夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには『昭和の時代』に、老ボーイの私は限りなく愛惜を秘めて、微苦笑を重ねて・・。

2015-12-19 14:29:16 | ささやかな古稀からの思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の71歳の身であり、
確か一週間前の頃、読売新聞に於いて、出版広告として、倉本聰・著作の『昭和からの遺言』が掲載されていた。

《  僕らは貧しく、豊かではなかったが
          何となく今より倖せだった気がする。》

このような文面を読み、駅前に出た時、本屋に立ち寄って買い求めよう、と思ったりした。

テレビ・シナリオ、映画、舞台の脚本、随筆など多彩に活動されている倉本聰(くらもと・そう)さんの作品に
私は初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。

敬愛していた映画の脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオが掲載されていた。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本聰さんの作品に初めて知り、印象が残った。

やがて10数年後に私にとっては、倉本聰さんの数多くシナリオ、随筆などを殆どすべて購読して、
作品はもとより、生活信条、創作の考え方、環境問題等で、多々ご教示を頂き、信愛するひとりとなり、今日に至っている。
          

昨日、駅前に出て眼科医院に通院した後、本屋に立ち寄ったりした・・。
そして倉本聰さんの『昭和からの遺言』(双葉社)を手に取った後、
付近には半藤一利(はんどう・かずとし)・著作された『昭和史 戦後編1945==>1989』(平凡社)に気付き、
ここ十年ぐらい氏の愛読者となってきた私は、遅ればせながら購読しょう、と思い立ったりした。
          

昨夜から倉本聰さんの『昭和からの遺言』を少し読み始め、今朝、私の机には、この二冊の本がある。

そして小庭に降り立ち、ぼんやりと陽射しを受けたりしていた時、
私に取っては昭和19年(1944年)の秋に農家の児として生を受け、昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御されるまで、
私の『昭和』の時代は少なからず45年近く空気を共にしてきた・・と改めて思ったりした。

もとより私の自己形成は『昭和』の時代であったので、今でも過ぎし『昭和の時代』は愛惜を深めて、
ときおりあのようなことがあったよねぇ、と私は思い馳せることがある。
              

私は昭和19年(1944年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
                    

私が地元の小学校に入学する昭和26年(1951年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、所有していた田んぼの中に小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この頃の生家の周辺には、平坦な田畑、雑木林が続き、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、大人の人たちは国分寺崖、と称していた。

その後、私が昭和28年(1953年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の昭和29年(1954年)の5月に祖父も他界され、
農家に取っては肝要の大黒柱の2人が亡くなり、生家は没落しはじめた・・。

やがて昭和30年〈1955年〉の頃から、都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
そして私が小学校を卒業した昭和32年〈1957年〉であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、急激に新興の住宅街となり、周辺は大きく変貌した・・。
                                     

この間、祖父、父が健在だった時代、私が地元の小学校に入学する前の当時は、
周辺には幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。

幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私の生家でも、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
私は総天然色のカラー作品で、この『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
                         

こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気(ひとけ)のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と私は店主に言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡(ます)を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの多い時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に言いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべたりしながら、
薄暗くなった村道を歩いた。
しかしながら何よりも右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。

後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
                         

この頃、私は母に連れられ、年に一度ぐらい新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりした。
母は私と妹を両手につなぎ、末妹は乳児だったので背中にしょっていた・・。
そして京王線の『金子(現在・つつじが丘)』駅から『新宿』駅まで電車に乗ったりした後、
新宿三丁目まで歩いたりした。

そして伊勢丹(デパート)の階段の踊り場、或いは地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

こうした中で、ある時は母から私は勝手に手を放して、デパートの店内で迷子となり、
人形の売り場で半ベソになっていた私は、店員さんから救出されて、探していた母の元に行ったりした。
                   

私が小学校の高学年になると、映画に魅せられて、
付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと誘われて、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
                

このように私の小学生時代までの思いでは、走馬灯のように思い浮かび、
その後の地元の中学時代、そして都心にあこがれ始めた高校時代・・など限りなく、
昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御された当時の私は、
中小業の民間会社で情報畑で悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であり、
もとより私にとっては『昭和の時代』は、あふれるように愛惜を重ねたりするが多いのである。
                    

過ぎ去る年の昭和63年(1988)年の晩秋、私はこの頃、音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして昭和64年(1989年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

この後、私はいつものように会社に出勤した後、
フロアー別の朝礼の時、専務取締役のひと言で、私たち一同は皇居の方面に向かい、黙祷をしたのである。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。
         

もとより敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。


私たちが過ごしてきた昭和の時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中でバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
やがてソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変し、
世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。
そして私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。
         
      
こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めて、
お母さんは専業主婦で家庭を守る中で、子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、大学まで学び、
やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
          
          
こうしたことを思いつくまま昭和の時代を思い馳せたりし、
平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。

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