極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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世界一の識字率、文明・文化等を誇っていた江戸時代

2018-01-04 16:52:35 | 日本社会

以下文は、BEST MOOK SERIES 16「歴史人」・山本博文監修、ペリー遠征計画の基礎資料 (草思社文庫)、江戸ガイド、石川謙著・日本庶民教育史(P・262-266)、文部省編、日本教育史資料、ウィキペディア等々を一部コピー、参考等々にして記していますが、私たちが学校で学んだ江戸時代の知識とは違う面が多々あります。

 

江戸時代、初代将軍・徳川家康により江戸に幕府が開かれたのは1603年(慶長8年)です。以来、江戸の町は拡大・成長を続け100万を超える世界一の大都会となりました。

徳川幕府300年と言うと、学校教育等々では士農工商の身分社会、鎖国された暗い時代、閉ざされた社会と学びますが、江戸時代は武士が支配していた時代です。海外に目を向けるとローマにより平和が続いたのは約200年です。徳川家による平和は260年以上平和が続いています。徳川300年間の中で260年以上は内戦、対外戦争が無い平和国家であったことが分かります、これは当時の混沌とした世界からしたら凄いことです。徳川家の策等により武士は武士道等、一般庶民等は寺子屋等で身分に関係なく「人作り」が行われ、その結果、共に支えあう「共生社会」が実現できていたと思います。

 

人口を見た場合、江戸時代中期の1721年(享保6年)、8代将軍・徳川吉宗の命により全国の人口調査が行われ、1726年(享保11年)以降は6年ごとに全国レベルで定期人口調査が行わているようです。これにより大まかではありますが日本の人口推移がわかるようになったようです。初回調査(1721年)における日本の人口は約2600万人位だったそうです。

 

江戸の人口は、約100万人以上で町人等が50万人以上、それに参勤交代等々で江戸に常駐する武士・奉公人は約50万人で合計100万人以上と言われ、当時の京都の人口が約30~40万人、大坂が約20万人位です。1801年、ロンドンの人口が86万人、パリ54万人で如何に江戸が大都会だったかが分かります。

 

当時の江戸は圧倒的に男性の割合(男32万、女18万)が大きいようで、その理由は諸説ありますが、農家の次男、二男等が仕事を求め諸国から江戸へやってきたとも言われています。

当然、参勤交代等により多くの武士・奉公人(主に男性が50万人)が諸国より単身赴任等してきましたので、江戸は女性に比べ圧倒的に男性が多かったと言われていますが、江戸時代を通じて女性が少なかったかと言うとそうではないようです、江戸時代後期になると男女比は均等になったとも言われています。

 

江戸時代・・・何より特筆すべきは「識字率、民度、文明・文化等」の高さです!

江戸の識字率は世界でもトップで80%(成人男性は90%以上)を超えているとも言われています。18世紀の最先進国とも言われるロンドンの識字率が30%、パリが10%位ですがこれらの国々は地方に行けば殆どが読み書き出来なかった人が多かったようです。

江戸幕府の最高学府は「昌平坂学問所」で、四書五経(儒教の教典で重要な9種の書物のことで四書は大学、中庸、論語、孟子、五経は詩経、書経、礼記、易 経、春秋)、可笑記(武士道調書)、中国の史書等を藩士、浪人等も学んでいたようですが成績が優秀であっても将来が約束される訳ではありません。目先の将来が約束される中国の科挙とは全く違います。この違いは武士道(義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠を道徳律)、大和心等を持つ公を大切し、共生社会を良しとする当時の日本人だから受け入れられたと思います。

多くの一般庶民も貧富の差を気にすること無く、教養を高めるため自ら進んで寺子屋(江戸だけでも1000~1300箇所)、郷学(校)(下級武士から町人、農民まで幅広く受け入れ)、私塾(専門的教育)で学んだと言われています。貧困であっても授業料を農作物で払いながら子供達を寺子屋に通わせた名も無き両親に感動を覚えます。

 

