極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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北方4島返還の不思議

2016-05-06 11:25:43 | 戦後
岸田文雄外相は4月22日の閣議後会見で、北方領土交渉などを担当する新ポスト、政府代表日ロ関係大使を設け、同日付で原田親仁(ちかひと)駐ロシア大使を充てる人事を発表しました。
平和条約交渉を中心とする日ロ間のハイレベル協議を担当すようです。外務省に勤務し、特定国との交渉を担当する役職の新設は異例だそうです。

戦後の日ソ領土問題を自分なりに精査することは、自分自身の自己確立のためにも大切だと思います。下記の事実はロシア側は熟知しているでしょう。日ロ領土交渉の進展を望まない国があるのは事実でしょう。
以下の文は専門家でない素人の思いを記したものです、可笑しな文等あるかと思いますが、プログ日記と言う事で読んでください。

ポツダム宣言(部分) 1945年7月26日
8項 カイロ宣言の条項は履行されるべきものとし、また日本国の主権は「本州、北海道、九州および四国、及び我等の決定する諸小島に局限」されるべきものとする。

千島列島とは、根室海峡からカムチャツカ半島の南までの間に連なる列島と言われています。日本はポツダム宣言を受け入れたことにより、「千島列島の権利、権原及び請求権の放棄」をすることになります。

1947年10月6日衆議院外務委員会で紹介された請願が、会議録に残る最初の国後・択捉、クリル論と言えるようです。

他方、サンフランシスコ平和条約を審議した、第12回国会では南千島(国後・択捉)も放棄した千島列島に「含まれる」との答弁がなされています。
(1951 年10月19 日、同20 日の衆議院特別委員会、11 月5 日の参議院特別委員会)

1951年、「サンフランシスコ条約受諾演説」で、吉田茂全権は「国後・択捉は千島」、歯舞・色丹は北海道と発言、結果的にソ連等々の国々は当然そのように認識したでしょう。
記録がちゃんと残っています。

1951年10月、衆議院で西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島(国後・択捉島)も「含まれる」との答弁をしています。同じ答弁の中で歯舞群島・色丹島は北海道の一部であり千島に「含まれない」との趣旨の発言もしています。

千島南部の二島、択捉、国後両島(英訳はEtoroff and Kunashiri of the South Kuriles)北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島(英訳はislands of Habomai and Shikotan, constituting part of Hokkaido)、千島列島及び樺太南部は、一方的にソ連領に収容、色丹島及び歯舞諸島も、ソ連軍に占領されたままとの表現をしています。

素人ながらに思うことは・・・
サンフランシスコ平和条約にはソ連は参加していません。
ソ連(現在ロシア)はサンフランシスコ平和条約に調印しなかったため、この時点で千島列島の権利、権限及び請求権の放棄に対する拘束力はないと思いますが・・・

当時、日本が放棄した千島列島には国後・択捉が含まれると間違いなく認識しています。そのためこの時点での北方領土返還は歯舞、色丹島の引渡を求めるものだったようです。

当事日本は、北方2島(歯舞、色丹)のみが日本領と言うことで、ソ連との平和条約締結等を考えていたのは事実のようです。

ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦(米国は精鋭関東軍が満州におり、日本本土決戦で米国側の犠牲を少なくするためには、絶対に日本本土に移動させないためにソ連側に関東軍を壊滅して欲しかったと言うのが真相に思えます。実際の関東軍は当時は満州から南方等へ移動しており、前線には装備が悪い部隊が配置されていたようです。)してもらう見返りに、米国はサハリン南部をソ連返還、千島列島をソ連に引き渡すことは、1945年2月に行なわれたアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長によるヤルタ会談の協定(ヤルタ秘密協定)で決まっていたと言う事実です。

協定に従ってソ連は、ドイツが無条件降伏した5月8日の約3か月後、日本に宣戦布告しました。
終戦直後にスターリンは、ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領に、北海道を南北に分割して北半分をよこせと要求しています。ドイツのようにしたくないと思っていたトルーマンはこれを拒否しています・・・
千島列島はソ連が侵略したのではなく、アメリカが満州の日本精鋭陸軍壊滅のお礼にソ連に与えたと思います。
日本は4島を失った引き換えに北海道の南北分割を避けられた・・・アメリカの公文書(英文)に残っています。

4島一括返還は日本政府が自ら言い出したのではなく、1956年8月、アメリカのダレス国務長官が日本の重光葵外相とロンドンで会談した際に求めたものと言えます。

日本政府は北方領土問題については歯舞、色丹の2島返還による妥結を模索していたようです。アメリカは冷戦が深まる中で日ソが接近することを防ぐ方法として、ソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光葵外相に迫り、2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と日本政府に圧力をかけています。

以後、外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ないとの態度を取るようになりました。
1956年2月に開かれた国会で、日本政府は千島列島に対する答弁を取り消し、日本が条約で放棄した千島列島に国後・択捉が含まれないとしました・・・この時から北方領土は四島返還論となるようです。

4島一括返還は、メイドイン・アメリカ!と言えそうです。

最大の米国益のために日本を冷戦の防波堤にする、未来永劫の対立を意図したのは間違いないでしょう。もし、自分が米国側だったら最大の米国益のためには当然このような策を講じるでしょう。

世界で最も遅れている日本の情報公開・・・これらの領土問題の経緯を自分なりに知ることは、未来の日本の為にも大切だと思います。
日米両国は大切な国同士です、だからと言って隣国の日ロが対立したままでは極東アジアにとっては、極めて不幸なことです。
日本は独立国のはずです!

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