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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

コリア,ビトウス,ヘインズ/トリオ・ミュージック -トリオ・インプロヴィゼイションズ-

2009年11月24日 00時26分28秒 | JAZZ-Fusion
 チック・コリアが67年に出した「ナウ・ヒー・シングス」というアルバムは、発表当初からピアノ・トリオの名盤とされ、あれから40年を経た現在も既に「殿堂入りしたジャズ・アルバム」の一枚になっている。このアルバムは「ナウ・ヒー・シングス」のメンバー、つまりコリアにミロスラフ・ビトウスとロイ・ヘインズを加えたトリオが14年振りに会して作ったものだ。この再会劇は3人にとって、おそらくかなりの音楽的な手応えを感じたのだろう。本作はコンセプトがまるで違う2枚のディスクのセットであるし、これに続いてはライブ盤まで出しているのだから、レギュラー・トリオにこそならなかったものの、当時の3人がいかに「ノッていたか」分かろうものである。さて、今夜はまずこのアルバムから1枚目の方を聴いてみることしたい。

 本ディスクはひとくちにいえばインプロビゼーション集である。それもかなりフリーがかった自由なインプロがディスク全編に渡って演奏されているのだが、こういう演奏にありがちな独善性や垂れ流し状態をうまく回避しているのがいい。おそらく、オリジナル・テイクはそこそこの長さがあったとは思うのだが、このアルバムではそのエッセンスとでもいうべき部分のみを抽出して収録されているのだろう、どの曲も比較的短く切られているため-最長でも7分半程度-、フリー・ジャズの良質な音楽的瞬間のみを切り取って、あつめたような潔さがあるのである(まぁ、全編いいわけでもないけれど)。フリー・ジャズはもちろん優れたものも沢山あるけれど、単にミュージシャン・エゴを全開しているだけのものや、マスターベーションとしか思えないものが沢山あるのも事実だ。それは60年代後半から70年代にかけて大絶賛されたアメリカ、そしてヨーロッパで量産された「フリージャズの名盤」の大半が、現在では忘れ去られていることでも分かる(なにしろコルトレーンのフリーだって、今ではみんななかったことにしてるではないか-笑)。

 このディスクには、トリオによるインプロが5曲、ピアノとベースのインプロが2曲、そして限りなくフリーに近いコリアのオリジナルが1曲入っている。冒頭の「トリオ・インプロヴィゼイション1」はヘインズが刻む比較的オーソドックスな4ビートのリズムが主導しつつ、次第フリーがかっていく展開がスリリングだ。ビトウスは4ビートを敷衍したり、そこから遠く離れたりと変幻自在、コリアは天衣無縫にその上をかけめぐる。おそらく長大なインプロの真ん中あたりをカットしたのだろうが、このトリオのもっとも優れた部分が出た演奏といえる。「トリオ・インプロヴィゼイション2」はほぼ完全なフリーで、途中でコリアのピアノがやけにバルトークくさくなるのが笑える。「トリオ・インプロヴィゼイション4」はユニゾンで演奏される三連のモチーフを元に様々なヴェリエーションを展開、ここでもコリアはバルトーク風な演奏になる。2つの「デュエット・インプロヴィゼイション」はどちらも大筋で静的な演奏だが、ビトウスの自意識過剰でエキセントリックなアルコがあまりにでしゃばり過ぎで音楽的感興がそがれているところも散見する。

 「トリオ・インプロヴィゼイション4」はちょっと12音音楽を思わせる点描的なインプロ。こういうのは4分半くらいで切り上げる方が逆に緊張感が伝わる。「トリオ・インプロヴィゼイション5」は一番長い演奏で、ビトウスのアルコとコリアのピアノの特殊奏法もまじえたデュエットから、やがてヘインズが加わり、次第にテンションを上げていくが、爆発しそうでしないところが、ちともどかしい感じがしないでもない(笑)。「スリッパリー・ホエン・ウェット」はこれだけタイトルがついているが、冒頭のテーマこそコリアらしいものだが、それ以降はほぼ完全なフリー・インプロだろう。比較的リズムがはっきりしているため、全体の感触として「1」に近い。
 という訳で、こういう演奏を2時間も付き合いたいとは思わないが、このアルバムくらいの分量なら、私の場合、かろうじて実にいい感じできける。それが選択と編集の結果であるにしても、これは十分に良質なフリー・ジャズだろう。
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世界樹の迷宮 第三層到達