石川謙著・日本庶民教育史、文部省編・日本教育史資料所載の寺子屋表では全国の7割5分以上の地方を網羅、15,560校の寺子屋が確認(埼玉、茨城、岩手、奈良、香川、愛媛、沖縄の七県の報告無し)されています。全国の実際の寺子屋総数は、日本教育史資料の総数15,564の2倍から3倍、4倍の寺子屋が存在していたと考えられると記されています。

寺子屋の存在は極めて大きく、先生(師匠)は貧富の差に関係なく、「多くの一般庶民の子供達に知識を与えることを喜び」とする、先生(師匠)の志は素晴らしいです!現代の教育現場の方達に是非知ってもらいたいです。このような精神は当時の他国を調べても存在しません。

寺子屋の主は先生本人で民間の施設、先生は師匠ともと呼ばれていました。寺子屋の先生は無免許、学と志があれば誰でもなれたそうです。先生には僧侶、神官、武士、浪人、医者、町人、村役人等が多かったと言われています。女性の先生も結構多かったようです。専業で先生をやっている人は少なく、ほとんどが副業だったそうです。

義務教育ではない江戸では男女共に、入学年齢6~7才位で卒業年齢も任意で、男児12~13才、女児13~14才で卒業したそうです。

朝8時位に開始、午後2時位に終了が多かったようです、時間割は無く、家の手伝い、お稽古等により午前だけで帰る子どもも多かったと言われています。

寺子屋は毎月1、15、25日が休日、五節句と年末年始も休みでったそうです。毎日授業がありますが、必ず出席しなければならないわけではなく、用事がある時は随時休んでいたそうです。

一般的には読み、書き、そろばんと言う初歩的学習から開始、子どもの成長、将来の職業に応じ、必要な知識を指導したようです。

子どもたちの年齢、出身も異なるので個別指導が基本で、生徒数は平均30人位、女児専門の寺子屋もあったそうです。読み書きだけでなく、躾や礼儀作法も教えていたそうです。当時は学問による高い教養は女子には不用という考えがあり女の子に必要とされたのは、特に良妻賢母になるための教養・知識だったそうです。良妻賢母になるためには読み書き、礼儀作法、裁縫などを学んでいたようです。寺子屋には年に2回大イベントがあったそうです。日頃の学習成果を発表する会、席書(せきがき)です。

 

寺子屋には規定の教科書はありませんでしたが、全国で幅広く使われた教科書的なものがあったそうです。それは往来物(おうらいもの)と呼ばれる書籍だそうです。全国の寺子屋で使われた定番中の定番教科書が庭訓往来(ていきんおうらい・1799年刊)です。

往来物というのは、手紙のやりとり形式でつくられた教科書の総称です。特に庭訓往来は衣食住をはじめ職業、建築、宗教、歴史など幅広い一般常識を内容とし、多くの単語と文例が学べることからもっともポピュラーな教科書として使われていたそうです。

寺子屋は読み書き、そろばんの基礎学問から開始、最後は子どもたちが将来就くであろう職業に必要な知識を指導していました。教科書も職業別に各種あったそうです。商人の子ども、商家へ奉公予定ならば商売往来(しょうばいおうらい)、商業に必要な単語(商品の名前など)や知識、商人の心構えなどを学ぶことが出来たそうです。

番匠往来(ばんしょうおうらい)という教科書は、大工や職人になるために必要な単語や知識を学ぶことが出来たそうです。
漁民の子どもには、船方往来(ふなかたおうらい)、八百屋の子どもには、八百屋往来等、さまざまな職業に応じた多種多様な教科書が用意されていたそうです。学問だけでなく礼儀作法や道徳なんかも厳しく教えられたそうです。

職業を超えて必要となる知識、手紙の慣例語句を集めた消息往来、日本各地の地理を学ぶための都路往来(みやこじおうらい)等、往来物の総数は7000種類とも言われています。現代の教科書との違いは、実用的な知識を内容としていること。詰め込み学習は今も昔も同じようです。

