極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日本の国難に対峙した、貧しい武士・竹崎季長(たけさき・すえなが)

2021-01-12 09:40:59 | 日本社会

竹崎季長(たけさき・すえなが)と聞いても誰だろうかと思う人が多いと思います。恩賞(近世以前に行われた合戦において、主君が武士が戦功を挙げた家人や武士に対して表彰し、所領もしくは官途状、感状、物品の授与、 格式の免許、官職への任官の推薦を行うこと。)を目指していたことも事実でしょうが、その根底にある勇敢、律儀(りちぎ)、一途(いちず)、恩義、公に対する活躍に対する少しばかりの生きるための欲・・・古来日本人の美徳等を持った人物と言えそうで、700年前の鎌倉時代の名も無い一介の貧しい武士です。このような考え等は、戦後GHQ策以前の人達には自然に理解できていたようです。

元寇・・・日本の歴史上最大の国難でしたが、このような名も無き多くの鎌倉武士の奮闘により日本は元寇を撃退しています、神風がふいたから運が良かったと言う方もいますが、当時の鎌倉武士が持っていた勇敢、律儀、一途、恩義等により、神風が吹かなくても間違いなく元寇を撃退したと思います。もし、元寇に日本が大敗していたら占領され、属国となり私達も、当然、令和3年の今日のような形では存在しない可能性があります。

 

竹崎季長(たけざき すえなが)は鎌倉時代中期の肥後国(熊本)の武士で、貧しい鎌倉幕府御家人(鎌倉時代、将軍と主従関係を結んだ武士身分の呼称)ですが、元寇日本侵攻における、自身等の戦いを描いた蒙古襲来絵詞で有名です。

当時、絵詞(え・ことば)を書くことが出来るのは皇族、有力貴族、大きな財力がある寺、等神社等しかできない大変な大事業です。自身の財が厳しく無くなろうとも元寇の日本侵攻、自分を助けてくれた肥前国御家人・白石通泰(しろいし・みちやす)、恩賞奉行である安達泰盛(あだち・やすもり)をどうしても後世に残したかった竹崎季長・・・現在、この絵詞が残っているので私達は当時の元寇日本侵攻を絵・詞で知ることが出来ます。明治天皇は大変この絵詞に関心をお持ちになったと言われています。

現在、蒙古襲来絵詞の実物は宮内庁・三の丸蔵館で保管されているそうです。模写絵詞は熊本県宇城市小川町東海東の菩提寺・塔福寺にあると言われています。

この蒙古襲来絵詞は私達が忘れかけようとしている日本人の心、公に対する奉公、当時の武士達の公に対する行動、恩義、心情等々を私達に今も語り掛けていると思います。この蒙古襲来絵詞は40mにも及ぶ長さの絵詞だそうです。

日本存亡の危機を迎えた元寇の日本侵攻・・・鎌倉時代中期1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)

竹崎季長は肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)の出身で、同族内の所領争いに敗れて没落したと言われています。このため季長が持っていた所領は相当少なかったか、もしくは所領を失った無足の御家人であったとも言われています。

文永11年(1274年)、大モンゴル国の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、日本軍の総大将・少弐景資が陣を敷く息の浜(福岡・博多の海側)に参陣しました。

参陣といっても貧しい身で竹崎季長本人、姉婿の三井三郎資長、旗指(戦場で大将の旗印を持つ侍)の三郎二郎資安、郎従(主人と 主従関係をもつ家の子「血縁関係がある者」)の藤源太すけみつ、中間一騎の僅か五騎です、貧しい身、日用品の多くも売り払い、貧しい村人もなけなしの食べ物等々を出陣の竹崎季長に持たせ見送ったとも言われています。

竹崎季長は少弐景資に元軍に対して、先駆け(他の者よりも先に敵の中に攻め入り、それを行う人で栄誉であると言われています。)を行うことを申し出て景資もそれを許可しました。季長は僅か五騎で元軍の方に向かいました。