2009年11月23日 22時35分15秒 | GAME
 先週からDSで始めた「世界樹の迷宮」という「ウィザードリィ」スタイルのRPGだけれど、音楽を聴く合間だとか、寝る前のちょいとした時間だとかちまちまやっている。特にこの三連休中は突発の仕事とかもなかっし、けっこう暇があったから、そうそう入れ込んでやったという意識はなかったけれど、実はけっこうやり込んでしまい(笑)、先ほど第三層に到達した。「世界樹の迷宮」というゲームは、世界樹と呼ばれる多重構造になった樹海に冒険者が潜り込んでいく設定なんだけど、まずは階と呼ばれるフロアがあって、それをいくつか潜っていくと、次の階層にいくというような感じになっているようだ。階でいうと、第一層は5階まで、第二層は10階までということになるから、私は11階までいったことになるが、一体何層まであるのだろう?。

 前回も書いたとおり、このゲームにはマップを自分で書いていくという、楽しいんだか、つらいんだかよくわからない作業があって(笑)、私の場合、それを意固地になって進めていきたがるので、結果的にこうしたマス目を埋めていくうちにモンスターと多数戦闘することになり、レベルはぐんぐん上がってしまった(私がゲームやるとこういうパターンになることが実に多い、けっこう先を焦ってるんだけどな-笑)。
 序盤こそ全滅したりしたが、3階にいくころには、多分、想定されたレベルを上回ってしまっていたのだろう、けっこう楽勝になってしまった。少なくとも「ウィザードリィ」のような4階にいったら、理不尽なほど強い3匹のモンスターにあえなく全滅などということは全くなくなった。5階のラストで初めて遭遇するボス、スノードリフト戦も危なげなく勝利して、第二階層へ進んだ時は拍子抜けしてしまったくらいだ。中ボス?であるFOEもサクサクと撃破してしまったし、8階と9階を行き来して10階に進むのは難儀だったが、その10階奥のケルヌンノスというボス戦はスノードリフの時よりもっと楽だった(ちなみに8階にはずいぶん強そうなワイバーンがうろうろしているのだが-笑)。

 ついでに書くと抜け道探したり、新しい階層の入り口に到達できるとそこで街へ戻れたり、セーブできたりするのを発見できるのは楽しい作業で、これはウィザードリィ的な醍醐味がある。「Busin」とかだと、一気に一階までワープできたりするポイントが途中あったりするんだけど、これは当然あとで出てくるんだろうな。という訳で、このゲームそこそこおもしろいので、しばらく続けてみるとしたい。それにしても、4層か5層くらいで、きっと最深層に到達するんだろうと勝手に思っているところだが、ひょっとして10層とかまであったりすると、けっこうしんどいな(笑)。
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ウィントン・マルサリス/ザ・マジェスティ・オブ・ザ・ブルース

2009年11月23日 15時54分26秒 | JAZZ
 1989年、その頃飛ぶ鳥も落とす勢いだったマルサリスは、たぶん「ウィントン・マルサリスと名前があればとりあえず売れる」という状態だったのだろう、ジャズといっても様々なスタイルのアルバムを発表し、非常にヴァーサタイルな活躍をしていた。スタンダード、クリスマス、ウィズ・ストリングス、新伝承派風のオリジナルなどなどだ。あの頃には年回数枚のペースで出していたのだから凄い。ついでにいえば、当時のマルサリスはクラシック・アルバムも何枚か製作していたはずで、ジャズとクラシックで同時にグラミー賞をとってしまう神業をやらかしている。さて、このアルバムはそうしたマルサリスの量産時代の作られたアルバムで、いってしまえばマルサリスの先祖返り....いや、今時の言葉でいえば「自分探しシリーズ」とでもいいたい一枚だ。

 この一連のアルバムは自分の音楽的ルーツであるブルースを、マルサリスなりのフィルターで通してリスペクトしたもので、この時期、彼はこの種のアルバムをずいぶん沢山作ったものだが、若くしてジャズ界のメインストリームを制覇してしまった彼が、その溢れる創作意欲でもってこういうアルバムを作るのは、リスナーとしては理解できないでもなかったものの、なにしろ肝心の音楽が当時の私にはほとんど理解不能の代物で、どのアルバムも一応購入してはみたものの、どれも2,3回聴いて、「あぁ、こりゃ、オレの守備範囲越えてるな」と、長らく放置されたままでいた。今回、連休で暇ができたせいか、にわかにマルサリスのことをあれこれ思い出したせいで、いい機会だから、怖いもの見たさ....なんていったら、彼にぶん殴れるかもしれないけれど(笑)、20年も経てばまた違った聴こえ方をするのでは....などと、とりあえず手元にあったこのアルバムを聴いてみた。

