備忘録として

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キトラ古墳

2009-08-15 13:28:58 | 古代
今月初め、文化庁は修復のためにキトラ古墳から剥がした壁画を元に戻すのを事実上あきらめた。高松塚古墳の壁画を劣化させてしまったように、現地保存技術がないことは明白なのだから、”何を今さら”観が強い。

高松塚古墳とキトラ古墳と、同時代で被葬者と築造年がほぼ確定している天武・持統天皇陵(野口陵)を比較してみた。いずれも646年の薄葬令以降に築造されたと考えられている。



我々は高松塚とキトラ古墳の壁画の鮮やかさ、豪華さに驚かされたが、両古墳の被葬者より位の高い天武・持統天皇陵には壁画がない。盗掘された副葬品が豪華で、壁画はそれほど重要ではなかったということか。あるいは、たまたま天武・持統陵に壁画がないだけで、他の天皇陵から豪華壁画がぞろぞろ出てくるかもしれない。宮内庁は早く他の天皇陵の発掘調査を許可すべきだと思う。

薄葬令とは646年(大化2年)に出された詔で、墳墓の縮小化、簡素化を規定したものである。薄葬令前後の陵墓を以下に比べてみた。

621年聖徳太子 磯長(しなが)陵 円墳(径55m)
628年推古 山田高塚古墳 方墳(63mx55m)  
641年舒明 段ノ塚古墳 上八角・下方墳(80mx110m)
---646年薄葬令---
654年孝徳 磯長陵 円墳(径32m) 
661年皇極・斉明 車木ケンソウ古墳(他説あり) 円墳(径45m) 
672年天智 御廟野(山科)陵 上八角・下2段方墳(上辺46m、下辺70m)
687年天武・持統 上八角・下方墳(45mx50m)

薄葬令前後では、薄葬令直前の舒明陵だけが、他の陵墓に比べ例外的に大きく、推古陵は、薄葬令以後と比べて舒明陵のように大きいわけではない。推古が女帝だったから小さく作られたのか、馬子の墓と言われる石舞台古墳から推定されるように蘇我氏の古墳のほうが大きかったのかもしれない。

孝徳天皇陵は中大兄皇子らに難波に一人見捨てられた後に亡くなったことを反映したのか、かなり小さい。一方、天智陵の規模はそこそこ大きい。日本書紀にあるように斉明天皇は薄葬令以降も民衆から怨嗟の声が出るほど土木工事を好んで行っているので、薄葬令は華美を禁止したり経済的な理由で出されたものではないことは明らかである。その頃、官制の大きな仏教寺院が多く作られているので、持統天皇をはじめ火葬が普及し始めたように葬儀を仏教色に変えていこうという宗教的な理由か、天皇陵への適用を目指したものではなく臣下の墳墓の巨大化を規制するための詔だったようだ。

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