新渡戸稲造(にとべ いなぞう)、武士道と聖書とに立脚して、日米両国の架け橋たらんと志した日本人です。
武士道・・・これほど世界に感銘、影響を及ぼした日本の本は少ないと思います。
1884(明治17)年9月、船でサンフランシスコに着いた稲造は、列車で大陸横断を目指しました。ある駅でプラットフォームに降りて景色を眺めていると、ジョン、ジョンと無遠慮に呼びかけてくる男がいました。当時のアメリカ人は中国人を見ると誰でもジョンとかチャイナマンと呼んで、馬鹿にしていました。当事は多くの中国人が阿片戦争後に、福建省、汕頭市、アモイ、マカオなどから労働力として奴隷同然のクーリー(車力)が、アメリカ大陸横断鉄道建設用等々労働者として十万人以上が米国に送り込まれていました・・・その過酷な鉄道建設には重労働を行わせるために、阿片と暴力を用いて、ただ同然の賃金で働かせていたと言われています、この事実は殆ど歴史に現れません。大げさに言えば米国横断鉄道を作ったのは中国人と言えます。
稲造は自分が中国人に間違えられているなと知りました。わたしはジョンという名ではないと言い、日本人だと稲造が言うと、日本?国はどこにあるんだ・・・
日本を知らないなと呆れたが、太平洋の架け橋になろうと決心していた稲造は、祖国の事を一人でも多くのアメリカ人に知らせたいという気持ちから、冷静に、懇切丁寧に教えてやりました。日本は中国の一部じゃなくて、中国の東にある独立国です!
新渡戸稲造、23歳にして初めてアメリカに上陸した時のことでした。
新渡戸は明治維新の6年前、文久(1862)年に盛岡の武家に生まれました。5歳の時の袴着の儀を、後年、英文の著書「思い出」の中で次のように書いています。
5歳に達したときに士になる儀式が行われ、初めて袴をつけ、初めて刀を帯び盛装して集まった親戚一同の居並ぶ真中にしつらえた碁盤の上に私はのせられ、刃のぴかぴか光る短刀を帯にさしてもらったとき、全身をしゅーんとしたものが貫くように感じ、自分がえらく重要な者になった感じがした・・・
後に世界的なベストセラーとなった「武士道」の中で「危険な武器をもつことは、一面、彼に「自尊心や責任感をいだかせる」と書いているのは、この時の思い出もあったと言われています。
新渡戸の家は盛岡藩で新田開拓や水路建設に貢献してきました。明治9(1876)年初夏、明治天皇が東北・北海道方面ご巡幸の途次、新渡戸家に立ち寄られ、開拓に貢献してきた祖父・伝(つとう)、父・十次郎の功績を賞され、今後家族の者、子孫も父祖の志をつぎ農事に励むように、とのお言葉と金一封を賜っています。
当時、稲造は東京外語学校で勉強中であったが、このお言葉に感激した。
私は、開墾事業は我が家の伝統であり、我が国民のため、さらに重要なことは陛下のため、この方面に少しでも寄与することが、私の責任であると考えるようになった・・・
御下賜金は一家の全員に分配され、稲造は記念のためにかねてから欲していた英文の「聖書」を買ったそうです。武士道と聖書と、東西文化の架け橋たらんとの志はこの頃から芽生えていたと言われています。
稲造はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で、経済学、農政学、農業経済などを学び始めましたが、養父が苦しい家計をやりくりして送金してくれますがそれが一時途絶えた事があったようです。稲造は窮迫して食事もままならず、あとはパンと水でしのがねばならなかったと言われています。アメリカ人の学友が見かねて援助を申し入れたが、稲造はきっぱりと断わりました。武士の子として、施しを受けることを潔しとしなかった為です。
この頃、アメリカ人にとって未知の国である日本の話を聞きたいという講演依頼が少しずつ来るようになったようです。最初の講演の前、司会者が紹介の言葉を述べている間に、動悸は激しくなり、膝頭は震えた。このまま逃げ出したいとさえ思ったが、武士としてあるまじき事である。えいっ、と内心で自分自身に気合いを入れ、こうなったら、上手にやろうなどと小賢しい事を考えず、思ったままをぶちまけてやろう!と覚悟を決めたと言われています。
このような経験を何度かするうちに、何時しか数百人の聴衆を前にしても原稿なしですらすら話せるようになり、またニューヨークやフィラデルフィアなどからも講演を依頼されるようになったと言われています。同時に講演料で生計のゆとりも少しずつ良くなったようです。
ボルチモアで稲造はキリスト教の一派、クエーカーに出会いました、集会でも静寂のうちに、自らの内なる光を見つめようとする姿勢に、身体が震えるような感動を覚えたと言われています。その誠実、簡素、純一さは、稲造が幼少時から叩き込まれていた武士道の精神と共鳴しあうものがあったと言われています。