 収録曲は3曲、1曲目のタイトル・チューンは比較的オーソドックスなブルースである。けだるいリズム、アーシーなムード、オールドスタイルなリフなど古い衣装をまといつつ、実は1960年代後半の新主流派風の理知的なスタイルのアンサンブルやアレンジでまとめたといった仕上りの作品。15分にも及ぶ長尺演奏だが、ソロはマルサリス、マーカス・ロバーツのピアノ、ウェス・アンダーソン(アルト・サックス)、トッド・ウィリアムス(テナー・サックス)の順、これは久しぶりに聴いたらけっこう良かった。2曲目の「ヒッコリー・ディッコリー・ドック」はユーモラスな雰囲気のある黒人マーチ風の曲で、全編に散りばめられた各楽器のインプロの理知的なバランスはさすがだが、こういうアーシーなムードが覆い尽くしている音楽であればもう少し全体に愉悦感があってもよかったように思う。

 3曲目「ニュー・オリンズ・ファンクション」は、全三部からなる30分にも及ぶ大作だが、これは今回も聴き通すのしんどかった。真ん中のパートはナレーションが入ったりして、ジャズというより舞台随伴音楽みたいな感じだが、なにしろ最初のふたつのパートがジャズといってもアルカイックな様式をベースにしているためか(しかも長い)、単調なリズムにあれこれ古臭いフレーズが散りばめられて、辛気くさいだけでも、いまひとつおもしろみが感じられないのだ。まぁ、3つ目のパートになると霧が晴れたように明るいムードになり、なにやらドラマの終わりを感じさせたりするのだが、そもそもドラマ自体が意味不明では、ちょっと話にならない気もするのだが....。
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ウィントン・マルサリス/スタンダード・タイム第2集~四月の想い出

2009年11月23日 02時25分03秒 | JAZZ
 昨晩、ウィントン・マルサリスの「スターダスト」を聴いたところ、あれこれ文句はつけたものの、けっこう良かったので今夜は彼のスタンダード・シリーズの第2集を聴いてみた。さっき調べたところ、彼はこれまでスタンダード・シリーズを様々な趣向で第6集まで出しているようだが、私の聴いた第3集までは....という留保付きだが、これが一番好きな作品だ。ハーリン・ライリー、ジェフ・ワッツ、マーカス・ロバーツ、レジナール・ヴィール、トッド・ウィリアムスという、第二期のレギュラー・バンドを率い、奇を衒わずスタンダードを演奏するというコンセプトのみで、あの時期のバンド・スタイルをそのまま流用しつつ、ストレートに王道ジャズを展開しているところがいい。もともと飛び抜けて実力のある秀才が集まっている訳だから、こういう8分の力くらいで演奏した方が、考えすぎでこねくり回したような演奏になるより、ずっといいのだ。

 収録曲では、やはり馴染みの曲がいい。「恋をご存じないのね」は非の打ち所がない程に整った端正なバラード演奏で、マルサリスのミュートが冴え渡る。これを聴くと「新時代のマイルスは彼をおいて他はない」みたいな当時いろいろなところで読んだフレーズを思い出す。タイトル曲の「4月の想い出」は当時のマルサリス・バンドの新伝承派風のところがよく出た演奏で、複雑な構成の中にインプロをはめ込んでいくアレンジに、錯綜するリズムいう具合に当時の先鋭的なフュージョン的な方法論を4ビートでやったような感じの仕上がり。こういうのはオリジナルでやると、「やってる方は楽しいだろうね」的な独善的なものになってしまうけど、ここではスタンダードという足枷が適度な開放感を生んでいて実に気持ちよく聴ける。「エンブレイサブル・ユー」はコード進行は-多分-そのままだが、明確なテーマが出てこない絡め手のアレンジだ。「ラバー」はアップ・テンポで快調に進む、これまた新伝承派風の演奏。こういうスポーティーな演奏はさすがにこのバンドは完璧だ。

 「イエスタデイズ」はさしずめアルバム中のハイライトか?。9分半に渡るバラード演奏で、「恋をご存じないのね」と同様、マルサリスのミュートが堪能できる。例によって洗練の極をいったような演奏だが、ここではマルサリスもさることながら、後半のソロを受け持つマーカス・ロバーツのソロがいい。マーカス・ロバーツといえば「イース・オブ・ザ・サン」はトリオ演奏で、これはマイルス・クインテットでレッド・ガーランドのフィーチャーした作品を収録した故知に倣ったのだろうか。個人的にはここ数年ダイアナ・クラールの歌ですっかり馴染みになっていた作品で、「ああ、この曲か」って感じでちょっとうれしくなった。という訳で、やっぱこのアルバムいい。このシリーズ、第3集がつまんなくて、それ以降は購入していないのだけれど、こういうアルバムは作ったりしているのだろうか。
 
