極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

理不尽な社会に立ち向かった、大塩平八郎

2016-05-29 21:09:54 | 日本社会
理不尽な社会を許さなかった大塩平八郎(45歳)、自分自身が今で言う公務員とでもいう、与力(寄騎とも書きます、力を合せて加勢をする等、江戸時代、町奉行の支配下で江戸の司法,警察など治安維持にあたる人)相応の生活が保障された人生、彼は理不尽さを許しませんでした。間違いなく殺されるとしても、後世に訴えてやると言う決意・・・
欧米人には理解不能の、日本人の心とでも言える自己犠牲の精神、戦後日本はGHQにより骨抜き、魂抜きにされてしまいました、今我々日本人に訴えかけてるようにさえ思えます。
大塩平八郎の乱は、以後の江戸幕府の崩壊、幕末維新の主因となったように思えます。

大塩平八郎は寛政5年(1793年)、大坂町奉行所の与力となった初代の大塩六兵衛成一から数えて八代目であり、以後、大塩家は代々与力として禄を受けていたそうです。大塩平八郎は7歳の時に父母と死別、祖父母に育てられました。14歳で与力見習、成年に達してから祖父の跡を継いで与力となります。与力時代の平八郎は、学識が高い、清廉潔白な人物として、功績を残したと言われています。天保元年(1830年)に養子の格之助に与力職を譲って引退しました・・・大塩平八郎は実践的と言われている儒学の一派、陽明学を学びました。24歳の頃から自邸で儒学の講義、文政8年(1825年)に学塾、洗心洞を開塾ました。門弟の数は40~50人に達し、厳格な学風で知行合一の実学を重んじていました。

1837年(天保8年)2月19日、大坂、大坂町奉行所の元与力、陽明学者の大塩平八郎(45歳)が、困窮している民を助ける為、旗を立てて一揆を起こしました。これが有名な大塩平八郎の乱で以後の歴史が大きく変わるきっかけであると言われています。

天保年間は全国が不作、飢饉が起こり、多くの貧農や都市下層民の生活は窮乏、餓死者が続出、百姓一揆、打ちこわしが頻発していました。大塩平八郎は、与力を引退した後、私塾、洗心洞にて教育に専念・・・前年の飢饉時は、自分の宝物とでも言える蔵書を売却したお金で、飢える民衆の救済にあたっていました。以後大塩平八郎個人の力では極めて困難でした、為政者である当時の大坂役人は「私利私欲」が横行、貧民の救済など眼中に有りませんでした。大塩平八郎とその門弟20余名は檄文(檄文には、摂津・河内・和泉・播磨の貧農に宛てられ、蜂起の目的は、「不正役人」と「米を買い占める豪商」、「貧民を苦しめる高利貸し」を誅殺し、商人および諸藩の蔵から金銀と米を奪って貧しい者に分配することとなっています。現代の典型的な利権構造と言えます。)を飛ばし、大坂周辺の村から集まった農民約300名と共に武装蜂起を起こしましたが、最初から結果は分かっています、しかし理不尽な社会を変えると言う、一途な気持ちは微動足りしません。たとえ全員が死んでも、後世を信じる等、日本人に面々と流れる自己犠牲の精神が発露しています。

乱は1日で鎮圧、大塩平八郎は逃亡3月27日逃亡先を役人に包囲されたため自害しました・・・元役人、幕府直轄地、大坂で起こしたということで、影響が大きく、幕府、諸藩は乱の勃発に動揺、各地で不穏な動きが見られました。以後6月、越後、柏崎で大塩平八郎の弟子と称する国学者の乱が発生、少しずつ時代は変わります、大塩平八郎の乱がなかったら、理不尽な社会は長く続き多くの庶民を苦しめ続けたでしょう。

現代社会に於いても、理不尽な社会を変えることは間違いなく可能でしょう、我々一人ひとりが限られた時間ですが、TV、新聞報道ばかりでなく、ネット等々が発達した現代、自分なり比較検討し、自分なりに正しい情報等を見つけ、自己確立し行動するかに掛かっているように思えます。

日本全史(講談社)、史跡説明書き、ネット等文を参考としています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする