備忘録として

タイトルのまま

墨子

2011-12-11 17:09:15 | 中国

数年前、「墨攻」という中国映画?を観たことがある。墨家の男が大国の侵略から小国を守る話で、日本の漫画が原作だった。小国を墨守した墨家の男に信頼があつまりそれを妬んだ国主やその側近に裏切られる話だったと記憶している。そのときは諸子百家を読み始める前だったので特に墨子あるいは墨家の思想に何の興味も覚えなかった。

墨家は戦国期には儒家と並ぶほどの大きな勢力を持ち、鉅子(きょし=統率者)に率いられた武装技術集団として守城を請け負っていたらしい。あるときは守城に失敗し責任をとって墨家180人が集団自決したこともあったという。

”孔、墨は大道を世に行わんとするも、而して成らず。”(呂氏春秋=雑家)とか、”儒、墨は皆、先王は天下を兼愛すれば、則ち民を得ること父母のごとしと称す。---仁の以て治の為すべからずや、また明らかなり”(韓非子=法家)のように、墨家は儒家と並べて他家より非難されている。また、荘子にとっては、”儒家や墨家などの既成の思想は、現実にとらわれた小ざかしいあがきにすぎない”ということになり、孟子は”墨子の兼愛は父を無視することで、父を無視し君主を無視することは鳥獣にほかならない。”などと述べ、墨家の博愛主義に抵抗し反撃するのが自分の使命だと公言している。また、荀子は、墨家の説を、”墨家の「非楽」が天下を混乱させ、墨子の「節用」が天下を貧窮させる。”と真っ向から否定している。このように同時代の思想家から批判されるということは、戦国後半200年の間、墨家は相当な勢力を持っていたということである。しかし、秦以降、その姿が歴史から消える。

道家の思想は形而上学的に深遠で面白いし、儒家は身近な問題を道徳面や精神面からとらえて興味深いのだが、どこか実用面で現実から乖離しているように感じていたので、行動する墨家ってそんなに悪くないのではとずっと思っていた。そこで、今回、浅野裕一の「墨子」を読んでみた。

墨子は、本名を墨翟(ぼくてき)といい紀元前450年から390年頃に活躍した。孔子と同じ魯の出身で下級武士だったのではないかと浅野は推論している。墨子の思想は、尚賢、尚同、兼愛、非攻、節用、節葬、天志、明鬼、非楽、非命の十論に、非儒、経上、経説、公孟、公輸、号令などを含む53編にまとめられている。

尚賢 

国家の為政者に賢者を登用しろと説くものである。賢者とは、統治者の価値基準に合致し努力するものすべてを指す。能力ではなく意志であり、国家の方針に従順な良民で実務をよくするもののことである。これに対し、同じく賢者を登用しろという儒家における賢者は、墨家の賢者とは異なる。孟子は、賢者であるべき統治者には統治者の仕事があり、直接的な生産活動から排除されるべき存在であるとし、荀子は、身分秩序を明瞭にし、賢者は文飾によって一般民と区別されるべきだと述べる。儒家の賢者の定義はあいまいで、賢者が国を治めればすべてうまくいくという抽象論に終始する。墨家の尚賢論は国家の強化策としてはより具体的なのだが、それでも法家からみれば個人的な賢智に頼って国家・社会を運営しようとする点において、まだ甘いのである。

尚同

各統治者階級にいる仁者である賢者は下位のものの手本であり、皆がそれに従えば国家は統治できるという考え方である。実行に際し賞罰が必要という立場では法治主義の法家に似ているが、仁を中心とする点では儒家の徳治主義と同じである。

兼愛

自他を公平に愛せよ。利己主義は争乱のもとであり、愛は世界を救うという思想である。しかし、墨家の愛は他者に惜しみなく与えるキリスト教の博愛のような積極的な愛ではなく、他者より利益を奪わないという程度の消極的な愛である。