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チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲/五嶋みどり,アバド&BPO

2009年11月22日 18時40分38秒 | クラシック(一般)
 今年の前半、ショスターヴィチのヴァイオリン協奏曲をあれこれ聴いている時に、購入したディスクにフィルアップされていることが多かったことや、何人かの演奏がテレビでオンエアされたこともあり、これを機会に「馴染みの曲」にしてやろうと、多少聴きはじめたところで頓挫してしまっていたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だが、約半年ぶりに聴いてみた。前回はリーラ・ジョセフォウィッツがマリナーと組んだ90年代前半の演奏だったが、今回は五嶋みどりがアバドが指揮するベルリンをバックに演奏したものを腕組みしつつ、難しい顔をして(笑)、演奏がどうのというより曲そのものをじっくりと聴いてみた。自分用に曲の内容をメモっておく。

 第1楽章は、オーケストラの序奏が付き、やがてヴァイオリンの短いソロの後、第1主題が登場、この主題はソロからオーケストラとの絡みに中で発展していき、やがて大きなクライマックスを築く。第1主題が壮麗で男性的であるのに対して、第2主題は女性的で繊細である。第2主題では早くもヴァイオリンのソロに名技的な部分が登場して楽しい。オーケストラが力強く第1楽章を出すところ(6分あたり)からが展開部なのだろう。この展開部はオーケストラが奏でる第1主題にサンドイッチされた形で、ヴァイオリンは第2主題をメインにして、けっこうあっさりしている。
 カデンツァは3分近くもあり、ここでも第2主題が見え隠れする中、華麗なテクニックも盛り込まれた内容になっている。このカデンツァのムードをそのまま再現部に突入するが、序盤はしずしずと進めて、第二主題あたりから、テンションが盛り上がりはじめて、コーダで大きなクライマックスを築くという流れになっている。ヴァイオリンの華やかなテクニックもこの部分がハイライトという感じだ。

 第2楽章は三部形式、管楽器による序奏に続いて独奏ヴァイオリンが美しい旋律を奏でる。スラブ的な哀感を感じさせるものだが、私は交響曲第4番の第2楽章を思いだした。中間部はほのかにムードも明るくなり、多少の動きも見せる。やがて第1主題が回帰すると、決然としてオーケストラが主導して第3楽章へ移行する。この第3楽章は定番のロンド・ソナタ。主題は民族的なエキゾチックなムードと特徴的なリズムが特徴、第2主題はユーモラスな表情を見せる。これが交互に登場し、起伏も動と静をくっきりと対照して、熱狂的なフィナーレへ向かっていく。
 ちなみに第2楽章と第3楽章はふたつ合わせても第1楽章より短い。こうした極端に頭でっかちな構成は、協奏曲にはありがちなパターンだけれど、どうも第1楽章さえ聴いてしまえば、後はオマケみたいに感じがしないでもない。この曲など第2楽章と第3楽章は繋がっているので、長大な第1楽章に対してこちらはふたつ合わせて第2部みたいな感じなのかもしれないが....。
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バッハ 無伴奏チェロ組曲/藤原真理

2009年11月22日 11時13分52秒 | クラシック(一般)
 半年くらい前、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」を何種類かの演奏で集中的に聴き込んでいた頃に、無伴奏ヴァイオリンの次は当然チェロの方....とばかりに購入しておいたもの(他のシュタルケルのSACD、あとリン・ハレルのものも購入してあった)。バッハ作品の目録番号(BWV)ではヴァイオリンの方にナンバリングされているので、たぶん同じ頃作曲されたのだと思う。全6曲のセットというのをバッハは好んだようだけれど、このあたりの作品としての量感、無伴奏というストイックなスタイルなどなど、ヴァイオリンの方と共通した佇まいである。もっとも命名されているタイトルがヴァイオリンの方はソナタとパルティータに対して、こちらは組曲となっていてその由来がどこから来ているのか、浅学の私にはよくわからない。

