上の写真は、成田空港の出発ロビーで買った星野道夫「長い旅の途上」の中の、”クマの母子”という随筆に添えられていた。写真をみてすぐに宮澤賢治の「なめとこ山の熊」を思い浮かべた。
星野道夫のことを知ったのは、当時家族で観ていた「どうぶつ奇想天外」のカムチャッカロケでクマに襲われて死んだというニュースが流れた時だった。その時は、なんて無謀なロケをするんだろうという印象を持ったように記憶している。それはこの写真家とテレビ局の双方に向けて持った印象だった。事故は1996年のことで、その顛末はwiki星野道夫に詳しく書かれている。
星野道夫のことはそれっきり記憶の彼方に消えていたが、2~3年ほど前から、宮沢賢治に興味を持つようになって、いろいろなところで星野道夫の名前を見るようになった。山折哲雄も「デクノボウになりたい」で星野のことを取り上げていた。賢治の自然観と星野の自然観は同じだったのかということが知りたくて、テレビで取り上げられた彼の生き方を見たり、随筆「旅をする木」を読んだりした。NHKだったと思うがその番組では、星野は賢治と同じ自然観を持っていたと解説していたように記憶している。ただ、彼の随筆「旅をする木」、「長い旅の途上」には賢治に直接言及する部分はなかった。
星野は、氷に閉じ込められたクジラを救出した話が美談として世界中に流れたときに、クジラが氷に閉じ込められることは昔からあったことで、クジラが周辺を徘徊するホッキョクグマなどの多くの野生動物の生命を支えるとともに、エスキモーにとっても自然の贈り物だとエスキモーの古老が嘆いたという話を伝えている。
「長い旅の途上」の中の「狩人の墓」という章で、エスキモーといっしょに伝統的なクジラ猟に出かけた星野は、小さな舟でクジラを追い、氷上に引き上げたクジラを囲んで祈りをささげ、解体後に残されたあご骨を海へ返しながら、「来年もまた戻って来いよ!」と叫ぶエスキモーの姿を語る。自然保護や動物愛護という言葉に魅かれたことがなく、狩猟民のもつ自然観の中に大切ななにかがあると気づいていた星野自身の自然観は以下のことばに集約されているように思う。
- 私たちが生きていくことは、だれを犠牲にして自分が生き延びるか、という日々の選択である。
- 極北の風に吹かれていると、有機物と無機物、いや生と死の境さえぼんやりとしてきて、あらゆるものが生まれ変わりながら終わりのない旅をしているような気がしてくる。
「なめとこ山の熊」で猟師の小十郎は、生活のためにクマを殺し、クマに殺されることを泰然として受け入れる。賢治やエスキモーや星野にとっての自然との共生は、生だけでなく死をも共有することなのである。アラスカで多くの生と死をずっと見続け撮り続けていた星野は小十郎と同じ最後を辿るのである。