クエーカーの集まりで、稲造はメリー・パターソン・エルキントンというフィラデルフィアの名門の令嬢と運命的な出会い、お互いに惹かれ合うようになりました。
稲造はジョン・ホプキンス大学で3年学んだ後、さらにドイツに3年留学、博士号を得ます。その間、メリーと文通を続け、アメリカ経由で帰国する際にフィラデルフィアに立ち寄ってメリーとの結婚式をあげましたが、双方の家は国際結婚に大反対であったと言われていますが、二人の信仰で結ばれた決意は固く、家族も認めざるをえなかったようです。
日清戦争前の日本は、アメリカ人にとって無名の極東の未開の黄色人種の一小国、そんな国の一青年とフィラデルフィアの名門エルキントン家の令嬢が結婚したというニュースは全米で一大センセーションを巻き起こしたそうです。
こうして明治24(1891)年2月9日、稲造はメリーを伴って帰国しました。
日本に戻った稲造は、札幌の農学校教授に就任、農業経済学を教える傍ら、北海道庁の技師を兼任して、開拓の指導にあたりました。さらにはメリーが縁者の遺産を受け取ると、それを元手に貧困家庭の子供たちを教える夜学校を設立、奮闘しました。
その内に多忙等によりノイローゼとなり、メリー等々の勧めで、南カリフォルニアで療養生活を送ることとしました。温暖で湿気の少ない気候、稲造の病み衰えた心身は徐々に回復しました。
そうしたある日、稲造はふとドイツ留学中、ベルギーに出向してラヴェレー教授と言葉を交わした時のことを思い出しました。
***「日本の学校には宗教教育がないとは!それでどのようにして子孫に道徳教育を授けることができるのですか!」***と教授は驚いた顔で聞いてきました・・・その時は返答できませんでした!
以来、この問いは稲造の念頭を離れることはありませんでした。稲造はそれに答えようと、療養中の時間を使って書き上げたのが英文の「武士道」です!
武士道は明治33(1900)年11月にフィラデルフィアで初版が出版され、「武士道とは何か」「武士道の源を探る」「義-武士道の光り輝く最高の支柱」と始まり・・・「義」「仁」「礼」「誠」「名誉」などの徳目を西洋の事績も豊富に引用しながら、武士道こそ日本人の道徳の形成したものである事を堂々と述べました。
明治37、38(1904,5)年の日露戦争で大国ロシアを破った原動力として日本人の国家への忠節と勇武の精神に世界の関心が集まっており、それを外国人にも分かりやすく説いた本として「武士道」はドイツ語、フランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語に訳され、世界中で広く読まれました。
米国大統領セオドア・ルーズベルトは「武士道」を読んで大変な感銘を受け、即座に60冊も買い求めて子供や友人に送り、さらにアナポリス海軍兵学校、ウェストポイント陸軍士官学校の生徒たちにも読むように強く勧めたと言われています。
英文の名著「武士道、THE BUSHIDO」によって、稲造は「太平洋の架け橋たらん」とした若き日の志を果たしました。
カリフォルニアにおける2年間の療養生活で心身の健康を回復した稲造は、台湾総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平の熱心な要請により、台湾の農業開発に打ち込みました。
稲造の進めた「品種改良」や「機械化」によって、特に台湾のサトウキビ生産は飛躍的発展を遂げ、砂糖の世界五大産地の一つになりました。台湾の農業開発が軌道に乗ると、後藤新平はこれほどの優秀な人物をいつまでもこんな役所仕事につなぎとめておくべきではないと考え、京都大学教授に推薦しました。その後、文部大臣の要請により第一高等学校校長に就任、学生たちと親身に交わりながら人格陶冶に尽くしました。
明治44(1911)年、第一回の日米交換教授として3度目の渡米、時あたかもカリフォルニアの日系移民排斥が日米摩擦を激化させていました。
これはアメリカ側の日本に関する無知に原因があると思った稲造は、米国民を啓蒙することが自らの使命であると考え、カリフォルニアのスタンフォード大学を皮切りに、東部のコロンビア大学、母校ジョンズ・ホプキンス大学、中西部のイリノイ大学など、全米の大学において166回もの講演を行いました。
大統領と会談、バートン上院議員等と昵懇になって議会での排日法提出を未然に防ぎました。ある新聞は稲造をミカドの使わされた平和の大使と賞賛しました。
大正8(1919)年、パリで第一次世界大戦の講和条約が調印され、国際連盟が誕生、西園寺公望公爵を中心とする日本の全権団は、国際連盟の規約に人種平等条項を入れる事を提案し、過半数の支持を集めたが、議長を努めたウィルソン米国大統領の多数決で無く、案件が重大すぎるので全員一致が必要で否決されました・・・今までは重大案件も多数決であったのに!
