極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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敗戦後の安全、経済発展の礎となった残置諜者(フィクション)

2020-10-27 19:21:54 | 北朝鮮

以下文は、国家情報戦略(講談社+α新書)2007/7/20・佐藤優、コウ・ヨンチョル(著)、ウィキペディア等を参考に記していますが、まとまりのない、フィクション文とします。

 

多くの方々は日本軍人=特にスパイ等に対しては、自虐史観により悪をイメージする方が多いかも知れません。スパイ活動等で日本を守るため名誉、地位を求めず、自己犠牲、非公開等を旨とすることを納得して活動してきた陸軍中野学校出身の残置諜者(ざんちちょうしゃ:終戦後も現地に留まりスパイ活動)は欧米のスパイ活動とは異質な面が多々あります、それは自己犠牲の精神を伴っていることです。自己犠牲の精神は欧米人には到底、理解できない考え方でしょう。

敗戦後の日本を案じ、特に朝鮮半島での中野学校出身・残置諜者の活動(日本の国益を考えた朝鮮半島の分断策等支援)で、戦後日本の安全確保、経済発展等を遂げることが出来たと思います。朝鮮半島での残置諜者の活動等が今日まで、日の目を見ることは皆無だったようですが、昨今は元関係者等々の情報により活動内容が断片的に解かるようになったと思います。

旧日本軍は第2次世界大戦開戦直前の1938年、欧米の列強相手に情報戦での遅れが目立ってきたため、陸軍中野学校の前身となる後方勤務要員養成所を東京・九段に設置していますが、軍内部でも存在は伏せられていたようです。

陸軍中野学校令制定により1939年、東京中野に校舎を移転して本格的に人材育成を始めたことから中野学校と呼ばれました。外国政府、軍の動静を探る秘密情報要員を養成するため、諜報(ちょうほう:秘密、機密情報を正当な所有者の許可を得る事なく取得する行為)、防諜(ぼうちょう:外国政府、テロリストによる諜報、破壊活動を無力化し、それらから政府機関の情報プログラムを守ることを目的とする活動)の訓練を行っています。戦局悪化に伴い敵地でのゲリラ戦を続けるための指導者を育成しています。1945年、空襲を避けるため群馬県に移転、敗戦廃校になるまで8年間で約2500人が卒業しています。これらの人達の戦後については殆ど公開されていませんが、自分なりに精査すれば断片的に活動した一部の人を知ることが出来ます。

敗戦後も残置諜者という任務を命じられ、フィリピンのジャングルに潜み、膨大な量の日本保有の金貨の保管状況等を監視等するため現地に留まった故小野田寛郎氏、戦後30年近く経ってから生還しました。日本帰国後はこれらの情報漏洩がないようにブラジルに一時移住させられましたが、再帰国後も故小野田寛郎氏は最後まで戦前・中の日本人を貫き通し、中野学校出身者として日本の国益等を最後まで守り通したと言われています。ユーチューブ等でこれらの考え方等を知ることが出来ます。

中野学校出身の若き情報員は東大等、一流大学出身者が多く上海、香港、満州等で情報収集に奔走。敵味方が入り交じった諜報合戦の中、敵国の人間をも利用してスパイ網を築こうとしています。陸軍中野学校では全員が一般人を装うため背広姿、長髪だったそうです。特に敗戦後、朝鮮半島に残り北朝鮮を建国、中枢を作り、敗戦国日本を守るため北朝鮮人となり今日まで日本を守ってきたと言われていますし、北朝鮮の核開発・保有は深い意味があると考えるのが自然にも思えます。

 

北朝鮮のトップは金日成→金正日→金正恩となりましたが、金日成(4人存在)誕生には、残置諜者の畑中理(はたなかおさむ:後の金策:キムチャク、故・笹川良一氏の兄弟?)が深く関わっているとも言われ、以後の金正日、金正恩には日本人の血が流れていると言われています。それぞれの名前には「正」しく「日」本を伝える、「正」しく「恩」を忘れない・・・特に拉致された横田めぐみさん問題は複雑な様相を呈してしまうと言われています。

故金正日総書記の専属料理人を13年程務めた藤本健二氏は北朝鮮国内の招待所で金正日氏と射撃の的撃ち競争のさい、藤本氏が的のど真ん中に的中させると、金正日氏から藤本氏に中野ヤー!(陸軍中野学校の意)とよく言われたことを著書に記しています。藤本氏は金正恩・朝鮮労働党委員長の幼少時代、遊び相手を務めていたそうです。この金正恩氏を産んだ女性は誰でしょうか?耳、目、鼻、口を精査すると・・・(肥満無き姿で想像)