最後に入学金、授業料・・・寺子屋は個人経営なわけですから、入学金である束修(そくしゅう)と授業料である謝儀を納めるのが一般的だったそうです。

入学金・授業料ともに決まった金額は無かったそうで、先生もいくら払ってくださいと言うのは絶対に言わない約束になっており、基本的には払える額を払っていたようです。
授業料は年に5回納め、1回分は裕福な家の子どもなら金1分(約2万円位)、裕福でない家なら200~300文(約4000~6000円)位とバラバラだったようです。農村等では授業料を野菜で払うこともあったと言われています。地域によってはお酒、蕎麦、餅、スルメなどなんでもありとも言われています。支払える分を払えばよしと言う良心的な授業料だったようです。
他には、畳を新調するための費用、畳料200~300文(約4000~6000円)を6月に支払い、寒い時の炭代として炭料200~300文(約4000~6000円)を10月に支払っていたそうです。盆暮には日頃のお礼として餅、そうめん等の品物を贈ったそうです。
寺子屋で使用する紙、墨、筆等の消耗品は自腹です。紙は貴重品でしたので真っ黒になるまで何度も使用していたそうです。

寺子屋は民間の個人経営、経営者の先生は授業料だけではとても食べていけません。授業料にこだわらなかったのは、兼業先生(師匠)だったこともありますが、「何より子どもたちに知識を教えたい」、「子供達を一人前の大人に育てたい」と言う志!この精神は素晴らしいです。

寺子屋の先生になると人別帳(にんべつちょう、戸籍)に手跡指南と登録されたり、周囲から寺子屋のお師匠さまとして尊敬を集めるなど見えない部分で満足感を得られることがあったそうです。

寺子屋は一般庶民の識字率向上に大きく貢献したと思います。結果、芸術文化、工芸、建築など世界最高の文化と言う花を江戸時代、江戸に開花せたと思います。これらの教育システムが基礎となり、江戸時代、江戸は世界一の識字率、文明等を誇っていたと言えそうです。

 

現在でも江戸時代、江戸の識字率、文明・文化等々に対し、否定的な人も多いようです。断片的ですが識字率、民度、文明等の高さを示す海外等から見た一例を記します。

*ロナルド・フィリップ・ドーア(Ronald Philip Dore、1925年)

イギリスの社会学者(専攻は日本の経済および社会構造、資本主義の比較研究、知日派で有名です。ロンドン大学名誉教授、同志社大学名誉文化博士・・・経済学、人類学、歴史学、比較産業研究の各分野に貢献されています。)

明治元年の日本全国の就学率は男子が43%、女子が10%で世界から見てもかなり高い数字です。都会に限れば識字率80パーセントは極自然と思います。講談社日本の歴史19「文明としての江戸システム」P306)

*ゴローニン、シュリーマン

著書・岩波文庫、講談社学術文庫

全ての日本人は読み書きが出来たと記しています。

 

*申叔舟(しん しゅくしゅう・1417年~1475年 、李氏朝鮮初期の政治家、1439年に文科合格し官吏となり、学問研究所兼政策諮問機関である集賢殿に登用、日本語、中国語など他の国の言語も上手かったために外交官としても活躍)

日本人の多くが読み書きが出来ると記しています。

 