 実際に聴いてみると、やはりチェロという低い音域の楽器ゆえなのだろう。同じ無伴奏とはいえ、ヴァイオリンの時のような孤立無援的な緊張感は-表向き-それほど強くなく、非常にゆったりとして「和む音楽」に聴こえる。こんなこといったら詳しい人に怒られるかもかもしれないけれど、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」と「無伴奏チェロ組曲」って、実質的な音楽内容はけっこう似たようなものなのだろうと思う。ただ、こちらはヴァイオリンのようなシャープな美しさにかわって、やはりチェロ特有な低音の安定感をベースにして、時にちょっとユーモラスだったり、鈍重だったりするチェロの音色やフレーズか表に出てきている分、圧倒的に耳障りがいいのが特徴だと思う。例えばちと高級な芸術イベントの会場でBGM的な音響として使うなら、おそらくこの曲は最高度にその機能すると思う(そういう場所で「無伴奏ヴァイオリン」の方をBGMに使ったら、おそらく音的に客の注意を引きすぎてだめだ-笑)。

 全6曲(聴くにの約2時間かかる)をBGM的に一通りきいてみたが、前述のとおりどれもゆったりとして楽に聴き通せる。2番と5番が短調になっていてこれがいいアクセントになっていているのもいい。5番の方は「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」の2番みたいな荘重な雰囲気があるし、6番はおなじくパルティータの3番風な明るさ、リズミカルさがあり(他と違い高い音域をつかっているようにきこえる)、これもけっこう印象的だった。
 ともあれ、今は三連休のど真ん中、関東的でもそろそろ暖房入れないと過ごせない気候になってきたが、ちと生暖かい部屋でリラックスしたBGMとして使うのはいい音楽だ。買い込んである他の演奏も聴かなければなぁ....。
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ウィントン・マルサリス/スターダスト

2009年11月21日 23時16分19秒 | JAZZ
 最近、ウィントン・マルサリスって何をやっているのだろう?。80年代中盤に完璧なテクニック、アカデミックな知性と教養でもって、ジャズ界のメインストリームに躍り出た彼も考えてみれば、もう早いもので48歳なのだ。あの当時、ウィントン・マルサリスといえば実質的にマイルスの正統的後継者として飛ぶ鳥を落す勢い、出るアルバムは例外なく高い評価を得て、まさに未来のジャズ界を牽引する若き逸材....という感じだったのだが、2009年の現在、彼がジャズ界を牽引しているとはお世辞にも言い難い。自分の場合、彼が自分探しだったのだろう、南部系やディキシー系の音楽に色目を使い、どう贔屓目に見ても「秀才の考えすぎが高じた組曲」を連打したはじめたあたりで、ほとんど興味を無くしてしまったのだけど、さすがに最近ではそういう作品も打ち止めて、比較的ストレートアヘッドなジャズをやっているようだ。

 さて、この作品だが、1989年にまさに彼の全盛期に出したウィズ・ストリングス・アルバムである。この時、彼はまだ20代後半だったはずだが、もうレギュラー・コンボによるアルバム、スタンダード・シリーズなどと平行してんなアルバムを出しているところに、当時の彼の「なんどもきやがれ」的な勢いを感じさせる。編成はドラムにジェフ・ワッツ、ベースがロン・カーター、ケント・ジョーダン、ピアノがケニー・カークランド、サックスはブランフォード・マルサリスという、当時の常連が集い、ロバート・フリードマン指揮のストリングスをバックに演奏している。ウィントン・マルサリスのトランペットは例によって完璧な仕上がりである。例えば、1曲目は「スターダスト」だが、これなどヴァースから入るパターンで、最後まで1音たりともおろさかにしないマルサリスらしい実にクリーンさとゴージャスなオーケストラもあいまって、素晴らしい演奏だ。「星に願いを」では、意表をついたミドルテンポのアレンジで、当時のレギュラー・コンボでの変幻自在な演奏パターンをとりいれていてなかなかカッコ良い....などなど、他の曲も全く過不足演奏で、恐らくウィズ・ストリングス・アルバムとしては、10指にはいるクウォリティだと思う。久しぶりに聴いてうなってしまった。

 ただ、この人の場合、昔からいわれていることなんだけど、どうもそこに出てくるジャズ的な語法、ムード、情緒といった要素が、なにやらいったんコンピュータにとりこんで、高精細なCGで再現したような味気なさがあるのも事実。ぱっ聴き、こんなに素晴らしいジャズはない....と思うのだが、なにが足りないような気もしてしまうのだ。近年はメインストリーム的スタイルに戻り、ライブ盤ではかなりエキサイティングな演奏をしているらしいのだが、ひょっとするとこのあたり一皮むけているのかもしれない。ライブ盤もいくつかあるが、何枚か購入してみようかな。

 
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BLOOD SWEAT & TEARS / More Than Ever

