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極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日本人と焼き物・有田焼

2017-07-16 10:30:31 | 日本文化等

以下文は、宮廷の磁器(英国東洋陶器学会著/同朋舎出版)、ロイアル・コペンハーゲンHP、マイセン・HP、朝鮮出兵の真意・黒田裕樹、小早川家文書、フロイス日本史、ウィキペディア等を参考にしていますが、特にフロイス日本史、正式には日本史(ポルトガル語: Historia de Iapam)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書で、朝鮮出兵の背景を知る極めて興味ある内容が記されています。

 

日本の焼き物で最も古いものは縄文時代の縄文土器と言われています。

縄文土器は土をこねて思いどおりの形を作り、火熱で化学変化を起こし、強度な容器を手に入れた結果、煮る、貯蔵等も容易となり生活様式が激変したと思います。青森県で発見された土器が日本最古で約1万6000年位前のものと言われています。世界的にも圧倒的に古く、如何に日本人と焼き物の係わり合いが大きいかが分かります。

 

焼き物と言えば日本には有名な焼き物が幾つかありますが、やはり有田焼が有名と思います。日本人で有田焼という名前を知らない人はいない位有名で、400年の歴史があります。

春の連休間の有田陶器市には毎年100万人以上が訪れ、多くのリピーターも訪れるそうです。私達を引き付ける焼き物・有田焼・・・有田の焼き物店内の人達との焼き物談義、一期一会で接するお店の人達、本当に心から焼き物を愛している町と言われています。

意外と知られていない有田の穴場、釜と緑の散歩道・うーたん通り・・・年に数回、釜祭りが行われています。一番奥のギャラリーでは驚くべき、海外流出買戻し焼き物に出会うことが出来ます。陶工達が数百年前に製作した焼き物が新たな驚きに変わり、当時の美意識に感動が生まれるでしょう。

 

1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・帰国の際、一部の諸藩が朝鮮の陶工達を日本へ連れ帰ったと言われています。

江戸時代以降の日本の焼き物と朝鮮半島、朝鮮出兵の関わりは大きく、当時の朝鮮半島の時代背景、朝鮮出兵の真相、事実を知ることは焼き物の歴史を知ることにもなると思います。

以下文は学校で学ぶものとはかけ離れていますが、精査すればフロイス日本史、小早川家文書等々多くの文献にも細かく記載されており、当時の本当の日本を取り巻く背景が記されています。

日本は、何故朝鮮出兵をしたか・・・

一口で言えば、当時の世界・アジア情勢と言えそうで、白人至上主義に対する黄色人種の戦いであったとも言えると思います。スペインは明を征服し、いずれ明を使い日本を侵略するであろう。豊臣秀吉は明らかに明の侵攻を計画していました。朝鮮は通過点に過ぎませんでしたが、李王朝は明の属国であり李王朝が日本兵の通過を認めないため仕方なく日本は朝鮮・李王朝を倒して日本兵を朝鮮半島経由で明へ送り込み、明を倒す計画だったようです。日本兵士への補給等の問題もあり、明への通過点の戦いが結果的に日本、明の属国・李王朝との戦いとなったと言えそうです。

当時の世界・アジア国際情勢を豊臣秀吉は理解、この日本の存亡に関わる世界・アジア国際情勢を全国の大名達に伝えたからこそ全国の大名達は厳しい藩財政の中、秀吉の朝鮮出兵に協力、兵を出したと思います。

1592年3月13日、秀吉が朝鮮出兵の陣立てを発令、肥前(佐賀)・名護屋城に全国諸大名から25万の兵を集め、1587000人が高麗へ罷渡・・・日本の未来の存亡をかけた戦いでした。兵士と輸送員を含め158700人が朝鮮に渡りました。そのうち3分の1の約50000人が死亡したと言われていますが、敵に殺害されたものは僅かで、殆んどは労苦、飢餓、寒気、疾病等によって死亡したと言われています。対し、朝鮮人は死者、捕虜等、日本人とは比較にならぬほど膨大であったと言われています。

当時の李氏朝鮮には両班の身分制度があり、(陶工等も奴隷のような生活)など階級に不満を持つ民衆が各地で暴徒化し各地で秀吉軍に加わったと記録(小早川家文書)されています。この弱肉強食の時代、スペインによってまだ征服されていなかった国は、東アジアでは、明(朝鮮半島含む)と日本のみとなっていました。