竹崎季長は元軍に対し先駆けを行いましたが竹崎季長以下三騎が負傷、危機的な状況になりましたが、後続から肥前(佐賀)国御家人・白石通泰が到着、危機一髪で助けられました。白石通泰は後、季長を頼り肥後国海東郷「現熊本県宇城市海東地区」に移り住みましたが、竹崎季長は白石通泰を海東阿蘇神社の神職として迎えています。白石家は現在に至るまで海東阿蘇神社の社家を代々勤めているそうです。この戦で竹崎季長の武功は負傷したのみで、戦功とは認められなかったのか、幕府には報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われています。戦後GHQ策のためか、昨今の竹崎季長への評価は、恩賞が欲しいための自己中心等であると言う評価が多いようです。

竹崎季長は「先駆け」の功を認めてほしいと、建治元年(1275年)6月に、貧しいため馬、日常生活品などを売り払って旅費を工面、鎌倉へ赴いて幕府に直訴します。

同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たし、面会が実現したものの、なかなか自分に対する恩賞が認められませんでした。先例がないと言う安達泰盛・・・素人なりに精査すると竹崎季長は恩賞ばかりを求めておらず、恩賞も欲しかったと思いますが、何よりも「一番掛け」と言う「名誉」を認めて欲しかったようです。現代からしたら理解出来ないかも知れませんが、大和心の一部であるかも知れません。

 

恩賞奉行・安達泰盛の側近より「あなたが、もし嘘をついていたならば首を召されよ」

奇異のしたたか者よ、と驚いた恩賞奉行の安達泰盛からの言葉・・・「このような一介の武士でも、鎌倉の一大事にも忠勤されるだろう。」との言葉、この名誉な言葉に竹崎季長は、この耳で聞いてうれし涙を流したのは終生忘れることが出来ない言葉だったと思われます。これらの終生忘れることが出来ない事実をどうしても絵詞に書きたかったと思います。

竹崎季長の熱心さに折れた恩賞奉行の安達泰盛・・・何よりも「一番掛け」の名誉と共に、結果として馬一頭、恩賞地として肥後国海東郷(現熊本県宇城市海東地区の40町歩)の地頭に任じられました。

一介の武士であっても命をかけて奉公すれば、結果として必ずや報われる。このニュースはたちまちのうちに広がり、以後の鎌倉武士の志気を高め、再度の蒙古襲来、弘安の役でも勝利につながる大きな要因の一つになったと思います。以後124人(NHK・その時歴史が動いたより)に対し恩賞が与えられたと言われていますが、元寇を撃退しても、元の領地等々が手に入るわけでも無く、幕府は恩賞の工面に大変苦しんだと言われています。

 

弘安4年(1281年)、第二次侵攻である弘安の役(日本側は博多湾側に防塁を約20キロ作りました。底部幅2~3m、上部幅2m程度、高さ2~3m程度を築きました。この防塁は元寇の2次侵攻時は元寇の侵入を阻止しました。今も史跡として一部残っております。)では、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において、志賀島の戦いや御厨(みくりや)海上合戦で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられたようです。

永仁元年(1293年)には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に蒙古襲来絵詞を2部描かせ、甲佐大明神へ奉納と子孫への申し送りを行っています。

このとき竹崎季長に恩賞の便宜を取り計らった恩賞奉行・「安達泰盛」や先駆けを許可した「少弐景資」らは、弘安8年(1285年)の霜月騒動等々で殺害、共に戦った少弐景資も安達泰盛方と思われ追討を受け殺害されました。この時は竹崎季長は極貧で2人に対し供え物をあげたいが俺は何一つ出来ないと悔しがったと言われています。この2人には恩義があり、蒙古襲来絵詞は彼らへの鎮魂の意味があると考えられています。「特に、この二人の顔面はやや白く分かりやすいように書かれ、人物が特定できるようにしている」ようです。恩義、律儀(りちぎ)、一途(いちず)・・・古来日本人の美徳等を持った竹崎季長を垣間見ることが出来ます。

永仁元年(1293年)、菩提寺・塔福寺を建立して出家、法喜と号しています。同年、所領の郷社に対して祭田・修理田等に関する7か条の置文を定め、正和3年(1314年)には更に18か条の置文を改めて制定しています。竹崎季長の領民を大切にする諸策により、貧しかった海東領民は大変喜び、領域民は繫栄したと平原公園墓地案内板には記されています。

