極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

日本本土と沖縄は同胞

2017-12-07 17:00:12 | 日本社会

以下文は、ウィイペディア、Hosei University Repository「為朝伝説と中山王統」・矢野美紗子等々を参考としていますが、素人が記したまとまりの無い文となってしまいました。プログ雑記とします。

 

沖縄と言うと民族的にも全く違うと思いがちですが、同胞であるという言葉が自然だと思います。昭和以降、本土と沖縄との類似性の研究も多くなったように思います。

源為朝(みなもとのためとも)・琉球渡来伝説が最初に確認されるのが「鶴翁字銘井序」です。京都、建仁寺・南禅寺などに住した五山僧である月舟寿桂(~1531年)が琉球出身の僧、鶴翁智仙から聞いた琉球の情報などを記したものです。昨今では本土、沖縄、アイヌ等のDNAの研究でも面白い結果がでています。沖縄と日本本土は同胞であると言えそうです。

 

沖縄以外の人が山内盛彬(やまうち・せいひん)と聞いても分からないと思います。沖縄県出身、東洋音楽学校(現東京音大)卒で昭和時代の沖縄の音楽研究家

明治生まれで祖父・山内盛熹(せいき)から琉球の三線(さんしん・沖縄音楽には欠かせない楽器、琉球王朝時代中国から伝わった楽器を琉球人の体型にあわせて棹の長さなどを調整しています。音もカタチも沖縄独特の楽器です。)を伝授されています。昭和56年技能保持者に認定、沖縄音楽を五線譜に採譜した功績は大きいと言われています。

元・琉球国際大名誉教授で、昭和61年死去96才でした。主な著作には琉球王朝古謡秘曲の研究等々があります。特筆すべきは沖縄音楽、沖縄の言葉、方言等の研究により「平家」と沖縄の言葉の類似性を述べられていました。

 

一説では琉球と関わりがあるとされる、源為朝は平安時代後期の武将で為義の第8子で、母は江戸の遊女とも言う説があります。

源為朝は弓の名人、13才の時父の不興を買って京都を追われ九州に・・・肥後の豪士の阿曾忠国の婿となり鎮西八郎と称していたようです。九州では合戦、略奪を繰返し勢力を伸ばしたとも言われています。朝廷では為朝を京都に召し返そうとしたが聞き入れなかったため1154年、父・為義は解官されました。

これを知った為朝はやむなく上京、保元の乱では父とともに崇徳上皇側として平清盛,兄義朝軍と戦い敗れ、近江で源重貞に逮捕され伊豆大島に流されたと言われています。伊豆大島でも略奪、乱行があり伊豆介工藤茂光に攻められて自殺したとされていますが、一説には琉球に渡って琉球王朝の祖となったと言われています。昨今、この説は補強されているように思います。

源為朝の子孫とも言われる琉球の舜天・・・舜天を祖とする王統の通称名で11187年~1259年、3代73年続いたとされています。

琉球正史の「中山世譜」(琉球王国の代表的な歴史書、漢文で書かれた歴代国王の伝記を中心としており、中国との関係を中心にまとめた部分(正巻)と、薩摩藩など日本との関係を中心にまとめた部分(附巻)とに分かれています。)によれば各王の姓を、「源」としています。初代・舜天の父とされるのは「鎮西八郎・為朝公」(源為朝)と言われています。やはり、琉球の正史として記載されている事実は無視できないでしょう。

この話がのちに曲亭馬琴の「椿説弓張月・ちんせつゆみはりづき」(曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本、文化4年(1807年)~同8年(1811年)にかけて刊行で全5篇、保元物語に登場する強弓の武将・鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描き勧善懲悪の伝奇物語で「南総里見八犬伝」とならぶ馬琴の代表作)を産んでいます。

日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき大正11年には沖縄本島・本部半島の北側の運天港には為朝上陸の碑が建てられています。碑の表側に上陸の碑と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した、日露戦争で有名な名将・東郷平八郎の名が刻まれています。

 

「中山世鑑」を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べています。この説は、昨今では研究者が増え説が補強されていると言われています。

真境名安興「真境名安興全集」第一巻19頁参照、元の文は「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀~12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されています。