スペイン人が日本に最初にやってきたのは1549年、宣教師フランシスコ・ザビエルです。

当時のスペイン宣教師は表向きはキリスト教の伝道、裏は軍事組織です。スペイン国王はキリスト教の伝道と見せかけ、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言っては改宗させ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み住民の殺戮や財宝の強奪、植民地占領などを世界中で行っていました。

1596年、スペインの貨物船サン・フェリーペ号が遭難、土佐の浦戸に漂着、救助した船員達を秀吉の五奉行の一人で、増田長盛(一説では甲賀忍者、情報収集が長けていたとも言われています。秀吉が恵まれていたのは、利休(ヤタガラス)等をはじめ国を想う多くの奉行等々がいたため、当時の世界・アジア等の情報を収集・分析した情報を直に秀吉が手にすることが出来たと思います。)が取り調べ、そこでは以下のような情報を得たと言われています。

1494年、ローマ教皇が教書を出して、トルデシリャス条約(地球上を大西洋の西、東と分け日本はスペイン側が統治)を結び、秀吉はスペインが地球(東側)争奪戦の真っ只中にある。宣教師派遣は侵略、殺戮、略奪等のためのスペインの常套手段、事前策である。日本が明に(スペインが明を侵略、戦略等利用、当然朝鮮は明の属国で日本侵攻の足がかりとする。)侵略される可能性がある・・・

秀吉はこれらの情報を得、分析し、以後大阪等に居た宣教師等26人を捕らえ、長崎に移送し処刑しています。有名な長崎26聖人です・・・本当の処刑理由は日本侵略計画協力者、幇助者と捉えていたようでしょう・・・当時の世界は正に宣教師を活用した侵略が世界中で行われていました。秀吉等の日本のキリシタン迫害は全てが悪であるとは言えないようです。

当時、もう一つの側面、背景として九州のキリシタン大名等が自国領地で日本文化の破壊(神社、寺を破壊していた。)、そして、若き日本女性を奴隷としてポルトガル奴隷商人に数十万人売り飛ばしていた!決定的事実を掴んだ秀吉は激怒、以後キリシタン大名、宣教師、キリシタンの取締りを更に厳しくしています。このような事実を秀吉は諸国の大名等に伝えており、スペインの脅威を除くために諸国の大名は厳しい藩財政にもかかわらず朝鮮出兵に協力したと思います。

 

スペインが日本に攻めて来る場合、海を渡ってやってきますのでスペインとの直接対決ならば海を渡ってやって来るスペイン人は、少数のため、火力、武力とも日本が圧倒的に優位

スペインが明を植民地として支配下に治めることになると、話は全く違ってきます。数多くの鉄砲を日本が持っていたとしても、スペインに支配された明の兵士たちが、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これは大変なことになります。この事実を秀吉は掴み全国の大名に伝えています。

驚異を取り除くには、スペインよりも先に明を日本の支配下に置くしかありません。

火力、武力に優れた日本には、それは充分可能なことです。万一、明まで攻め込むことができなかったとしても、朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで地政学的に日本の安全が確保されると思ったようです。

秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか・・・スペインは当然、明国を植民地としての支配下に置いたでしょう。結果、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

スペイン自体も英国、オランダに押されて国力が低下、東アジアに構っていられなくなりました。

日本から見たらスペインの脅威が去り、朝鮮を手に入れる必要なくなったので日本軍は1598年の豊臣秀吉の死もあって撤退で終結したようです。

私達はスペインという白人の世界最強大帝国に対し、一歩も退かなかった日本、豊臣秀吉、諸藩の大名、武士達の気概、日本人としての誇りは特筆すべきだと思います。

朝鮮半島は日本の朝鮮出兵により疲弊してしまいました、現代の基準で考えたら朝鮮出兵は侵略で可笑しいと言う方が多いのも事実と思いますが、朝鮮出兵をせざるをえなかった世界・アジアの時代背景、日本の立場を正しく理解することは大切だと思います。朝鮮出兵を朝鮮侵略と記した現代偏向歴史教科書・・・真実、事実を正しく伝えるべきです。現代まで植民地にされなかった日本、私達は先人たちをもっと評価すべきです。

 