2009年11月21日 00時18分49秒 | ROCK-POP
 1976年に発表された彼らの歴史でも異色作と呼ぶに相応しい作品。なにが異色なのか、といえば、投げやりなジャケットも異色だが、やはりアレンジにボブ・ジェームスを連れてきたことだろう。デビッド・クレイトン・トーマスが復活しての「New City」は出来としては今二歩くらいの出来ではあったけれど、一応BSTらしい仕上がりとはいえた。ところが、それがどうして突然ボブ・ジェームスなのか、どうも釈然としない。おそらく前々作「Mirror Image」でヘンリー・コスビーが呼んできたようなパターンなのだろうが、それにしても、これだけ「軒を貸して母屋を取られる」状態だとなおさらだ。なにしろメンツからして、もうバンドの体をなしていない。ベースのゲイリー・キング、キーボードはホブ・ジェームスにリチャード・ティー、ギターにスティーブ・カーン、エリック・ゲイル、パーカスにドン・アライアス、ジョン・ファデスを筆頭に数人にブラス隊と、もう補強したとかそういうレベルではなく、ほぼ完全なボブ・ジェームス・バンドなのである。

 音楽的にも1曲目の「They」からして、ブラスにせよ、リズム・パターンにしても、ほぼまごうことなき「CTI時代のボブ・ジェームスの音」である。途中、込み入ったリズムでインスト・パートが延々と進行していくところなど、「はげ山の一夜」的なダイナミックさをフィーチャーし、タイトル曲や「You're the One」もストリングを配置したクラシカル路線というのもそれ的だ。「Katy Bell」も多少カントリーくさいアレンジだが、やはりこのブラスはどう聴いてもBSTではなく、ボブ・ジェームスのプラス隊だ。
 作曲面でみても、ラリー・ウィルスが作曲した唯一のインスト「Heavy Blue」もボブ・ジェームスの「3」か「4」に入っていそうな、ファンキー・フュージョンという感じだし、唯一、クレイトン・トーマスが作曲に絡んだ数曲にボブ・ジェームスらしからぬアーシーさを感じさせるといったところだろうか。ちなみに意外にもパティ・オーイスティンが作った「Sweet Sadie the Savior」というソウル風な曲は、なぜだか本アルバム中、一番BSTらしかったりする。

 ともあれ、これで「Mirror Image」でやらかしたような、これまでのBSTファンが真っ青になるくらいのポップさだとか、快適フュージョンみたいな路線にいってれば、これはこれで良かったのだろうが、残念ながら、この時期のボブ・ジェームスはまだポップさというものにまだ吹っ切れていなかった時期なので、例えば、後年ケニー・ロギンスのアルバムを手がけた時のようなぶっち切ったポップさのようなものが未だ発揮していない憾みがあるのはちと残念。あと2年あとだったら、もっと素晴らしいアルバムになったと思うのだが....。
 という訳で、このアルバムを最後にBSTは古巣のCBSを離れ、唯一残っていたオリジナル・メンバーであるコロンビーも脱退。それ以降のBSTは実質的にクレイトン・トーマスとそのバックバンドみたいな形で継続されていくことになる。私もさすがにこれ以降の彼らのアルバムは購入していない。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第4番/新ウィーン弦楽四重奏団

2009年11月20日 23時30分47秒 | マーラー+新ウィーン
 昨夜取り上げた3番に続く作品で、3番からおおよそ10年後の1936年に作曲されている作品らしい。1936年といえば迫り来るナチズムの迫害から逃れてシェーンベルクはすでにロスアンジェルスに移住していた訳だけれど、アメリカに移り住んだせいなのか、どうかはわからないけれど、この4番は3番に比べれば、かなり分かりやすい作品だと思う。もちろん12音という手法で作られた音楽だから、分かりやすいなどといってもたかがしれたものだが(笑)、こちらは随所に調性的で耳に残るモチーフだのが散りばめられており、一度始まってしまえば、あとはひたすら灰色....というイメージの12音音楽にしては、かなりとっかかりがあるのである(そういえば本作に隣接した室内交響曲第2番もかなりわかりやすい作品だったような記憶がある)。

