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救世観音

2012-04-15 21:19:22 | 古代

法隆寺夢殿の救世観音像の公開が4月11日より始まった。

聖徳太子の姿ほうふつ 救世観音菩薩立像の特別開扉 (2012年4月12日  読売新聞)

奈良県斑鳩町の法隆寺で11日、夢殿(国宝)本尊の秘仏・救世観音菩薩くせかんのんぼさつ立像(同)の特別開扉が始まった。5月18日まで。像は飛鳥時代の作で、同寺を創建した聖徳太子の姿を写したとされる。明治時代までは白布に包まれていたが、現在は毎年春と秋に期間限定で公開している。 この日朝から僧侶約10人が法要を営み、安置されている厨子ずしの扉を開くと、全身に金箔きんぱくが施された高さ約1・8メートルの像が姿を現した。訪れた北九州市小倉南区、無職山本秀之さん(77)は「ありがたい気持ちになり、思わず手を合わせました」と話していた。

神秘のお顔に会える - 救世観音立像の特別開扉/法隆寺 (2012年4月12日 奈良新聞)

斑鳩町の法隆寺で11日、夢殿(国宝)の特別開扉が始まり、聖徳太子の等身といわれる秘仏・救世観音立像(同)の厨子(ずし)が開かれた。5月18日まで。救世観音立像は高さ約178センチの木像で、宝珠を手にして立つ姿。絶対秘仏だったが、明治17年、岡倉天心とフェノロサによって厨子が開かれた。以来、春と秋の年2回公開され、神秘的な顔立ちが多くのファンを引き付けている。この日は、大野玄妙管長らが午前8時から法要を営んだ後、厨子の扉が静かに開かれた。横浜市から初めて訪れた寺沢慎さん(61)は「法隆寺の象徴ともいえるお像が拝めてよかった。夢殿の洗練された雰囲気にも感動しました」と話していた。

聖徳太子の等身像と言われる救世観音像は、明治時代フェノロサが強引に開扉させるまで、1100年間誰も見たことのなかった秘仏である。梅原猛は自著「隠された十字架」の中で、救世観音が白い布にミイラのように包まれて開帳を禁じていたこと、光背を支える棒が像の後頭部に釘のように突き刺されていること、木造の救世観音の後ろ半分がなく空洞(うつろ)であること、八角形の夢殿は墓であること、などから聖徳太子の怨霊を封じ込めたものであるとしている。

フェノロサは、救世観音を”モナリザの微笑に似なくもない、鋭い鼻、まっすぐの曇りなき顔、幾分大きいーほとんど黒人めいたー唇、その上に静かな神秘的な微笑が漂うている”と表現している。

「古寺巡礼」で和辻哲郎は、フェノロサがモナリザの微笑にたとえたことに反対し、”暗い背景は感じられない、人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い精神の陰影もない、ただ素朴で、しかも言い難く神秘的”と言っている。

ところが、「大和古寺風物誌」で亀井勝一郎は、救世観音と太子一族の悲劇を重ねあわせ、”神々しい野人、どこか凶暴な、何かを懸命に耐えている、復讐の息吹のごとく、荒々しい捨身への示唆のごとく、永遠の慈心のごとく、無念の情を告ぐる怨霊のごとく”などと形容し、和辻とはまったく異なる印象を救世観音に持った。梅原猛が後日感じたと同じものを亀井は救世観音に感じ取っていたのである。

写真(Wiki)の救世観音の顔は、亀井が感じ取ったように”慈悲の微笑み”にも”不気味な笑み”にも、見る人間の心情を反映して見えるのかもしれない。救世観音に一種の不気味さを感じるのは聖徳太子一族の悲劇を知っているものの先入観によるものだけとは言えないように思う。

 


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