日本列島には古来からアイヌ、熊襲等(20以上の有色人種の多民族)の原日本人が関東、九州等に住んでいましたが大和朝廷に押しやられてアイヌが北の蝦夷地等へ、熊襲が南へ追いやられ琉球列島に移動したと考えるのが自然にも思えます。元を辿れば同族とも言えると思います。この両者は移動したため渡来した弥生人の混血が少なかったように思います。昨今のアイヌ、沖縄のDNA鑑定では面白い結果が出ています。これらの事実から日本は少なくとも20以上の多民族国家の流れがあると言えそうです。

総合研究大学院大学と東京大学は2012年11月1日、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)のゲノム解析により、現代日本列島人は、縄文人の系統と、弥生系渡来人の系統の混血であることを支持する結果を得たとし、アイヌ人から見ると琉球人が遺伝的に最も近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示されたと発表しています。

成果は総合研究大 生命科学研究科 遺伝学専攻教授を兼任する国立遺伝学研究所 集団遺伝研究部門の斎藤成也教授、東大大学院医学系研究科 人類遺伝学専攻分野の徳永勝士教授、東大大学院 理学系研究科・理学部の尾本惠市名誉教授らの研究グループによるものです。研究の詳細な内容は2012年11月1日付けで英国学術誌「Journal of Human Genetics」オンライン版に掲載されています。

 

「中山世譜」によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたと言われています。

舜天王統は浦添城を居城としていたと伝えられています。首里に遷都したのは察度王統もしくは三山統一後の第一尚氏王統と言われています。

「中山世鑑」では舜天以降、琉球国中山王を継承したとしていますが、「琉球国中山王」と君主号を自称したのは、明の朱元璋から招来を受けた察度が始まりとされ次代の武寧以降から、明より「琉球国中山王」として冊封(中国皇帝の家臣として皇帝の保護下に入り、皇帝の権威の元に王としての権力を保持)を受けています。

舜天王統が統治していたとされる頃は小規模のグスクが各地に点在、沖縄本島全域を支配した人物は存在しなかったとされ、浦添を拠点とし沖縄本島中部地域に影響を及ぼしていたと考えられています。

 

喜舎場一隆(元・琉球大学教授)談

舜天王統はそれ以前の伝説的王統とは異なり、少なくとも実在した王統の祖とされ、その舜天は源為朝が長寛三年三月に大島を脱出して鬼ヶ島に渡り、沖縄北部の運天港に上陸

豪族・大里按司の妹と通じて尊敦(そんとん)を生み、その尊敦が舜天であるがこれは「鬼ヶ島=琉球」説から始まり、これらは向象賢の「中山世鑑」(1650年編纂)に明記されているが源為朝の伝承は1609年の薩摩の琉球侵入以前からすでにあり、袋中の「琉球神道記」、1543年の「かたのはなの碑」、1546年の「漆継御門北之碑」などの碑文記にも明記、「中山世鑑」を溯ること100年以前にはすでに存在、薩摩の琉球侵入後に「日琉同祖論」を提唱した向象賢の作為とも断定できないが舜天の実在についての疑問は舜天の活動期がオモロの盛行期の13世紀初頭でありながら、他の四王統(英祖王統・察度王統・第一尚氏・第二尚氏)の始祖がオモロ(古代琉球人の民俗・信仰・労働などを歌った幅の広い叙事詩)で聖王として謡われているのに対して舜天が脱落していることであり舜天の実在はオモロからすると否定的に考えられるが、1543年の碑文記に「大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ」と明記されている以上、舜天の実在はまったく否定することもできないと述べています。

 

有名な寿永四年(文治元年・1185年)3月24日の壇ノ浦の合戦

平清盛を頂点に栄華を誇った平家一門に対して、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、継いで兵を挙げた木曽(源)義仲が京へと攻め上り、平家は西国へと都落ち・・・やがて、源氏同士の内輪もめで義仲を討った頼朝の弟・源義経に一の谷から屋島へと徐々に西へと追い詰められ、最終決戦となったのが壇ノ浦です。

清盛の娘・徳子と第80代高倉天皇との間に生まれ、わずか3歳にして第81代の天皇として即位するという平家全盛の象徴でもあった安徳天皇が、僅か8才で海のもくずと消えたと言われていますが、生存説もあります・・・

当時、事態が理解できない幼い天皇に、亡き清盛の妻・二位の尼(時子)が、「波の下にも都がございます」と、なだめすかして、三種の神器のうちの一つである草薙の剣を腰に差し、天皇を抱きかかえて入水、これは平家物語をベースにした一般的な安徳天皇の最期と言われています。極一部ですが、この子孫の流れが琉球にあると言う方もいます。