戦勝国中の有力国日本から国際連盟の事務局次長を出すことになり、ちょうどパリに旅行で立ち寄った稲造に白羽の矢がたちました。
国際社会の尊敬を集め、日本文化についても造詣の深い新渡戸稲造こそ、連盟事務局次長という重職にふさわしい人間であると言う事で!
事務総長はイギリスのドラモンド卿でしたが、ヨーロッパ各国への国際連盟精神普及のための講演は、7、8割を稲造が担当しました。
この点についてドラモンド卿は、ただ演説が上手であるばかりでなく、聴講者に深い感動を与える点において、わが連盟事務局中、彼に及ぶ者はいないと述べています。隣国、中国人やインド人等々からは新渡戸先生は、ひとり日本の誇りを高めたのみならず、われわれ東洋人の地位を高めてくれたと感謝されました。事務局次長として、稲造は国際間の学術文化交流を目的として国際知的協力委員会を創設し、さらに幹事長として活躍しました。
この委員会には、アインシュタインやキューリー夫人、フランスの哲学者ベルグソン、文学者ポール・バレリーなど世界的に著名な文化人が顔を揃えています。この委員会は今日のユネスコ(国際連合教育科学文化機構)の前身となります。稲造は特にベルグソンと親交を結び、議論を交わしました。
国際連盟事務次長としての7年間の重責を果たした後、稲造は険悪化する日米関係を好転させようと必死の努力を続けました。
当時、アメリカでの排日移民法成立、日本側の満洲事変に対して、双方の非難は激しさを加える一方でした。
昭和7年4月から稲造は71歳の老躯を駆って1年間アメリカに滞在し、カリフォルニアでは排日派政治家と精力的に会談して、排日移民法の撤回を要求し続けました。
フーバー大統領との会見では、両国の忍耐による協力と平和維持を説きました。さらにスチムソン国務長官と全米に向かってラジオ放送を行い、満洲事変に関して日本の立場を堂々と主張しました。各地での講演も百回を超えたと言われています。
翌年3月に帰朝すると、日米関係を深く懸念されている昭和天皇は稲造をお召しになり、1時間あまりにわたって説明を聴かれ、その労をねぎらわれました。この時の感銘を後の講演で、稲造はこう語っています。
日本人は日本の国のために、自分の持てる才能を生かして、国のため、世界のために尽くすことがすなわち陛下に忠誠を尽くすことであり、国民としての義務を果たすことである・・・
5ヶ月後の8月、休む間もなく、稲造はバンクーバーでの太平洋会議に参加するために出発、9月13日、バンクーバー近郊の美しい港町ビクトリアにて激しい腹痛に襲われて入院、そのまま10月15日に帰らぬ人となりました。享年72歳
「国を思ひ世を憂ふればこそ何事も忍ぶ心は神ぞ知るらん」・・・
太平洋の架け橋として一生を捧げた、正に武士の生涯であったと言われています。
時代は経過しましたが、英文等の武士道は世界中で現在も読み続けられていますし、日本を理解するには最高の文献、資料と言われています。残念ながら日本の教育現場等で使用されることはほとんど無いと言われています。多くの日本人に是非読んで貰いたい本です!