以後、80代で生涯を閉じ、熊本県宇城市小川町東海東の菩提寺・塔福寺に葬られました。同市小川町北海東には竹崎季長の墓があり平原公園として整備されています。当時の竹崎季長の隠居武家屋敷も墓の手前に復元されています。

 

私達が忘れかけている公に対する奉仕、恩義、勇敢、律儀(りちぎ)、一途(いちず)、古来日本人の美徳等・・・以後、これらの考えは「武士道」の一部に通ずるものあるようにも思いますし、日本人の心はを説いた幕末の吉田松陰の「無為無私」の心に引き続いたようにも思います。

竹崎季長は700年前に名も無い一介の武士ですが、古来日本人の美徳等を持ち合わせており、このような歴史の史実を絵詞と言う大事業で忠実を現代に伝えることは日本人のみが出来ることで、何物にも代えることが出来ないと思います。学校の教科書にも表面的な恩賞ばかりでなく、当時の日本人の精神等も教えて欲しいもので、何故、貧しいながらも竹崎季長が作成したか・・・蒙古襲来絵詞の見えない部分も記してほしいものです。

現在も残る博多湾の防塁跡に立つと当時の鎌倉武士達の声が聞こえてきそうです。日本の存亡に関わる有史以来の国難、公に奉じた、名も無き多くの鎌倉武士達の奮闘により日本は救われたと言う歴史の事実は私達は忘れてはならないと思います。

 

蒙古来(頼山陽)

頼山陽(らいさんよう)、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人です。 

*****

筑海の颶気天(ぐきてん)に連なって黒し。海を蔽(おお)うて来る者は何の賊ぞ。
蒙古来る、北より来る。東西次第に呑食(どんしょく)を期
趙家(ちょうか)の老寡婦(ろうかふ)を嚇(おど)し得て、此れを持して来たり擬す男児の国
相模太郎 膽甕(たんかめ)如し、防海の将士人 各々  力む。

蒙古来る、吾は怖れず、吾は怖る関東の令  山の如きを。

直ちに前み敵を斫って顧みるを 許さず、吾が檣(ほばしら) を 倒し虜艦に登り虜将を擒(とりこ)にして、吾が軍喊す。
恨む可(べ)し東風一驅(とうふういっく) 大涛(だいとう)に附し、羶血(せんけつ)をして尽 く日本刀に膏(ちぬ)らしめざりしを。

*****

漢詩の説明
弘安4年夏・・・筑前博多の海には時ならぬつむじ風が起こり、黒雲が湧き上がり、陽光を遮り天と海水が連なった様で何やら怪しげな雲行きとなった。(来寇を譬えた。)海を蔽うような船団の襲来である。

一体何者ぞ。何処からの敵ぞ、北から侵寇してきた蒙古の敵である。

蒙古は東西の国々を次第に併呑しようとして、まず趙宋(宋は趙姓)の老寡婦(南宋は幼い王で母の楊大后が政治を行っていた)を威嚇して之を滅ぼし得たので、同様の手段で我が日本男児の国に臨んで来たのである。

しかし時の執権相良太郎北条時宗は、胆は甕のように大きく、「虜奴無礼なり」と、使者を斬り、命を受けた防海の将兵(河野通有他数人の果敢な兵)はそれぞれ防備につとめたのである。

皆は言う、「蒙古が来襲しても吾々は怖れない。吾々はむしろ「突進して敵を切れ、一歩も退くな」という関東の山の如き厳命を怖れるのである」と。

中でも音に聞こえた優勝河野通有は、小舟を漕ぎ寄せ、檣を倒して直ちに慮艦に攀じ登り、敵将王冠なる者を捕虜にした。どっと喊声が我が軍中に湧いた。

ただ、恨めしいことに、その夜東風が大涛を駆って虜艦を覆没させ、ために一兵残らず死んでしまったので、彼らの血を日本刀に塗ること(切り殺す事)が出来なかったのは、かえすがえすも残念であった。

「RAKUTEN BLOGの漢詩」より

 


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