日本本土と沖縄の関わりは、古来徐福の時代から極めて大きな関わりがあったと思います。中国大陸からの日本渡来には琉球経由が多く、佐賀県神埼市の貴別当(きべつとう)神社の鳥居には「或日琉球王子子也」との碑文があり、琉球王等の子供の案内人が乗船し日本に向かったと碑文が残っています。古来から日本本土と琉球の関わりは大きかったと思います。

 

多くの文献等に鑑み、歴史的にみても日本本土と沖縄は同胞で心は一つだと思います。

近代では特に明治天皇、昭和天皇の沖縄への想いは極めて大きかったと言われています。日本本土と沖縄・・・戦前、後多くの苦難の連続であった沖縄、沖縄の未来が更に夢を持てる県になることを!

 


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歴史は勝者が作るか・・・ナチス台頭の一側面

2017-12-07 11:04:26 | 二次大戦ドイツ

以下の文は、Rothschild Money Trust、プログ日本人が知らない真実の一部コピー、加筆等していますが、誤訳等も多々あると思います。歴史は勝者が作る・・・雑文とします。

 

昨今の文献等で精査すれば、ヒットラーが台頭した背景の一つには、欧州等を金融支配しようとした雲上人とでも言える国際金融資本家に利用されようとしたヒットラー・・・第二次世界大戦での欧米、ドイツの戦争資金等々の支援、両陣営はこれらの金融資本家の莫大な支援が見え隠れします。

ヒットラーを利用し欧州等の安定金融等支配、しかしヒットラーはナショナリズムを選び、ドイツ国家の繁栄、ドイツ国民の夢を持てる国家を目指しまた。国際金融資本家を裏切ったような構図になると思います。

ヒットラーは「タルムード」を信奉するアシュケナージ・ユダヤ勢力に負けない、強大な国作りを目指しました、ローマ帝国です!

ドイツのハイルの敬礼、鉄兜の作りはローマ帝国の軍を模倣しています。

ナショナリズムを選びドイツ国家の繁栄、ドイツ国民の夢を持てる国家を目指しましたが敗戦、勝者の理論からヒットラーは世界一の悪の権現とされました。

 第1次世界大戦後のヨーロッパ、ドイツはユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人・・・旧カザール人でユダヤ教宗教集団で偽ユダヤ人とも言われています。旧約聖書の民のユダヤ人とは違います。)のタルムード(ユダヤ人のみが人間、他はゴイム(豚、軽蔑語)・・・」)が蔓延しており正常心、良心の人であれば、何処の国の人でも間違いなくユダヤ人を軽蔑するでしょう。

タルムードを信じるユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)がヨーロッパで台頭、理不尽なやり方で経済を搾取していたか、ドイツ以外でも多くの国で軽蔑されていました。戦後はドイツのみがユダヤ人迫害をしているように報道されていますが、現実はかなり違いヨーロッパの多くの国で軽蔑されていました。ヒットラーが台頭した一原因の見えない部分だと思います。

第1次大戦の結果、ドイツ皇帝は退位し、宰相ホルヴェークは辞職しました。ドイツのユダヤ人達はそのまま残りました。ドイツはユダヤ人(アシュケナージ、ユダヤ人)支配の君主国から、ユダヤ人支配の民主主義国へと変わっただけでした。民主主義国になって、ドイツを支配するユダヤ人の顔ぶれは一新しましたが、相変わらず金融大富豪ロスチャイルドの影響下にあり、ロスチャイルドの理想具現化のためユダヤ人達はロスチャイルドの計画に従っていました。

最初にとった行動は、ドイツの通貨・ドイツマルクの価値を下落させることでした。何十億もの巨額のマルクを大量発行、マルクの価値がなくなるまで発行し続けました。後、ユダヤ人は無価値のマルクに対し、強いドルを持ち込みドイツの土地、建物、工場等々などを買いあさりドイツ国民は対抗する術が何も有りませんでした。