記事内容はウィキペディア、武士道(PHP)、ネット資料等々を参考にしていますが、一部コピーの部分があります。
武士道・・・これほど世界に感銘、影響を及ぼした日本の本は少ないと思います。
1884(明治17)年9月、船でサンフランシスコに着いた稲造は、列車で大陸横断を目指しました。ある駅でプラットフォームに降りて景色を眺めていると、ジョン、ジョンと無遠慮に呼びかけてくる男がいました。当時のアメリカ人は中国人を見ると誰でもジョンとかチャイナマンと呼んで、馬鹿にしていました。当事は多くの中国人が阿片戦争後に、福建省、汕頭市、アモイ、マカオなどから労働力として奴隷同然のクーリー(車力)が、アメリカ大陸横断鉄道建設用等々労働者として十万人以上が米国に送り込まれていました・・・その過酷な鉄道建設には重労働を行わせるために、阿片と暴力を用いて、ただ同然の賃金で働かせていたと言われています、この事実は殆ど歴史に現れません。大げさに言えば米国横断鉄道を作ったのは中国人と言えます。
稲造は自分が中国人に間違えられているなと知りました。わたしはジョンという名ではないと言い、日本人だと稲造が言うと、日本?国はどこにあるんだ・・・
日本を知らないなと呆れたが、太平洋の架け橋になろうと決心していた稲造は、祖国の事を一人でも多くのアメリカ人に知らせたいという気持ちから、冷静に、懇切丁寧に教えてやりました。日本は中国の一部じゃなくて、中国の東にある独立国です!
新渡戸稲造、23歳にして初めてアメリカに上陸した時のことでした。
新渡戸は明治維新の6年前、文久(1862)年に盛岡の武家に生まれました。5歳の時の袴着の儀を、後年、英文の著書「思い出」の中で次のように書いています。
5歳に達したときに士になる儀式が行われ、初めて袴をつけ、初めて刀を帯び盛装して集まった親戚一同の居並ぶ真中にしつらえた碁盤の上に私はのせられ、刃のぴかぴか光る短刀を帯にさしてもらったとき、全身をしゅーんとしたものが貫くように感じ、自分がえらく重要な者になった感じがした・・・
後に世界的なベストセラーとなった「武士道」の中で「危険な武器をもつことは、一面、彼に「自尊心や責任感をいだかせる」と書いているのは、この時の思い出もあったと言われています。
新渡戸の家は盛岡藩で新田開拓や水路建設に貢献してきました。明治9(1876)年初夏、明治天皇が東北・北海道方面ご巡幸の途次、新渡戸家に立ち寄られ、開拓に貢献してきた祖父・伝(つとう)、父・十次郎の功績を賞され、今後家族の者、子孫も父祖の志をつぎ農事に励むように、とのお言葉と金一封を賜っています。
当時、稲造は東京外語学校で勉強中であったが、このお言葉に感激した。
私は、開墾事業は我が家の伝統であり、我が国民のため、さらに重要なことは陛下のため、この方面に少しでも寄与することが、私の責任であると考えるようになった・・・
御下賜金は一家の全員に分配され、稲造は記念のためにかねてから欲していた英文の「聖書」を買ったそうです。武士道と聖書と、東西文化の架け橋たらんとの志はこの頃から芽生えていたと言われています。
稲造はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で、経済学、農政学、農業経済などを学び始めましたが、養父が苦しい家計をやりくりして送金してくれますがそれが一時途絶えた事があったようです。稲造は窮迫して食事もままならず、あとはパンと水でしのがねばならなかったと言われています。アメリカ人の学友が見かねて援助を申し入れたが、稲造はきっぱりと断わりました。武士の子として、施しを受けることを潔しとしなかった為です。
この頃、アメリカ人にとって未知の国である日本の話を聞きたいという講演依頼が少しずつ来るようになったようです。最初の講演の前、司会者が紹介の言葉を述べている間に、動悸は激しくなり、膝頭は震えた。このまま逃げ出したいとさえ思ったが、武士としてあるまじき事である。えいっ、と内心で自分自身に気合いを入れ、こうなったら、上手にやろうなどと小賢しい事を考えず、思ったままをぶちまけてやろう!と覚悟を決めたと言われています。
このような経験を何度かするうちに、何時しか数百人の聴衆を前にしても原稿なしですらすら話せるようになり、またニューヨークやフィラデルフィアなどからも講演を依頼されるようになったと言われています。同時に講演料で生計のゆとりも少しずつ良くなったようです。
ボルチモアで稲造はキリスト教の一派、クエーカーに出会いました、集会でも静寂のうちに、自らの内なる光を見つめようとする姿勢に、身体が震えるような感動を覚えたと言われています。その誠実、簡素、純一さは、稲造が幼少時から叩き込まれていた武士道の精神と共鳴しあうものがあったと言われています。