朝鮮出兵、帰国・・・陶工達は肥前佐賀鍋島領内、肥前平戸松浦領内、薩摩島津領内などに赴き、藩の破格の待遇(陶工たちは鍋島藩から年米360石、金子千両を支給され、更に苗字、帯刀を許された士分格とされ、全ての公課、苦役を免ぜられた手厚い保護と待遇を与えられました。年間に定められた数量の品物を生産して藩に納めることが義務づけられていました。)で保護されています。

両班(配者階級)が支配する李朝内では、到底考えられないことです。李朝内の陶工(最下層、)達だけでは白磁の焼き物は大成しなかったでしょう。以後、陶工達は帰化、同化しました。

 

日本に来た陶工達の時代背景は李朝時代

李朝はシナ(中国)の属国で収奪されるばかりで李朝は貧困に喘いでいたようです。李朝内は両班(支配階級)の影響で陶工は冷遇、(せんみん)扱いでした。

李朝朝鮮で白磁陶器が大成出来なかった理由として、最大の理由は両班が一番偉く、手に汗して働く職人(最下層、)が蔑まされて陶工は人間扱いされていなかったようです。このようなびっくりするような理不尽な両班制度は日本の朝鮮併合以前まで続いていたようで、日本統治がこの両班制度を無くしたと思います。李朝・朝鮮の陶工達は、現地朝鮮にいても無名の陶工(最下層、)で終わり、日の目を見ることはかったでしょう。

 

有田で有名な李三平(金ケ江参平)は、肥前・佐賀の領主鍋島家の重臣、多久安

に着いて来たと言われています。李三平は、1616年有田地方の泉山で良質の高嶺土を発見、原料の白磁鉱を発見して有田焼の基礎を作った人で、多久から有田までの山谷で、陶土を求めいくつかの窯を築いたと言われています。

 

有田焼が世界から高い評価を受けるようになったのは、以下の3様式が確立されてからだと言われています。

*柿右衛門様式

濁手とよばれる透明感と暖かみのある乳白色のバックに余白を十分に残し、極めて繊細な黒い線と色鮮やかな赤・緑・黄・青で大和絵的な花鳥風月を左右非対称的で描写的に描いた様式

*鍋島様式

青みがかった地肌やくし高台、裏文様が特徴、その技法は、染付と赤・青・緑の三色を基調とした「色鍋島」等、上絵を伴った「色鍋島」は佐賀藩主が使う食器や、諸大名・幕府への献上品として完成度の高い格調ある製品です。

*古伊万里様式

濃い染付と金襴手と呼ばれる赤や金の絵の具を贅沢に使った様式

 

有田焼がどうして大成したか・・・

*焼き物に限りない情熱を傾け、陶工達を保護した鍋島藩

*努力の結果、白磁の基礎を確立した朝鮮出身の陶工達

*柿右衛門等々、白磁に日本独特の美意識を限りなく追及した有田の陶工達の情熱

この3人4脚の努力で完成したと言えそうです。

間違いなく、有田焼は世界に誇る現代日本の最高伝統工芸品です。日本の伝統工芸品の中でも知名度は群を抜いています。

 

肥前(佐賀)の陶工は、有田焼の李三平が日本名の金ケ江参平

武雄の後藤家信についてきた、宗伝は深海宗伝

唐津焼の祖は寺沢志摩守についてきて彦右衛門、弥作、又七の日本名となりました。当時、平民は苗字を名乗れませんでしたが大島、福本、中里など苗字までも名のるほど厚遇され日本に同化していって、見事に陶工として開花したと思います。

日本に来た陶工達は、藩から大事にされ帰国の許しが出ても朝鮮に誰も帰らなかったと言われています。

 

日本人に特に人気がある、磁器メーカー、ロイヤル・コペンハーゲン(デンマーク)の中でも藍色の唐草模様を付けたブルー・フルーテッド・シリーズ(Blue fluted:ホワイト・フルーテッドの形状にマットな釉薬が施された特有な質感と、素朴さを表現、クールなイメージと優雅さを持ち合わせているシリーズと言われています。ロイヤル・コペンハーゲンHPより)は有田の磁器の影響を受けたものだと言われています。これらの事実は購入者の殆どの方々は知らないと言われています。如何に有田焼の存在が大きかったかが分かります。

 有田焼は磁器(磁土を高温で焼いたもの。)で、石ものであり陶石を原料としています。陶器(粘土を低温で焼いたもの。)よりも高温で焼き(1300度前後)ますので硬く、素地は白です。美しい染付、色磁器が特徴で江戸時代、世界最高水準の磁器でした。

