三浦知良選手
以下文はウィキペディア、スポーツランキングplus+、横浜FC公式サイト等々の資料を参考にしています。
新型コロナ・ウイルス感染下でも私達に未来への夢、勇気、希望を与えているスポーツ・・・
Jリーグ・サッカー選手達、2020シーズンの登録選手数はJ1が565人、J2が656人、J3が429人の合計1650人です。
最年長はJ2からJ1に復帰した、横浜FCのFW(サッカーのポジションの一つで最も相手ゴールに近い位置でプレーする選手で、英語のFowardを省略した形で、前へという意味です。)・三浦知良(みうら かずよし)選手で52才11ヶ月!
サッカーは体力を著しく消耗するスポーツの一つで、53才と言う年齢での試合参加は、凄いばかりでなく、自分の人生の大切さ、日々の努力の大切さ、未来への目標・夢・希望・勇気、人との絆の大切さを身をもって教えてくれていると思います。
日本の主なスポーツは、人口の多い順からだとウォーキング、ボウリング、水泳、ゴルフ、バドミントン、卓球、サッカー、野球(軟式を含む)、スキー、バレーボール、バスケットボール、ソフトボール、テニス(硬式テニス)、登山、スノーボード、ソフトバレーボール、グラウンドゴルフ、アイススケート(スケート)、綱引、ソフトテニス(軟式テニス)、エアロビックダンス、フットサル、陸上競技、ダンススポーツ(社交ダンス)、剣道、ゲートボール、柔道、体操、ラグビー(タグラグビー含む)、ボート等々のようです。
スポーツランキングplus+の資料では、体力を使う主なスポーツは1位が水泳、後にジョギング・マラソン、サッカー、フットサル等々となるようです。
三浦知良選手のサッカーに対する情熱・・・私達にスポーツが与える未来への夢、勇気、希望、人との絆は意識しなくても日々の影響は、極めて大きいと思います。特筆すべきは三浦知良選手は厳しい一面、心優しい方でもあり、三浦知良選手の生き方から私達は学ぶべきものが多々あると思います。
海外メディアのポルトガルメディアのパブリコ、伊メディアのスポーツメディアセット、スペインメディアのエル・パイス、英紙のスカイスポーツ、仏紙のレキップ等々大手メディア等、世界中の多くのスポーツメディア誌は三浦知良選手の一挙動に至るまで驚きをもって報道される時があります。
J1・前人未到のプロ生活36年目、53才の現役選手という事実は、内外の多くの人達に深い感動を与えていると思います。日本のスポーツ、サッカーの発展に寄与してきた三浦知良選手、何時の日にか国民栄誉賞を与えてほしいものです。
静岡県静岡市葵区出身の現役、J1・横浜FC・プロフェッショナルリーグでプレーする世界最年長のプロサッカー選手、三浦知良選手・・・
サッカーは大変体力を使うスポーツの一つと言われ、年令とともに体力は低下しますが、三浦選手のサッカーを続ける姿勢を見ると私達に、自分の人生の大切さ、努力の大切さ、未来への目標・夢・勇気・希望・人との絆を継続させることの大切さを教えていると思います。ニックネームは「カズ」、「キング・カズ」と言われてきました。53才で現役とは本当に凄いことです。
サッカーの体力消耗は極めて大きく過去、ワールドカップブラジル大会で優勝したドイツのトーマス・ミュラー選手は、決勝までの7試合、総走行距離は83.957kmだったそうで、1試合あたり10㎞以上を「全力」で走っています。
三浦知良選手は、ブラジルから日本帰国後はセンター・フォワードとしてJリーグで活躍、日本のワールドカップ初出場に貢献しました。ワールドカップ予選では総得点を27点記録しましたがワールドカップ本大会へは出場しませんでした。
Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年アジア年間最優秀選手賞受賞、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持っています。
三浦選手は1967年2月26日、父・納谷宣雄氏、母・由子さんの次男として生まれましたが、小学校4年生の時に両親が離婚、納谷から三浦姓となりました。
1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退、ブラジルに単身渡航、CA・ジュベントスに所属していましたが大成しませんでした。
日本に帰国することも一時検討・・・ふと寄ったリオの公園で、現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まるきっかけを作ったと言われています。
その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て自分には両足もスパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだと思い、帰国を思い留まったそうです。この時の思いは現役の今でも心の隅に生き、サッカーへの情熱の源となっていると思います。
1990年2月、サントス・FCへ4年ぶりに再移籍後、パルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利、翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦知良選手の活躍を伝えています。
ブラジルで活躍すれば、いずれは日本へ戻ると公言していた三浦選手は、1990年7月、J発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍、1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導いた上、大会MVPにも選出、活躍が評価され三浦選手は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞しています。
Jリーグ開幕後は、ラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉等々、多くのチームメイトに恵まれ、絆を大切にされています。川崎の名を冠していた時代のヴェルディの黄金期を支えた選手の一人です。
エピソードとして、2017年、背番号11にちなみ1月11日11時11分に横浜・FCのクラブ公式サイトで契約延長と発表されました。この年の開幕日は誕生日の2月26日であり、開幕と同時に50才となり初の50代Jリーガーとなりました。
本人は冷静に・・・
49才から1つしか年をとっていない。
実際は数字的なもので大した変化はない。
少しずつ全部が衰えていくのが普通、でもサッカーは11人の連動、基礎体力と技術があれば組み合わせ次第で新しい自分が見せられる、ゴール前の動き次第で点が取れると述べています。
練習時は朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つ、年令が若手選手と親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなし、一日に何度も体重測定等々徹底した体調管理を行っていると言われています。シドニーFC(2005年)在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から、カズはサッカー選手のお手本、シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだと賛辞を贈られています。
ブラジル永住権を持っており、ブラジル公用語のポルトガル語が堪能で、チームではブラジル人選手の面倒もよく見るそうです。
以外なのは、好物は「おはぎ」で、全国おはぎ協会会長を自負しているそうです。
53才と言うと、終活準備の方もいますが、三浦知良選手は自分が信じたサッカーを日々の努力により、より確かな自分のサッカーにしていると思います。
三浦知良選手のサッカー人生を貫く姿勢は、特に多くの年配者への最高のプレゼントかも知れません。年齢を重ねてもなお、ピッチの内外で存在感を発揮するFW・三浦和義選手、新しい、未踏の記録に向かってほしいものです。
新型コロナ。ウイルス感染下ではありますが、スポーツが私達に与える未来への夢、勇気、希望、人との絆は極めて大きいと思う昨今です。