故金正日氏は無類の映画好きで専用ホームシアターで世界中の映画を観まくっていたそうです。特に日本映画もお気に入りで、男はつらいよシリーズ、釣りバカ日誌、座頭市等の人気シリーズを愛好していたそうです。1985年には日本から映画製作スタッフ、俳優を招き、プルガサリという北朝鮮版のゴジラ映画もつくらせています。

故金正日氏は何かやってうまくいくと、お前は本当の中野出身者だと褒めていたそうで、特に市川雷蔵主演の陸軍中野学校の映画の大のファンだったそうです。何故、常に日本に対し極めて大きな関心を寄せてきたのか、自身の生い立ちを理解していたからでしょう。2014年3月、モンゴルで横田夫妻、孫でめぐみさんの娘キム・ウンギョンさんと会われていますが、その後貴賓室に移動されて・・・VIP扱いされている方とお会いされています。無情にも結論が出ていたように思います。

「国家情報戦略」の書の中で、コウ・ヨンチョル氏(拓殖大学客員研究員、韓国統一進興院 専任教授、朝鮮半島外交・安保、歴史・文化及び北朝鮮情報分析専門家)は北朝鮮が陸軍中野学校を模倣していたと指摘、戦前・中の陸軍中野学校出身の人達のうち少数は朝鮮半島に残り、かなりの人達が戦争が終わっても、しばらくの間、北朝鮮に残ったと述べています。初期の中野学校の教育方法は、北朝鮮のインテリジェンス工作にすごく似ていると述べています。

工作員の養成方法、ある国の人に成り済ましてしまう忍者の草を植え付けるようなやり方、風船、気球の使い方、偽札戦略等は、どれも日本人の戦術だったと指摘、高氏も陸軍中野学校という究極の情報機関は、北朝鮮の工作機関の手本になったと指摘、韓国国防省の情報本部にいたときは、北朝鮮のスパイ工作機関が優れた工作活動をしているのは、陸軍中野学校の教科書を使ってスパイ活動のノウハウを覚えたからだと聞いていたそうです。北朝鮮は、旧ソ連のKGB、中国情報機関、共産主義国家の諜報機関のテキスト、経験からも学んでいますが、一番受け入れやすく、覚えやすかったのが陸軍中野学校の情報技術だったと述べています。

陸軍中野学校と北の工作機関との関係性を指摘する証言があります。2005年11月5日付の産経新聞の記事・・・北朝鮮の元工作員、安明進(アン・ミョンジン;元朝鮮民主主義人民共和国工作員、金正日政治軍事大学卒、韓国への亡命後、国家安全企画部を経て、韓国ガス公社勤務)氏は金正日政治軍事大学にいた際、映画・陸軍中野学校を教材として何度も見せられていたと述べています。横田めぐみさん、曽我ひとみさんも、一緒にこの映画をスライドで見た・・・安明進氏は拉致被害者の蓮池薫さんを工作員養成のための学校で見たという証言していましたが、途中から○○で一変で否定され、何故一変したか?関連発言の信憑性には疑問を呈する声も多いようです。

 

私達は歴史の教訓に目を背け、学んでいないと思います。特に戦前・中・後の日本の歴史、日本人の生き様・・・敗戦、GHQ策により日本人の魂、精神等は切り刻まれてしまいました。昨今の、根底に潜む学術会議問題も溯(さかのぼ)れば、これらの策に影響された結果かも知れません。この方達の一部に言えるのは全ては己、自己が全て、菅首相・政府批判を国内、世界に発し、自身の綻びを隠すことで自己満足の世界を作っているように思えます。

自身の全てを犠牲にしても敗戦後の日本を守りたかった中野学校出身の残置諜者、国、公のために尽くすと言うと大半が否定される現代から見たら考えられない可笑しなことかも知れません。今日の何不自由なく平和・秩序のなかで生きていける日本、この平和・秩序の元を辿れば、中野学校出身者の人達のお陰かも知れません。

北朝鮮・拉致問題等を正しく理解するには中野学校出身者・残置諜者の敗戦後の行動を徹底的に精査することは必須で、北朝鮮問題=拉致問題=核問題かも知れません。これらの歴史が事実であれば、多くの日本人は驚愕の内容に驚き、戸惑うかも知れません。どうしても拉致問題の深部を探るには、中野学校出身者、畑中理(金策)等々を精査する必要があると思います。