クエーカーの集まりで、稲造はメリー・パターソン・エルキントンというフィラデルフィアの名門の令嬢と運命的な出会い、お互いに惹かれ合うようになりました。
稲造はジョン・ホプキンス大学で3年学んだ後、さらにドイツに3年留学、博士号を得ます。その間、メリーと文通を続け、アメリカ経由で帰国する際にフィラデルフィアに立ち寄ってメリーとの結婚式をあげましたが、双方の家は国際結婚に大反対であったと言われていますが、二人の信仰で結ばれた決意は固く、家族も認めざるをえなかったようです。
日清戦争前の日本は、アメリカ人にとって無名の極東の未開の黄色人種の一小国、そんな国の一青年とフィラデルフィアの名門エルキントン家の令嬢が結婚したというニュースは全米で一大センセーションを巻き起こしたそうです。
こうして明治24(1891)年2月9日、稲造はメリーを伴って帰国しました。
日本に戻った稲造は、札幌の農学校教授に就任、農業経済学を教える傍ら、北海道庁の技師を兼任して、開拓の指導にあたりました。さらにはメリーが縁者の遺産を受け取ると、それを元手に貧困家庭の子供たちを教える夜学校を設立、奮闘しました。
その内に多忙等によりノイローゼとなり、メリー等々の勧めで、南カリフォルニアで療養生活を送ることとしました。温暖で湿気の少ない気候、稲造の病み衰えた心身は徐々に回復しました。
そうしたある日、稲造はふとドイツ留学中、ベルギーに出向してラヴェレー教授と言葉を交わした時のことを思い出しました。
***「日本の学校には宗教教育がないとは!それでどのようにして子孫に道徳教育を授けることができるのですか!」***と教授は驚いた顔で聞いてきました・・・その時は返答できませんでした!
以来、この問いは稲造の念頭を離れることはありませんでした。稲造はそれに答えようと、療養中の時間を使って書き上げたのが英文の「武士道」です!
武士道は明治33(1900)年11月にフィラデルフィアで初版が出版され、「武士道とは何か」「武士道の源を探る」「義-武士道の光り輝く最高の支柱」と始まり・・・「義」「仁」「礼」「誠」「名誉」などの徳目を西洋の事績も豊富に引用しながら、武士道こそ日本人の道徳の形成したものである事を堂々と述べました。
明治37、38(1904,5)年の日露戦争で大国ロシアを破った原動力として日本人の国家への忠節と勇武の精神に世界の関心が集まっており、それを外国人にも分かりやすく説いた本として「武士道」はドイツ語、フランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語に訳され、世界中で広く読まれました。
米国大統領セオドア・ルーズベルトは「武士道」を読んで大変な感銘を受け、即座に60冊も買い求めて子供や友人に送り、さらにアナポリス海軍兵学校、ウェストポイント陸軍士官学校の生徒たちにも読むように強く勧めたと言われています。
英文の名著「武士道、THE BUSHIDO」によって、稲造は「太平洋の架け橋たらん」とした若き日の志を果たしました。
カリフォルニアにおける2年間の療養生活で心身の健康を回復した稲造は、台湾総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平の熱心な要請により、台湾の農業開発に打ち込みました。
稲造の進めた「品種改良」や「機械化」によって、特に台湾のサトウキビ生産は飛躍的発展を遂げ、砂糖の世界五大産地の一つになりました。台湾の農業開発が軌道に乗ると、後藤新平はこれほどの優秀な人物をいつまでもこんな役所仕事につなぎとめておくべきではないと考え、京都大学教授に推薦しました。その後、文部大臣の要請により第一高等学校校長に就任、学生たちと親身に交わりながら人格陶冶に尽くしました。
明治44(1911)年、第一回の日米交換教授として3度目の渡米、時あたかもカリフォルニアの日系移民排斥が日米摩擦を激化させていました。
これはアメリカ側の日本に関する無知に原因があると思った稲造は、米国民を啓蒙することが自らの使命であると考え、カリフォルニアのスタンフォード大学を皮切りに、東部のコロンビア大学、母校ジョンズ・ホプキンス大学、中西部のイリノイ大学など、全米の大学において166回もの講演を行いました。
大統領と会談、バートン上院議員等と昵懇になって議会での排日法提出を未然に防ぎました。ある新聞は稲造をミカドの使わされた平和の大使と賞賛しました。
大正8(1919)年、パリで第一次世界大戦の講和条約が調印され、国際連盟が誕生、西園寺公望公爵を中心とする日本の全権団は、国際連盟の規約に人種平等条項を入れる事を提案し、過半数の支持を集めたが、議長を努めたウィルソン米国大統領の多数決で無く、案件が重大すぎるので全員一致が必要で否決されました・・・今までは重大案件も多数決であったのに!