 例えば、第1楽章冒頭のものものしい風情の主題。第2楽章のなにやらマッドサイエンシストの研究室みたいな奇妙な冷徹さ、第3楽章の冒頭は一瞬、「これ調性音楽?」と思わせる、なにやら室内交響曲の頃に戻ったようなロマンティックなムード、逆に第4楽章は非常にアブストラトな音響中心....という感じでとにかく楽章毎にメリハリがあって聴きやすいのである。もっとも、その分3番にあったような、厳格なまでに古典的な楽章構成にのっとり、モダンな響きをまとってはいるが、実は古めかしい弦楽四重奏曲という感じもない。組曲とかそういう感じである。また、3番には全編に渡って感じられたロマン派的情緒も、第3楽章だけは濃厚にあるが、他の楽章はむしろ当時のストラヴィンスキーなんかとも共通するようなシニカルで乾いた響きに満ちている印象なのである。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第3番/新ウィーン弦楽四重奏団

2009年11月19日 23時14分39秒 | マーラー+新ウィーン
 シェーンベルクの弦楽四重奏曲の第2番をあれこれ書いてから、もう2年が過ぎてしまった。当初は4番まで順繰りに書いていくつもりだったのだけれど、あの時も書いたとおりバルトークとかシェーンベルクの弦楽四重奏曲というのは、中々聴き通すモチベーションが続かず、たいてい途中で頓挫してしまうのだ(笑)。さて、この3番は前作から約20年を経た1927年(昭和2年)に発表されたものである。1927年といえば日本でせは金融大恐慌があり、シェーンベルクが居たドイツではナチスが次第に勢力を拡大していた時期にあたる。要するに第二次世界大戦前夜の不穏な社会情勢だったのである。シェーンベルクはこの時期、既に無調音楽から12音音楽へと音楽の創作スタイルを変えており、この曲もその手法で書かれているようだが、なんというか、1927年という物的にも精神的にも世界中が「不安」に覆い尽くしていた時代の空気を見事なまでに伝える音楽になっていると思う。

 第1楽章はわさわさと蠢くような弦の動きが様々な形に変容し、緊張と弛緩を行き交いつつ、なにやら不安神経症になってしまった人の精神世界を切り取ったような、着地点のない不安な世界を作り出している。第2楽章は虚無的な諦念に満ちた雰囲気だが、ちょっとベルクに近い感じのロマン派的な匂いもする緩徐楽章になっている。第3楽章は第1楽章にけっこう近いムードで進むスケルツォ。まぁ、12音音楽ということで、耳に残る旋律だのモチーフなどは当然ないが、とりあえずスケルツォには聴こえるのはシェーンベルクの音楽の妙というか、さすがに形式だけは温存させていたことがよく分かろうものだ。また、最終楽章はロンドとなっているが、音符が読めず、音感もない私のような人間には、やはりこの曲のテーマを明確に識別するのは至難の業だが、なんとか繰り返しテーマが回帰しているようには聴こえるあたりは、こうした形式を押さえた上で、12音という技法が使っていたことによるのだろう。

 もっとも、戦後の音楽界はこれすらも破壊して、音楽はほぼ完全な音響デザインと化してしまうのだけれど(シェーンベルクは逆に多少先祖返りするのだけれど)、この曲の場合、こういう形式感、楽章ごとの古典的な起伏のようなものを残したことと、そして、発表が1927年だったからなのかどうかはわからないけれど、とにかくこの曲で表現されたやや歪んだ情緒、気分のせいで、曲はかろうじてロマン派の最終ステージの音楽のように聴こえるのかもしれない....などと、理屈はともかく、この曲、不安で気持ち悪いところが、妙に心地よかったりするもので、最近のよく読書や作業にBGMに使っている。
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入江曜子/溥儀 ~清朝最後の皇帝~

2009年11月18日 22時34分33秒 | Books
 先日、12月25日に「ラストエンペラー」はNHKのBShiで放映される。この作品は公開時に劇場でみたし、今回オンエアされるらしいディレクターズ・カット版もビデオで観ているのだが、イタリア最後の巨匠ベルトリッチが作り上げた畢竟の大作を20年振りくらいにじっくりと観てみようと目論んでいるのだが(まぁ、DVD購入するか、レンタルしてきてもいいんだけどね-笑)、その前に本編の復習(予習?)もかねて、こんな本を購入してみた。一昨日、一通りざっと最後まで読んで、現在再読中ところだが、歴史に翻弄され数奇な運命を辿った愛新覚羅溥儀の生涯を、新書というコンパクトであれ正面からまとめた伝記である(岩波新書)。