*井原西鶴

西鶴織留(6巻からなり、1694年刊、町人の経済的成功談などを集めたものです。)には、「今時は物かかぬといふ男はなく」と記しています。

18世紀の先進国である識字率はロンドンが30%、パリが10%位で地方に行けば殆どが読み書き出来なかったとも言われています。

江戸の識字率は80%越えていたのは事実と思うのが自然です。

西洋の先進国イギリス、フランス等では一部のエリート教育は行われていましたが一般人の教育は行っていないようで、これは西洋と日本の決定的な違いと思います。

*イギリス歴史学者・チャールズ・マックファーレン

日本にを賞賛した著書「日本1852―ペリー遠征計画の基礎資料」
イエズス会のフロイス・・・
日本人は西洋人に匹敵する優れた民族である。

この国の人々の性質や特質を思う時、布教に関わる喜びを禁じえません。

純真で素直でよく言いつけを守り、飲み込みが早い。

きちっと規則を守っています。

少しも無駄のないスケジュールで言葉を学び、文学、声楽、音楽の勉強に励んでいます・・・学ぶことにかけては天賦の才のある者ばかりです。

*香港貿易監督官のデーヴィス

日本がアジアで最も文明が発展した国、日本は明らかに外の世界を理解していると記しています。
当時のアメリカの新聞等も、日本は東洋のイギリスになる可能性が高いと最大級の賛辞を記しているようです。

*チャールズ マックファーレン(1852)・ペリー遠征計画の基礎資料 (草思社文庫)

ペリー艦隊が来航する前、すでに米英は高い精度で日本について掌握していたと言われています。1853年のペリー来航 の前年に刊行されています。米国の対日政策の原点を理解するための最重要資料と言われています。これらの記述から、実際の江戸時代日本は暗黒でも楽園でもなく、長所短所併せ持つが、他のアジア諸国よりもかなり洗練された文化と文明を持っていたと記しています。記述内容の一部・・・

日本人は誇り高い民族で、騙したり、横領したり、盗んだりする行為をひどく軽蔑します。この点が中国人と日本人が決定的に違う点です。

この国の海運の盛んなことにも我々は驚かざるを得ません。いったいどれだけの商業都市が海運で栄えているのか想像もつきません。天文学も相当に発展しています。トップクラスの学者はすでにラランデの論文を理解していました。彼らはクロノメーター、気圧計、温度計を製作、山の高度を気圧計で測る方法も学んでいました。

数学では世界で最初に行列式、ベルヌーイ数、エイトケンの2乗加速法を発見した、関孝和(ニュートンと同時代に活躍、和算の大家です。和算とは江戸期の日本に独自に発達した数学で、記号を使って高度な代数や幾何を解くという点では洋算と変わりませんでした。そのレベルも同時代の西洋 の数学と肩を並べるほどです。よく知られているのが円周率の計算です。正13万1072角形を使い、円周率を小数点以下11桁まで求めました。連立方程式の解を求める公式をつくる過程で発見しています。)がいます。世界で最初に全身麻酔手術を行ったのも日本人です。

総合的な科学度・文明度のバロメーターとなる地図の精密さも、伊能忠敬によって世界最高水準の正確な日本地図が作成されました・・・

 

*アメリカ経済学者トーマス・スミス

日本の出生率抑制を高評価していますが、それは授乳法が普及したためと言われています。江戸前期には人口がかなり増加しています。間引きは禁止法があります。おば捨て山伝説・・・作り話であることが分かります。

世界各国では自国の歴史、文化等を日本のように否定的に捉える国は無いように思います。江戸時代と言うと、否定的な情報ばかりが溢れているように思います。特に士農工商、鎖国と言う暗いイメージばかりを思い浮かべますが、一歩踏み込み、士農工商の実際、鎖国等が何故必要だったかを自分なりに精査すると背景が分かります。特に鎖国という言葉自体は明治以後に作られた語で、江戸時代の人々は誰も使っていませんでしたし、鎖国制度も存在していなかったようです。

近代は日本の文化、しきたり、道徳心を排除するようなグローバル化策等が多く、生きる上で大切な「共生社会」を排除するような策が多すぎるように思います。

江戸幕府策等による武士道、大和心等々、一般庶民の民度を高める寺子屋、この寺子屋を支えた多くの名も無き両親等々が上手く教育システムとして機能していたように思います。こららが功を奏し江戸時代、江戸は世界最高の識字率、文明・文化等を開花させたと思います。これらの事実は無視されてるように思います。

如何に江戸時代の歴史を正しく知るか・・・江戸時代を知ることは、私達が生きる上で大切な「共生社会」の一旦を知ることが出来ると思います。

歴史を正しく知ることは、生きていく上で心の豊かさ、心の糧として極めて大切だと思います。

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