ドイツのマルクの暴落、そこにユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)強いドルを持ち込み、ただ同然の価格でドイツ国内のありとあらゆる物件等の買いあさり、当時の誇り高い頭脳明晰なドイツ人は何も出来ず屈辱の日々、夢を持てない日々を味わっています。そこに台頭したのがヒットラー率いるナチスです。ドイツ国民は、ほぼ全国民がナチスの反ユダヤ策等の政策を支持しています。ヒットラー・ナチス台頭の原因の一つは間違いなくタルムード、強いドルでのドイツ物件等の買いあさりでしょう。
このような事態がソ連崩壊時にも起こりました。ルーブル下落時の強いドルでの物件、国宝等々の買いあさり事態となっており、ロシア国内では多くの乞食が出現、高齢者自殺者の激増、経済の混乱等々、プーチンはこれらの実態を精査し、原因を突き止め、国家の指導者として国益、国民益の確保に奔走しました。如何なる理由があるともロシア国、民益を守る為立ち上がった大統領と言われ、常にロシア国民の80%以上の支持を得ています。


ドイツ国内の無茶苦茶なインフレが静まり、しかも財産をただ同然で獲得し終えてから、ユダヤ人勢力は、ドーズ委員会を通じてドイツ国立銀行を再建し、金本位制を復活させ、デフレ政策に切り換えました。
ユダヤ人はドイツ国民を圧迫し、困窮に陥れながら自分たちは裕福な悠々自適の生活、ドイツ国民は想像を絶する大変な困窮生活になっていました。ユダヤ人はドイツの全財産の少なくない部分を占めていました。ドイツの全人口の1%にも満たないこのユダヤ人が、この国の8割の富を所有していました。これらの財産は、主に通貨制度を操作して得たものでしたが、ヒットラーは忍耐強く耐えていたようです。


第1次大戦・・・米国のウィルソン大統領は有名な「14ヵ条」を、ドイツをはじめとする世界各国に休戦交渉の共通基盤として宣言しました。
もしドイツが降伏すれば、ドイツ政府もドイツ国民も「不利益を被らないということをほぼ保証」するものでした。

休戦条約は皇帝によって正式に受諾され、これによって休戦が宣言され、ひきつづいてベルサイユ講和条約が結ばれました。降伏して武装解除、無力になると今度はユダヤ人の手にゆだねられ解体され無力化されました。

第2次大戦が始まる数ヵ月前にヒットラーはラジオ演説で、ドイツ軍を降伏させるためウィルソン大統領がおこなった14ヵ条の約束のことに触れ、アメリカ政府によって暗に保証されていたこの約束が踏みにじられたこと、ドイツ帝国が解体されたこと、ベルサイユ条約で想像を絶する理不尽な支払い不可能な高額の賠償金が課せられたこと、ドイツ政府のユダヤ人内閣が戦後国民を大不況に陥れたことなどを数え上げヒットラーは次のように述べています。

ユダヤ人は、一方ではこの国を情け容赦なく略奪し、この国を惨めな状態に陥れておきながら、もう一方では、惨めな国になってしまったこの国の国民を扇動してきた。わが国の困窮状態が、ユダヤ民族が唯一目指しているものにふさわしいほどになったので、増大している失業者の群れの中に、ボルシェビキ革命にふさわしい人材を彼らが養成するのは可能となった。
政治秩序の崩壊と、無責任なユダヤ人の報道機関によって起こされた人心の混乱は、かつてないほどの強い衝撃を経済生活に引き起こし、その結果困窮者は増大し、政府転覆を図るボルシェビキ思想がますます受け入れやすくなる土壌ができあがった。ユダヤ世界政府革命軍は、失業者群を呼び集めて、ついに700万人近くになった。


戦争挑発・・・屈辱的な融和政策はもうごめんだという叫びが、現在、世界中に響き渡っているが、この叫び声は戦争挑発者にとって平和解決は最も命取りの解決方法だという事実を世界にふれまわっているだけだ。彼らは血が流されても平気である。もちろん彼ら自身の血ではない。これら挑発者たちは弾丸飛び交う戦地には姿を現わさず、もっぱら金儲けのできる場所にいる。血を流すのは名もない兵士たちなのだ。

ヒットラーは演説で、ポーランドに向けて率直明快に、もとドイツ領であったダンツィヒとポーランド回廊はもらわねばならない。ドイツ国民が住んでるポーランド内、飛び地を考慮しています、このことは戦勝国は触れてほしくない事実で、一部しか真相は公表されていませんが、以前ドイツ領であったシュレジアは要求しないと述べています。更に、世界平和のため以前ドイツ領であったアルザスに関する条約をフランスと結んだことを述べ、その条約を遵守すると演説しています。