昨今の日朝間の諸問題、トランプ大統領は朝鮮半島の平和に尽くしてきたのは間違いない事実だと思いますし、再選されれば日朝間の問題も大きく改善する可能性があったと思います。公開資料等々で精査するとトランプ大統領、金正恩委員長間の信頼は極めて大きいと思います。

日本政府は2019年2月8日、トランプ大統領、金正恩委員長との会談に合わせ、現地に金杉憲治外務省アジア大洋州局長を派遣して日米連携等に当たらせています。

北朝鮮問題等をメディア無しで、2月27日~28日通訳を挟んだ1対1の会談を行っています。一説ではこのハノイ会談は北朝鮮の真相等々をトランプ大統領に語ったとも言われています。何故、外務省アジア大洋州局長を送り込んだか・・・横田めぐみさんの問題も当然話したでしょう。戦後はじめて通訳なしでの英語での両国の一対一での真相の話し合い、日本・北朝鮮を理解したトランプ大統領は最大の日本理解者でもあり、北朝鮮の最大の理解者は間違いなくトランプ大統領だったと思います。

 

参考資料

中野学校は、諜報、防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした陸軍の軍学校、情報機関で所在地は東京中野区で校名の中野は地名に由来するようです。偽装用の通称号は東部第33部隊と言われています。

創設の昭和12年、戦いでの謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄中佐が参謀本部に諜報謀略の科学化という意見書を提出したことに始まと言われています。昭和12年、陸軍省が中心となって創設を決定、岩畔、秋草俊、福本亀冶、各中佐を中心として昭和13年3月に防諜研究所として新設、7月より特種勤務要員19名の教育を開始しています。昭和14年5月、後方勤務要員養成所に改編、7月には第一期学生が卒業しています。昭和15年には陸軍中野学校と改名、昭和16年、参謀本部直轄の軍学校へ転身、存在は陸軍内でも極秘とされていたようです。

創立当初は東京・九段の愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったようですが、昭和14年4月、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転、昭和20年4月、空襲激化で群馬県富岡町に疎開、富岡中学校などの施設を利用して講義が行われています。スパイ技術養成機関でしたが開戦を機にゲリラ戦術教育機関へ変っています。

昭和19年8月、静岡県二俣町にゲリラ戦要員養成を目的として陸軍中野学校二俣分校が設立され、昭和49年、ルバング島から帰国した小野田少尉、インドシナ戦争中にベトミンのクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男氏は卒業生です。

学生は陸軍士官学校、陸軍予備士官学校、陸軍教導学校出身者から選抜、大半は一般大学卒等の学歴を持ち、甲種幹部候補生(陸軍予備士官学校卒)出身者で、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒者は少数であったようです

 

昭和20年1月3日、中野学校に入校した第8期生150名のうち90%以上は一般大学、高等専門学校の出身者、東京帝国大学(現在の東京大学)が最も多く、次いで拓殖大学、東京外事専門学校(現在の東京外国語大学)、早稲田大学、慶応大学、明治大学等と続いています。名門、一般大学出身者から数多く選抜された理由は諜報員として幅広く高い学識、冷静な視点の他、市井の生活習慣に馴染んでいることが求められていたためです。一般的な職業軍人たる陸士卒の現役将校の場合、軍人としての規律や高度な軍事知識は身に付いているものの、その知識・慣習は一般社会においては偏っていることから判断を誤るおそれがあったためで、態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまうため、商社マンや新聞社通信員等の民間人を装って諜報活動を行う際に妨げとなりやすく、これを避けるためです。

学生は軍服着用ではなく、任務の性質上、一般人のなかでも目立ちにくいように普段から平服姿に長髪でいる事が推奨、里帰り時には親から軍人にあるまじき姿を叱責され、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、言い訳もできず苦労したと言われています。軍刀を佩用し長靴を履き将校軍服を着る陸軍将校に憧れ陸軍を志した手前、入校当初には落胆する者も存在したそうです。

錬成要領中に、外なる天業恢弘の範を明石大佐にとるという言葉があるように、明石元二郎(大佐は日露戦争当時の階級)の報告書・革命のしおりを基本教材とし、神様(アマテラス)の意志にもとづいて世界人類の平和を確立する諜報工作戦士を養成していたと言われています。

八紘一宇、大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、戦時中で最も自由主義的ではなかったかと回顧する出身者もいます。天皇に対する見方も自由で、学生や教官の間で天皇制の是非が討論される事もしばしばだったと言われています。敵性語たる英語使用は自由で、むしろ諜報能力を養成する関係から外国語の技能は必須で英会話することを推奨されたそうです。

