9月の秋分の日の連休に、台湾あたりで猛威をふるっていた台風13号が心配だったが、母、妻、娘二人が隠岐旅行に行った。妻が計画し、旅行のしおりをつくった。上の絵手紙はしおりを描いた母の作品である。父が旧日本軍の恩給として10万円の旅行券をもらったのを、母が譲り受けて孫たちに旅行を呼び掛けたのである。
隠岐には太平記の後醍醐天皇や承久の乱で有名な後鳥羽上皇が流され、平安時代には小野妹子の祖父である小野篁(たかむら)が流されている。梅原猛によると柿本人麻呂の長男が流されたという伝承もあるらしいが、旅行ガイドや事典には載っていないし、ネットでも見当たらなかった。後醍醐天皇と小野篁は隠岐から出ることができたが、後鳥羽上皇は配流先で崩御し顕徳院と諡(おくりな)されている。流されたり非業の死を遂げた天皇には皆”徳”の字をつけて怨霊になって災いを及ぼさないようにしたことは以前、崇徳院の巻で書いた。もしかしたら、天皇家は今も怨霊を信じ鎮魂の儀式を行っているかもしれない。
小野篁は遣唐副使に任ぜられたが正使と諍いを起こし朝廷の命に従わなかったため嵯峨天皇により配流せられた。
わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟
百人一首にある小野篁のこの歌は、隠岐に配流されるときに詠んだもので、「海原に浮かぶ島々に向かって漕ぎだしたことを都の人々に伝えておくれ海人の釣り船」が現代語訳である。小野篁は1年半で罪を許され都に帰っている。
後鳥羽上皇は幕府追討を目指した承久の乱に敗れたため1221年に隠岐に遠流せられた。上皇はそのまま隠岐で1239年に崩御したので19年間隠岐にいたことになる。
後醍醐天皇は、倒幕軍を挙げたが敗れ、1332年に隠岐に流された。翌年、隠岐を脱出し足利尊氏や楠正成の助けを借りて鎌倉幕府を倒し親政を敷いた。その後、足利尊氏は離反し別の天皇を擁立(北朝)して室町幕府を開く。後醍醐天皇は吉野に南朝を開き幕府に対抗した。
4人を松江まで送って行き、松江城堀端の八雲庵で名物の鴨南蛮そばを昼食に食べた。これは絶品である。鴨の脂が浮いている透明のスープは、あっさり風に見えるがコクがある。そばはもちろん出雲そばでこしがある。これにトビウオのかまぼこの野焼きを添えると最高で、さらに贅沢にも割子そばがつく。昼食後、足立美術館まで足を延ばした。夕方、私は広島にとんぼ返りして、Fuku(ダックスフント8歳)と留守番であった。4人は隠岐で、あわびのしゃぶしゃぶを食べたらしい。