンドウ、そしてアフリカの木、バオバブ。
自然と触れることを通して、人生という試練、
人間として生きる意味を問いかける。》
と明示されている。
著者は多忙の中で、このような日常のひとときを過ごされるのであるが、
カトリック教徒のひとりとして、
《・・毎年、四月の半ばから五月の初めまで、グループで、イスラエルへ行く。
(略)
イスラエルは聖書の舞台である。
新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、という4人の福音史家によって
書かれた四つの福音書を中心になりたっているのだが、
聖地は俗に第五の福音書と言われるほどである。
それほど現地を見ると、聖書が理解し易くなる。
(略)
イスラエルでは舞台は大きく二つに大きく分けられる。
死海を中心とする渇き切った荒野の南部と、
ガリラヤ湖とヨルダン河を中心とする北部の緑の多い地方とである。
(略)
・・死海を中心とする地方は、ところどころオアシスの緑に綴られているが、
つまりユダヤ教徒たちの意識にある「旧約の世界」である。
それは、勧善懲悪を実行する「怒りの神・妬みの神」の支配する世界だ。
しかしイエスという人が現れてから、
それまでの「眼には眼を」の復讐の原則を拒否し、
加害者に対しても愛と許しを基本とする「新約の世界」が生まれた。
ガリラヤ湖とヨルダン河の光景は、まさにその愛と許しの世界の象徴的な風景である。
・・》
注)本書の32ページ~34ページを引用。
原文にあえて改行を多くした。
私は東京郊外の調布市に住むの66歳の身であり、
生家は数多くの一般家庭にある仏教の一系統の曹洞宗であり、
そして神棚もある家で育ったが、宗教に無関心である。
朝のひとときには、陽射しに向かい、両手を合わせて太陽に感謝した後、
居間のビデオ・ケースの上に立てかけている書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に向い、
氏の遺(のこ)された名言を人生の生きた哲学のように、
ここ15年近く学んでいる。
そして日頃の私は、何かと独断と偏見の多い言動を、
人生の戒(いまし)めとして、反省しながら日々教示されている。
このようなことを殆ど毎朝、私の習性となっている。
私はキリスト教、イスラム教、仏教にも無知であり、
特にヨーロッパの書物、映画、音楽においては、
石の文明が前提であり、その上にキリスト教を抜きにしては理解できない、と解かっていても、
恥ずかしながら聖書を通読して読んだことがない。
そして無知なことを告白すれば、旧約聖書と新約聖書の相違も明確に知らないのである。
今回、本書のこの引用させて頂いた部分を読みながら、
私は二十歳前後に、映画舘で観たアンドレ・カイヤット監督の『眼には眼を』(1957年)の作品をはじめとする
欧米の歴史劇の10数本を思い浮かべながら、
著者の明晰あるイスラエルの風土、そして旧約聖書と新約聖書の相違などを多々教示されたのである。
わずか数ページの著者の綴りから、キリストの世界がおぼろげに判明し、
私にとって読書が何よりの優先する課題であるので、
これも功徳のひとつかしら、と微苦笑さられたりしている。
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曽野綾子・著作の『緑の指 ~ガーデニングの愉しみ~』(PHPエル新書)であり、
2002年4月に発刊され、私は本屋で偶然に見て、購読した一冊であり、
正確には9年過ぎた今、再読となった・・。
本書は、裏カバー紙に、
《 植物を育てる才能のことを英語で「緑の指(グリーン・フィンガーズ)」と言う。
三浦半島の西海岸の海辺で、畑をする日々を始めた著者。
トマト、エンドウ、そしてアフリカの木、バオバブ。
自然と触れることを通して、人生という試練、
人間として生きる意味を問いかける。》
と明示されている。
著者は多忙の中で、このような日常のひとときを過ごされるのであるが、
カトリック教徒のひとりとして、
《・・毎年、四月の半ばから五月の初めまで、グループで、イスラエルへ行く。
(略)
イスラエルは聖書の舞台である。
新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、という4人の福音史家によって
書かれた四つの福音書を中心になりたっているのだが、
聖地は俗に第五の福音書と言われるほどである。
それほど現地を見ると、聖書が理解し易くなる。
(略)
イスラエルでは舞台は大きく二つに大きく分けられる。
死海を中心とする渇き切った荒野の南部と、
ガリラヤ湖とヨルダン河を中心とする北部の緑の多い地方とである。
(略)
・・死海を中心とする地方は、ところどころオアシスの緑に綴られているが、
つまりユダヤ教徒たちの意識にある「旧約の世界」である。
それは、勧善懲悪を実行する「怒りの神・妬みの神」の支配する世界だ。
しかしイエスという人が現れてから、
それまでの「眼には眼を」の復讐の原則を拒否し、
加害者に対しても愛と許しを基本とする「新約の世界」が生まれた。
ガリラヤ湖とヨルダン河の光景は、まさにその愛と許しの世界の象徴的な風景である。
・・》
注)本書の32ページ~34ページを引用。
原文にあえて改行を多くした。
私は東京郊外の調布市に住むの66歳の身であり、
生家は数多くの一般家庭にある仏教の一系統の曹洞宗であり、
そして神棚もある家で育ったが、宗教に無関心である。
朝のひとときには、陽射しに向かい、両手を合わせて太陽に感謝した後、
居間のビデオ・ケースの上に立てかけている書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に向い、
氏の遺(のこ)された名言を人生の生きた哲学のように、
ここ15年近く学んでいる。
そして日頃の私は、何かと独断と偏見の多い言動を、
人生の戒(いまし)めとして、反省しながら日々教示されている。
このようなことを殆ど毎朝、私の習性となっている。
私はキリスト教、イスラム教、仏教にも無知であり、
特にヨーロッパの書物、映画、音楽においては、
石の文明が前提であり、その上にキリスト教を抜きにしては理解できない、と解かっていても、
恥ずかしながら聖書を通読して読んだことがない。
そして無知なことを告白すれば、旧約聖書と新約聖書の相違も明確に知らないのである。
今回、本書のこの引用させて頂いた部分を読みながら、
私は二十歳前後に、映画舘で観たアンドレ・カイヤット監督の『眼には眼を』(1957年)の作品をはじめとする
欧米の歴史劇の10数本を思い浮かべながら、
著者の明晰あるイスラエルの風土、そして旧約聖書と新約聖書の相違などを多々教示されたのである。
わずか数ページの著者の綴りから、キリストの世界がおぼろげに判明し、
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