極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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蛍の光と防人(さきもり)

2017-12-31 13:16:24 | 戦後

以下文は何故、蛍の光3,4番が歌われないかの疑問から記したものです。ウィキペデイア等々を参考にしていますが個人の解釈でもあります。万葉集については解釈が難しく可笑しな文が多々あると思います。雑文とします。

 

今年も残すところ数日となりました。

年末の恒例のNHK紅白歌合戦・・・最後は蛍の光で幕を閉じますが1、2番の歌詞しか歌われません。

蛍の光は3、4番まで歌詞がありますが戦後、この3、4番の歌詞は占領政策等としてGHQ等が好ましくないとの理由で規制したとも言われ、多くの方は蛍の光に3、4番の歌詞があることさえ知りません。現在は残念ながら蛍の光3、4番の歌詞が歌われることはありません。

蛍の光3、4番の歌詞は、私達に男性は国を守る、女性は家を守ることの大切さ等々を歌った、「防人」を送る歌とも言われています。台湾では今でも3・4番の歌詞も歌われることがあるそうです。

防人(さきもり)とは、日本の古代の兵役の一つで、「さきもり」とは「崎守」の意味のことです。

660年、百済(大和朝廷側)が唐・新羅軍に急襲され滅亡、大和朝廷は外交の転換を余儀なくされました。大和朝廷の対朝鮮外交は白村江(日本の敗北)の戦をもって終止符が打たれました。
日本は朝鮮半島から引き上げましたが中国、朝鮮半島から唐等の日本への来襲を予想していたようです。

これらの来襲に備え、約3千人の兵達を筑紫、壱岐、対馬に常駐させました。任期は3年、主に東国(関東地方、東海地方、静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指の東海道、東山道地域(青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀の各県を合わせた地域)の農民たちが徴発されたようです。

律令制(主として奈良~平安時代 に施行された律令法に基づき公地公民制を基礎とする中央集権的官僚体制)では21~60才の男子は3年間の防人の軍役につく義務があり、その大半は筑紫地域、大宰府等に配置,筑紫地域の内外の軍事に活用されています。
防人の生活は60日間軍役、他は主に農業生活だったと言われています。
刀、剣、弓箭(きゅうせん・弓と矢)を主とする装備で、弩(弓の反発力を利用した兵器)を中心にした軍事拠点の兵力として用いられたようです。
東国からの防人の補給は難しく停止、復活を繰り返し、826年には選士(奈良・平安時代、大宰府に属し、国防・警備に任じた兵士で富豪の家の子弟から選抜されたようです。)、衛卒(警備を任務とする兵士)制に移行、防人制は無くなりました。

「防人」は出発のとき父、母、妻子らと歌を詠みかわしたり、旅の宴席等に歌を作ったりする伝統があったようです。これらの詩は家族との別れを悲しむ歌、家を思い、家人を恋しく思う歌が多いようです。

戦後、長き時間が過ぎました。蛍の光3・4番の歌詞は現代日本人が忘れてしまった、防人の心を訴えかけているように思います。

 

明治14年、日本で初めての憲法が公布された年です。

国際法という新しいルールが世界中に広まって言った時期とも言われています。それまでは領土、人が何処に属しているかは曖昧(あいまい)だったようです。

蒙古襲来等々以来、古来多くの日本武士は領土等を守るため命をかけ戦っています。男性が国を守り、女性が家庭を守ることは極自然でこの役割は自然であり崇高な役割に思えます。

有名な万葉集には蛍が多く出てきます。この蛍を枕詞等々に使用したのが蛍の光の歌詞と思います。

蛍の光は、万葉集の相関歌(そうもんか:万葉集では親しい男女の詩で、互いに相手の様子を尋ね、消息を通わせ合います。夫婦・親子・兄弟姉妹・友人など親しい間柄で贈答すると言われています。)と思います。

夜に点滅するホタルの光は幻想的で古来から日本人の心を魅了、霊的にとらえているようにさえ思います。蛍は古来から私達に様々な感慨の念を持たせていたと思います。蛍の光は、国土防衛の任に向かう夫婦が相聞歌として歌うようになっていると思います。

 

防人(さきもり)と蛍・万葉集

(作者不詳 万葉集 巻13 3344)

この月は 君来まさむと 大船の 思ひ頼みて いつしかと 我(あ)が待ち居(を)れば 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまずさ)の 使ひの言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地(おおつち)を 炎と踏みて 立ちて居て 行くへも知らず 朝霧の 思ひ迷(まと)ひて 杖足らず 八尺(やさか)の嘆き 嘆けども 験(しるし)をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲(あまくも)の 行きのまにまに 射ゆししの 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに  音(ね)のみし泣かゆ。

今月はあなたが帰ってこられると、頼みに思って、いつかいつかと心待ちにしていると、はかなく死んでしまったと使いの者がきて言うので、ほのかにその言葉を聞いて、大地をまるで炎の上を踏むように飛び上がり、踏んで、立ったり座ったり、何処へ行けばいいのかわからず途方に暮れ、思い迷って、八尺にも及ぶ長いため息をついて、嘆いても何の甲斐もないので、いったい何処にあなたはおいでになるのだろうと、幾後に従って、行って死のうと思うけれども、道がわからないので、ひとり居てあなたを恋い慕っていると、声が出て泣けてしまう。