ヒットラーはポーランドと交渉を開始、これらの領土を平和的な話し合いによってドイツに返還させようとしました。交渉の最中にポーランド在住のドイツ人虐殺事件が起こったが、それにもかかわらずヒットラーはこの条約を締結するためユダヤ人のポーランド外相ベックとの会見の約束をしましたが、ベックはこの約束を守りませんでした。ベックは約束を守るどころか、ロンドンへ出向き、英国首相に助言を求めました。ヒットラーはポーランドの反乱を押さえるために軍隊を送り、その結果、英国とフランスがドイツに宣戦を布告しました。第2次大戦の始まりです。

戦勝国が触れてほしくない事実・・・そもそもポーランドは1次大戦前は存在しない国でした。ドイツにとっては、敗戦によりポーランドが旧ドイツ領に建国され、飛び地となったドイツ人の町が孤立してしまいますので、ドイツは如何しても回廊が必要でした。しかし計画的なポーランドは、絶対に認めないように英国等に後ろで指図等し、ドイツの回廊確保のためのドイツの侵攻を固唾を飲み待ち望みました。
戦争にドイツを引きずりこんだと言う構図が見えてきます。戦争を好くする人たちがいたということになります、まったく真相は我々が学んだ歴史とは違います。
日本の真珠湾攻撃、ドイツのポーランド侵攻もまったく同じ構図であり罠にはまったと言う事が出来ます。戦勝国は触れてほしくない部分でもあると思います。


ポーランドを侵攻、征服した後、ヒットラーはベルサイユ条約でドイツから奪われた領土以外は、アルザスを例外として要求しないという条件をつけて、連合軍およびその他の国々に和平を再度提案しました。
今回のこの提案と最初の提案との違いは、今回はベルサイユ条約で英国に与えられた植民地をドイツに返還するよう要求しています。
この申し出に対する回答は、ヒットラー政府と取引する気はない、ヒットラーとナチスは潰してしまわなければならないというものでありました。

以後、英国は海上封鎖をして敵を兵糧攻めにする戦略をとりました。英国は、「大英帝国がその大半をつくった国際法」を自ら犯して、ドイツの輸出入を封鎖しました。
ドイツはこれに対してUボート潜水艦と空軍で対処し成果を上げ、飢えるのは「反対側」の英国という皮肉な結果となりました。
考えてみれば、ドイツは国際法の戦争規則に従って戦争をしてきている面が多いように思います。


英独戦では、英国の予想を裏切って、その秀でた空軍力を利用して行なう毒ガス攻撃はせず、英国の指揮官を一人も殺そうとはしていません。
英国の船が沈められたときも、英国の兵士や船員を保護、移送してました。

有名な実話・・・ノルウェーの港に停泊しているアルトマルク号(独の捕虜輸送船)には英国捕虜が多数乗っていましたが、英国のチャーチルの命令で英国の巡洋艦がノルウェーの中立を踏みにじり、アルトマルク号(無抵抗で丸腰の船員)を攻撃しました。ドイツは捕虜たちの船が沈められたとき、彼らを見殺しにすることもできたのに救出・・・
非武装のアルトマルク号を英国が攻撃した事件は、英米のユダヤ人報道機関から英国の大勝利として大喝采を浴びました。


ドイツが諸般の理由でユダヤ人の市民権を剥奪し罰金を科すと、アメリカは大使をドイツから呼び戻しました、これは戦争行為にほかなりません、通常大使引き上げは宣戦布告に先立つ第一ステップです。ヒットラーは、アメリカではまったく戦争の態勢が整っていないにもかかわらず、アメリカとの戦争を望んでいないという明白な理由で、このアメリカの挑戦に乗りませんでした。
米国ルーズベルトにとっても残念ながら当てはずれだったようで、米国ルーズベルトは怒りをあらわにして、ドイツからの輸入品に25%の関税をかけ、ニューヨークの銀行に預金されていたドイツ国立銀行の金を差し押さえました。これらの行為は明らかな戦争行為であるが、ヒットラーは落ち着いて堂々と対処しました。
ヒットラーはアメリカから大使を引き上げ、アメリカのドイツへの輸出品に同様の関税を課しただけでした。
ヒットラーがアメリカとの戦争を望んでいるのであれば、彼には戦争を始める大義名分があるにもかかわらず戦争を避けました。