午前中は諜報・謀略・防諜等の秘密戦に関連する学問の講義、実践、午後は自習となっていたようです。諜報とは情報を収集することで内外の情勢を正確に掌握、いかなる事態に遭遇しても素早く的確な意思決定ができるようにすること。謀略とは、情報操作や宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること。防諜とは、敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し偽の情報を流して敵を混乱させること。等、スパイの特殊技能そのものの教育も行われていましたが、教育の中心は、諜報理論、柔軟で融通のきく能力の育成に置かれています。

中野学校の学生は、名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てることを信条としています。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育されています。汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、至誠の心を強く持つよう教育されています。

講義は、対露政治謀略工作で日露戦争の勝利に大きく貢献した明石元二郎が何度も紹介、彼が学生の英雄となっていたと言われています。これらの教官は中野学校一期生、参謀本部、陸軍省の中堅将校等が担当していたようです。

平成24年発見の、1期生の卒業報告書・後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育報告によると、1361単位中1290単位が実施、科目は軍需学(兵器・築城・航空学等)、外国語(英語・ロシア語・中国語)、武術(剣道・柔道)、細菌学、薬物学、法医学、実習(通信・自動車等)、講義(忍術・法医学等)、その他、気象学・交通学・心理学・統計学等、多岐にわたっています。諜報・謀略・防諜・宣伝が科目の中心でしたが政治・経済・思想・宗教の学科もあり、時には忍術の達人やスリの名人もその技を実演したと言われています。柔道よりも一撃必殺の効果が高い植芝流の合気道が必修科目、謀略機材の研究をしていた登戸研究所から特殊爆弾や偽造紙幣の製造法等を学んでいたようです。昭和13年7月、入所の1期生19人の内訳は大卒3人、専門学校卒11人、中卒4人、中退1人となっています。

このような教育は1945年3月まで行われ、東京大空襲の影響で中野学校本校は群馬県富岡町に移設されています。これを境に教育内容も二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更、本土決戦を想定した遊撃戦の訓練などが行われています。二俣分校でゲリラ戦を教育されマニラに派遣後、ルバング島に派遣されたのが小野田寛郎少尉であり、結局一人だけ生き残り、残置諜者としての命令を遵守(膨大な量の日本の金貨を監視等)していました。

各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は太平洋戦争中も活発に活動しています。 参謀本部勤務の他、アジア各地で各種機関を設立して義勇軍の育成や諜報活動に任じましたが、戦争末期は遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいたようです。沖縄戦においても、有名な義烈空挺隊に数名が要員として参加しています。至誠を重んじ、本気でアジア国家の独立を願った中野学校出身者は戦況悪化からアジア諸国の独立を迅速に達成できない軍首脳と衝突することも多かったと言われています。

二俣分校を含む卒業生の総数は約2500名ですが。公式には1945年8月15日の敗戦をもって閉校しましたが、一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたと言われています。中には身分を偽装してGHQに潜入、内部撹乱を図った者もおり(後の山梨県副知事田中徹雄大尉等)、GHQの対日工作機関・キャノン機関の破壊に成功したという説もあります。インドネシア独立戦争、インドシナ戦争(谷本喜久男少尉等)を始めとする戦後の東南アジアの独立戦争に携わった卒業者も多くいました。

1941年12月8日のマレー作戦では、中野学校出身者らで構成された藤原岩市少佐(中野学校教官)率いるF機関(藤原機関)が英印軍の半数を占めるインド人の兵士に対する投降作戦を展開、投降したインド人により編成されたインド国民軍が、投降誘致や軍事施設破壊などに活躍しています。これは後に岩畔機関に引き継がれチャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールにて樹立されることになります。

ビルマ戦線では、1940年から中野学校出身者らで構成された南機関がビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功させました。

欄印作戦では、第一挺身団によるパレンバン空挺作戦に出身者が随行、空挺降下、第16軍上陸部隊によるジャワ攻略戦においては、オランダ側ラジオ局に偽装して偽の情報を流し、オランダ軍を混乱させた謀略放送に中野学校出身者が深く関与しています。

中野学校出身者・残置諜者は日本を守るため名誉、地位も無く、自己犠牲、非公開等を旨とすることを納得して活動してきた人達です。特に日本敗戦後を案じ、朝鮮半島での諸活動により日本は戦後発展を遂げることが出来たと思うのが自然です。これらの根拠となる資料等が表に出ることはないようですが、何時の日にか歴史の事実として断片的に表に出るかもしれません。

戦前、中の歴史は私達が学んだようなものではなさそうです。特に敗戦国となった日本は、余りにも失ったものが多すぎると思います。全てはGHQ策と思うのが自然です。


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