この歌は、防人の妻が夫の死を伝えられて嘆き苦しむ歌で、この中のほのかと言う言葉は、枕詞としてホタルが使用されています。このように蛍は、古来日本人にとっては特別の意味をもって歌われているように思います。

 

蛍の光の歌詞は、蛍を原題とした詞が明治以前からあったとも言われていますが今、歌われている蛍の光は1881年、東京師範学校の教員、稲垣千穎(いながきちかい)氏が作った替え歌(1番と2番)と言われていますが・・・

稲垣 千穎氏は1845年生まれの国学者、教育者、唱歌作詞者、教科書編集者です。1880年(明治13年)、東京師範学校校長で音楽取調掛長を兼務していた伊沢修二氏の要請により、音楽取調掛に就任(兼務)、日本最初の音楽教科書・小学唱歌集 初編の作詞に携わっています。稲垣千穎氏が蛍の光作詞者である根拠は?詞は一応、稲垣千穎氏にしておこうでしょうか・・・

1881年(明治14年)7月に宮中で天皇に大臣参議らが陪食(身分の高い人と一緒に食事をすること。)を許された際に、宮内省の楽人、芝葛鎮(しばふじつね)氏、小篠秀一(こしのしゅういち)氏らが音楽を演奏しています。

伊沢修二による当日の演奏楽曲の解説、唱歌略説には、蛍の光の項に次のような記述が残っています。

「此曲ハ蘇格国土ノ古伝ニ出テ其作者ヲ詳ニセズ。然レドモ其意ハ告別ノ際自他ノ健康ヲ祝スルニアリトス。其調ハ我国ノ双調呂施ニ異ナラザルモノ也。其歌ハ東京師範学校教員稲垣千頴ノ作ニシテ、学生ラガ数年間勧学シ蛍雪の功ヲ積ミ業成リ事遂ゲテ学校ヲ去ルニ当タリ、別ヲ同窓ノ友ニ告ゲ、将来国家ノ為ニ協心尽力セン事ヲ誓フ有様ヲ述ベタルモノニテ、卒業ノ時ニ歌フベキ歌也。」

 

蛍の光の原曲
「オールド・ラング・サイン:old long since=昔むかし」は、地元スコットランドでも広く親しまれ、さまざまな集まりにみんなが輪になって歌うそうです。

2番になると、少しテンポが上がるのも特長で懐かしい仲間との再会を祝して杯を酌み交わそうと歌われています。
作詞はロバート・バーンズという高名な詩人で、スコットランド古謡を元にして1788年に発表しています。

Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne?

(CHORUS:For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne)

 

And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
(CHORUS)

And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
(CHORUS)

旧友は忘れていくものなのだろうか、古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。
(コーラス)

友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

我らは互いに杯を手にし、いままさに、古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。
(コーラス)
我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。
だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの
距離を隔て彷徨っていた。
(コーラス)
我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。
だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
(コーラス)
いまここに、我が親友の手がある。
いまここに、我らは手をとる。
いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。

日本に紹介されたこの歌は、稲垣千頴氏によって、原詞とはまったく異なる歌詞(明治以前の歌詞を参考)が付けられています。これが「蛍の光」となり(元々は、蛍)、卒業式等での別れの場等の名曲として歌い継がれてきたようです。

以下文訳は、素人の私が歴史的背景、蛍等々の詞を一部参考に訳したものです、可笑しい箇所があるかも知れません。

 

蛍の光(防人「さきもり」を送る男女の歌、相聞歌「そうもんか」)

1 蛍の光、窓の雪
書(ふみ)読む月日、重ねつつ
いつしか年も、すぎの戸を
開けてぞ今朝は、別れ行く

(貧しく、苦しくとも共に苦労して頑張ってきたが、いよいよお別れの時が来ました。明けて、今日の朝、あなたは国を守る任のため、お別れです。)

 

2 止まるも行くも、限りとて
互(かたみ)に思う、千萬(ちよろず)の
心の端(はし)を、一言に
幸(さき)くと許(ばか)り、歌うなり

(故郷にとどまる妻も、国の守りに旅たつ夫も、今日を限りとして別れて行きます。だから、かたみも心の端に、どうかご無事で。)

 

3 筑紫の極み、陸(みち)の奥
海山遠く、隔つとも

その真心は、隔てなく
一つに尽くせ、國の為

(筑紫「九州」や陸「東北」は、海や山によって遠く、隔てていても、互いの二人の真心は隔てることはありません。どうかお国の守りに尽くしてください。)

 

4 千島の奥も、沖繩も
八洲(やしま)の内、護(まも)りなり
至らん國に、勲(いさお)しく
努めよ我が背、恙(つつが)無く

(千島も、沖縄も日本の国です。国の至る所で、勇気をもって私達の国を守ってください。お元気で、功を立て、ご無事で任務を全うして下さい。)

 

「やしま」=八島、八洲

「いたらんくにに」=国の至る所

「いさおしく」=勇ましく 

「せ」=背、夫、兄、兄弟、友

「つづがなく」=お元気で

 

戦後の長き年月が過ぎました。

多くの人達に、国を守る古来の詩でもあると言われる蛍の光3、4番の歌詞が歌われることを願っています。

 


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