当時の佐賀藩が有田焼の技法が外部に漏れるのを恐れ、海外への販売市場を佐賀県の伊万里に限定したことから伊万里焼とも呼ばれるようになったそうです。有田焼の繊細な美しさは、ヨーロッバ美術にも大きな影響を与えたとも言われています。

17世紀後半、ヨーロッパへ輸出された伊万里や柿右衛門等の日本磁器は絶大な人気を博しました。王侯貴族達は邸宅に磁器を飾り、日本等の磁器を競って買い集めたと言われています。ドイツのザクセン選帝侯アウグスト2世は日本磁器に傾倒し日本宮という磁器の収集館を建設したそうです。当時の日本磁器はヨーロッパで熱狂的に支持され白い黄金とも呼ばれ、繊細な美しさに魅せられた王侯貴族は競って集めたようです。日本磁器を早く手に入れるためにアムステルダムまで人を派遣し東洋から入る船を待機していたとも言われています。

列国の王侯貴族、事業家は自分で磁器を作れば、東洋に流れる莫大な富が手に入ると考えるようになりヨーロッパ全土で磁器生産への熱意が高まったようです。

ドイツのアウグスト2世は国家最優先事業と位置付し、東洋のような磁器を作ることを目指しています。試行錯誤の結果、磁器生産に成功したアウグスト2世は、1710年マイセンの町に磁器工場を建設、1720年代からは柿右衛門模様、欧州初の硬質の白い磁器が誕生、ヨーロッパはようやく東洋と同じ水準に達したと言われています。

マイセンでは当初、中国磁器が複製されていたようですが、1720年代からは柿右衛門様式や伊万里を手本として、模倣品が大量に作られるようになっています。以後、柿右衛門、伊万里の模倣品はイギリスのチェルシー窯、ボウ窯やフランスのシャンティー窯やオーストリア等多くの国々で作られました。

 ヨーロッパ磁器の最高峰と言われるドイツ・マイセン製品は、世界中で高く評価されています。マイセンは日本や中国のような磁器を作りたいという憧れから開かれた窯で有田の影響を大きく受けているようです。有田町と当時の東独・マイセン市は1979(昭和54)年2月9日、世界の陶磁史に特筆 される2つのまちが姉妹都市となって、今も多彩な行事が行われています。

 

1662年、明朝が滅び清王朝となりましたが、清朝は鎖国政策を取ったため、極東貿易の独占により巨額の富を得ていたオランダの東インド会社は、中国、景徳鎮窯の陶磁器の入手不可能になってしまいました。その代わりになったのが有田焼きです。有田焼(伊万里焼)は、この貿易の拡大を背景に、高度な技術と繊細な感性を駆使した形・色柄・質が追求されて有田焼の技術は飛躍的に向上、豪華絢爛たる古伊万里最盛期を迎えることになり、積出港の伊万里の名で有田焼が世界的に有名になりました。

肥前(佐賀・伊万里)から大量に磁器が海を渡りましたが約100年間に120万個以上の磁器がヨーロッパへ輸出されたと言われています。記録に残っていない磁器を含めれば実際は数倍の数は輸出されていたと言われています。
中には貴重な古伊万里の焼き物が世界に多く眠っていると言われています。このような貴重な焼き物は、国が買い戻せるものは買い戻し、民間であれば国が購入に対し助成すべきだと思います。日本の美術館等々で展示、多くの人達に見てもらうことは、伝統文化の継承の一助となると思います。

有田焼は日本が誇る最高伝統工芸品です。この日本の伝統工芸品でもある有田焼を後世に伝えていくためには、更なる伝えていく具体的な策が必要でしょう。

先ずは、未来を背負う子供達にも学校給食現場等でも有田焼を使用する機会を増やすべきです。有田焼きは綺麗ですが、勿論落とせば割れるでしょうが、この綺麗な有田焼は大切に扱わないと割れると言う何気ない事実を知ることも大切だと思います。子供達にとって焼き物の歴史、物を大切に扱う姿勢を学べると思います。

今、日本には合成樹脂の給食用品が溢れています。日本が世界に誇る有田焼が多くの公的機関、学校給食現場等々で使用されることは伝統工芸品の継承の一助にもなると思います。この有田焼の白磁の美を、未来を背負う子供達に肌で感じてもらい、日本が誇る有田焼を伝承する一助になってもらいたいものです。

 

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