当時のユダヤ系新聞、ハッツフィラーの記事

ヒットラーが極悪人なら、彼はわれわれに宣戦布告するであろう。しかも、われわれの準備や武器が整わない今の間にそうするであろう。わが国が工業活動を加速し、消耗した戦備を補給できるまで、二年も三年も待ちはしないであろう。彼はそんな悠長なことをするほど無分別ではない。彼は、自分の準備が整い、われわれがまだ不備ないま宣戦するであろう。
ヒットラーについていかなる見解を抱こうと、われわれは次のことを認めねばならない。「ヒットラーはこの戦争に余儀なく引き込まれた」こと。彼はベルサイユ条約によって不当にドイツから奪われた領土をドイツに返還することを基準として、和睦する用意があったこと。さらに彼は、文明国戦争のルールに従って戦争を遂行したことである。

連合国側が戦争を行なう目的は、ポーランドやチェコスロバキアやその他の国の回復ではありません。主目的はヒットラーとドイツを倒し、金本位制を守ることである。なぜならヒットラーもドイツも共に反ユダヤであり、金本位制を通してユダヤ人はすべての国の経済を動かせるからだ。ヒットラーが金本位制を廃止したその日からドイツは繁栄に向かい、失業もなくなりました。ドイツは金を持たずに戦争を行なっており、ユダヤ人からカネを借りなくとも戦争はできるということを世界に示しました。

ヒットラーの『我が闘争』を読むと、彼の主張は正当なものが多々あるように感じます。(我が闘争は、進化論で有名なダーウィンの題名「生存闘争」を模して、題名を「我が闘争」にしています。)

この憎悪に満ちた世界の動きを陰で操っている者はどこにいるのだ。誰がこの狂気を作り出したのだ。この狂気を全部ロシアに移植し、他の国々にもはびこらせようとしているのは誰だ。この疑問に対する答えを知れば、われわれの反ユダヤ政策とわれわれの妥協なきユダヤとの戦いの本当の意味がわかるであろう。なぜならボルシェビキの国際組織インターナショナルは、実際にはユダヤの国際組織にほかならないからだ。


マルクス主義を考え出したのはユダヤ人である。マルクス主義を媒介にして世界革命を起こそうと何十年も前から画策してきたのはユダヤ人である。世界中の国々のマルクス主義組織の党首は、現在すべてユダヤ人である。国家も民族も国も持たない流浪の民にしかこのような悪魔の思想は宿りえない。悪霊に取り憑かれた者のみが、この革命を行なえるのだ。(ゲッペルス 1935年演説)

ヒットラーと言うと悪の権現見たいに思いがちですが、ナチス結党以来の目標の一つには格差社会の根絶等があります。この目標は最後まで変わることはありませんでした。現代日本にも参考できる箇所が多々あります。

ヒットラーは決して自分の利益のために行動を起こしたわけではなく、日々の生活は質素で、酒、タバコ、肉は食べなかったと言われております・・・理不尽な社会の改革、ゲルマン民族の真の独立実現を目標にしていたと言えると思います。

当時ヒットラーの秘書であったユング女史が述べているように、子供が大好きで、別荘ではいつも子供達が遊びに来てたそうで、絵画、犬が大好きだったそうです。世界の多くの人々は未だに真実に触れることはできません。
ユング女史が記した映画「ヒットラー」は、ドイツ人が戦後初めて作成したヒットラーの映画で、ヒットラーは正常人であり、ドイツの尊厳を書いています。(現ドイツ・ユダヤ人に最大の配慮をしているようです。)

前に麻生氏が発言われたナチスは国民の多数合意で政権の座に着いた・・・間違いなく多くの国民の支持合意で政権の座についているようです。勝者の理論で戦勝国はナチス、ヒットラー等を全世界に悪の権現と徹底的に伝えました。

私達が常日頃利用している高速道路のインターチェンジ、オリンピックの聖火等ヒットラーのアイデアです。
有名なホルクス・ワーゲン、当事の車は高価で、多くのドイツ国民が低所得者でも夢が持てるようにヒットラー自身がデザインしました。
ヒットラーは自身は決して贅沢するでもなく質素な生活をしています。ドイツの主権回復、自国益に奮闘しています、独裁者とは思えません。
日本同様ドイツも苦難の戦後が現在も尾を引いているようです、GHQに教育を変えられた日本ほどではありませんが・・・

ユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)の中にも、現在世界の平和、発展に尽くされてる多くの有名、無名の方々がいるのも事実です。


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