非攻

他国を攻めない。”今の世の君子は、小規模な悪事はそれを犯罪とするが、他国に侵攻すればそれを悪事だとは認識して非難せず、これぞ正義だと吹聴している。ーーー世界中の君子たちが正義と不正義との識別について錯乱している。”と2000年以上も前に墨子は指摘している。しかし、この理論は本質性、普遍性、純粋性において優れてはいるが、当時の君主にとっては現実的な説得力を持たなかったのである。だから現在も同じことが繰り返され、好戦的な政治家は自分の行為を”正義と自由の戦いだ。聖戦だ。民主主義を守る。”などと正当化するのである。

節用

倹約し富国を目指す。自国内の経済だけでは絶対量が不足しているという墨家の認識に発するもので、節約しなければ他国を侵略して富を得るとという発想を恐れたのである。荀子は、実用一点張りの貧乏性、節約だけの消極主義と墨家の経済政策を激しく非難する。派手好みの孟子は節用をもっとも嫌っただろう。儒家による非難は、儒家が自身を文辞や儀礼によって美化・装飾する稼業であり、それがなければ儒者の存在意義が失われるという危機感に発している。

節葬

派手で長期の葬儀は生産を著しく低下させる。苦労して生産した富は死者のためではなく生きている人々のためにこそ用いるべきであるとする。3年のあいだ喪に服すという儒家の考えとは対極にあり、両者のあいだでは激しい論戦が繰り返された。

天志

絶対者(上帝)の意志は兼愛、非攻を地上の人間に実践するよう求めている。とする。

明鬼

上帝の意志に逆らうものは鬼神に懲らしめられる。お天道様がみてるぞという脅しである。荀子は”天人の分”を唱え、人と天は不可分の領域にいて、人は人事を尽くすのみであり天に祈っても何の効果もないとする。墨家は目的達成のためには手段を問わない現実主義者であり、非現実的ではあるが必要だから天志とセットで鬼神を持ち出したのである。

非楽

音楽に浮かれるのは亡国だと儒家を批判する。音楽で人の不幸は救えない。墨家は非楽の中で、自然は過酷であり人間は作為なくしてその中で生存できないと説く。これは荀子の天人の分の論理形成に影響している。

非命

絶対的信頼の天の意志(受命)は人為的努力によって果たされなければならない。墨家は受命は肯定するが、人為が及ばない宿命論は否定する。しかし、世の中には不条理なことが満ちているのである。

非儒

孔子は詐欺師であると孔子本人を人身攻撃する。儒家は功利的で権力にすりより時流に乗ろうとするご都合主義である。狭量と言われても自己の信条に忠実に行動する墨家としては、そのような儒家の態度が許せないのである。墨子は儒子の一人を論破する。

公輸

楚の公輸盤(こうしゅはん)は雲梯という攻城用の機械を製作し、隣国の斉を攻めると聞いた斉に雇われた墨子は、その使用を阻止しようと楚に行き公輸盤と楚王を説得する。墨子が優秀な弁論家および兵法家であることがわかる。この話を題材に、魯迅は「非攻」という作品を書いている。

号令

墨守。城を防衛戦での兵士や一般市民の軍律が示される。平時の社会治安維持と守城戦時の軍律維持の移行関係を墨家は強く念頭におき、法治国家の実現を目指した。戦争に直面する墨家は、儒家や道家の説く理想主義や観念主義とは、ここにおいて隔絶するのである。

墨子の文章はしつこい。ひとつの論をいろいろな状況を設定して解説するのだが、理屈ばっかりで面白味に欠けるのである。自分の書く文章のようだ。比喩や寓話や説話の多い儒家や老子や列子に比べると、面白くないのが際立つ。ただ1篇、魯迅が題材にした公輸だけは面白かった。墨子の思想は城を守る集団の存在意義や儒家との対比の面ではいいかもしれないが、君主を説得するには儒家と同じで理想論的すぎる。天志や明鬼は軍事集団を統率する思想としては幼稚すぎて、こんなもので組織が統率できたとは思えない。だから必然的に号令に示す軍律を前面に出した法家思想に向かうことになるのは自明だったと思う。


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