戦勝国中の有力国日本から国際連盟の事務局次長を出すことになり、ちょうどパリに旅行で立ち寄った稲造に白羽の矢がたちました。
国際社会の尊敬を集め、日本文化についても造詣の深い新渡戸稲造こそ、連盟事務局次長という重職にふさわしい人間であると言う事で!
事務総長はイギリスのドラモンド卿でしたが、ヨーロッパ各国への国際連盟精神普及のための講演は、7、8割を稲造が担当しました。
この点についてドラモンド卿は、ただ演説が上手であるばかりでなく、聴講者に深い感動を与える点において、わが連盟事務局中、彼に及ぶ者はいないと述べています。隣国、中国人やインド人等々からは新渡戸先生は、ひとり日本の誇りを高めたのみならず、われわれ東洋人の地位を高めてくれたと感謝されました。事務局次長として、稲造は国際間の学術文化交流を目的として国際知的協力委員会を創設し、さらに幹事長として活躍しました。
この委員会には、アインシュタインやキューリー夫人、フランスの哲学者ベルグソン、文学者ポール・バレリーなど世界的に著名な文化人が顔を揃えています。この委員会は今日のユネスコ(国際連合教育科学文化機構)の前身となります。稲造は特にベルグソンと親交を結び、議論を交わしました。
国際連盟事務次長としての7年間の重責を果たした後、稲造は険悪化する日米関係を好転させようと必死の努力を続けました。
当時、アメリカでの排日移民法成立、日本側の満洲事変に対して、双方の非難は激しさを加える一方でした。
昭和7年4月から稲造は71歳の老躯を駆って1年間アメリカに滞在し、カリフォルニアでは排日派政治家と精力的に会談して、排日移民法の撤回を要求し続けました。
フーバー大統領との会見では、両国の忍耐による協力と平和維持を説きました。さらにスチムソン国務長官と全米に向かってラジオ放送を行い、満洲事変に関して日本の立場を堂々と主張しました。各地での講演も百回を超えたと言われています。
翌年3月に帰朝すると、日米関係を深く懸念されている昭和天皇は稲造をお召しになり、1時間あまりにわたって説明を聴かれ、その労をねぎらわれました。この時の感銘を後の講演で、稲造はこう語っています。
日本人は日本の国のために、自分の持てる才能を生かして、国のため、世界のために尽くすことがすなわち陛下に忠誠を尽くすことであり、国民としての義務を果たすことである・・・
5ヶ月後の8月、休む間もなく、稲造はバンクーバーでの太平洋会議に参加するために出発、9月13日、バンクーバー近郊の美しい港町ビクトリアにて激しい腹痛に襲われて入院、そのまま10月15日に帰らぬ人となりました。享年72歳
「国を思ひ世を憂ふればこそ何事も忍ぶ心は神ぞ知るらん」・・・
太平洋の架け橋として一生を捧げた、正に武士の生涯であったと言われています。
時代は経過しましたが、英文等の武士道は世界中で現在も読み続けられていますし、日本を理解するには最高の文献、資料と言われています。残念ながら日本の教育現場等で使用されることはほとんど無いと言われています。多くの日本人に是非読んで貰いたい本です!
記事内容はウィキペディア、武士道(PHP)、ネット資料等々を参考にしていますが、一部コピーの部分があります。