 私は溥儀に関する著作はほとんど読んだことがないので、他と著作と比べどうこういう立場にないが、本書は最初にふたりの溥儀が写ったトリック撮影の写真から話しが始まるところからも明らかなとおり、「彼の生涯は、清朝最後の皇帝として、祖業を復活する『復辟』を担わされた一人と、その宿命から逃れて此処ではないどこかへ、自分ではない誰かになりたいというもう一人が見え隠れする(略)おそらく少年の日に、二つの人格をそのまま内に抱えこんでしまうことで楽に生きることを知った永遠の少年である溥儀の溥儀たるゆえん(後書きから引用)」という視点でもって彼が生涯に語っている。彼が行った数々の不可解な行動は、自分の置かれた状況を敏感に察知し、周囲が期待していることに応えてしまうという行動パターン故らしいが、その根源にこういう本質があるという訳だろう。なかなかおもしろい。

 本書が膨大な資料を元に書かれていることは歴然としておりに、特に溥儀をとりまくの女性については、興味深いエピソードなども沢山書かれているのだが、時に木を見て森を見ずみたいになってしまいがちなのは多少気になった(これはこれで著者の個性というべきなのかもしれないが)。ただ、まぁ、200ページ余りで清朝末期から満州、そして終戦後はシベリアから帰国して文革までの激動の歴史を語るには、やはり全体に駆け足になってしまうのはいたしかたないところかもしれない。特に前半の清朝の末期、あるいは中盤の満州での、入り乱れる人間関係や社会情勢を語るには、この倍くらいの分量があっても良かったかなと思う。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第2番/プロアルテ・ピアノ四重奏団

2009年11月17日 00時14分28秒 | ブラームス
 さて、プロアルテ・ピアノ四重奏団による第2番だが、この演奏の特徴はなんといっても第1楽章の遅さだろう。これまで聴いたいくつかの演奏では第1楽章は一番早いバリリで14分15秒、あとのふたつは15分半くらいなのだが、この演奏ではなんと17分15秒もかけて演奏している。ひょっとするとリピートの問題なのかもしれないが、ぱっと聴きでもその「遅さ」は歴然だ。この楽章にある初期型ブラームスらしい若々しい推進力のようなものが、ある意味ぐっと後退して、その分、中期~後期型ブラームス的な侘びしさや落ち着きが表に出てきているという感じなのである。他では瑞々しさを全面に出した流れで演奏される第二主題が、とぎれがちの独白のような趣になっているあたりその最たるものだが、ありがちな弛緩した印象がなく、これはこれで説得力がある解釈に聴こえるのは、最後まで緊張感を保って演奏だからだろう。ともあれ、そのせいでこの演奏は「楽器の絡み合いの妙」といった点が実によく聴き取れる。

 もっとも第2楽章以降は、第1楽章ほどユニークな演奏ではなく、まぁ、まずは普通な演奏といってもいいと思うが、それでも随所に第1楽章と共通するこの楽団の独特な(といってもいいのだろう)、まったり感が出ていると思う。例えば第3と第4の早い楽章では、第1楽章同様、推進力やダイナミズム、あと構築性という点は少々抑え気味にして、全体に気の赴くまま....というか、「ブラームス流の渋い感情表現をよりラプソディックな趣で演奏してみました」という感じで、聴いていると、大作曲家ブラームス的威厳だとか風格といったものより、初冬の曇天の下、ドイツの田舎をとぼとぼ歩く髭のブラームスみたいな姿を彷彿とさせたりもするからおもしろい。
 一方、第2楽章は、第1楽章を一番早く演奏しているバリリが13分近くかけて実にデモーニッシュな演奏をしているに対し、プロアルテ・ピアノは11分程度で終わらせている。別段せかせかしている訳ではないけれど(むしろ逆)、ピアノとチェロが不穏な雰囲気を醸し出す部分など、あまり深刻にならず、全体に楚々とした風情の演奏に仕上げているのは興味深い。

 という訳で、プロアルテ・ピアノ四重奏団という団体は、どうも「早い楽章は遅く、遅い楽章は早く」演奏するという傾向があるみたいだ。もちろんこの演奏だけで即断するのも危険だが、あえて深読みすると、今風なマニエリスム的な解釈をしたのではないという気がする。もっとも、この楽団はブカレスト・フィルというローカルなオケのピック・メンバーによって構成されているらしいから、存外、その体質(オーケストラ的な響き、芸術性より職人的スタンス)が素直に出ただけなのかもしれない(たぶん、これが正解だな-笑)。ともあれ、他の演奏に比べると全体に「まったりとした演奏」であることは確かだ。
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マーラー ピアノ四重奏曲/プロアルテ・ピアノ四重奏団

2009年11月16日 21時20分53秒 | マーラー+新ウィーン
 このところブラームスのピアノ四重奏曲を1番から3番まであれこれ聴いているのは、ここにいくつか書いているとおりだが、CDラックを探していたところ、10年くらい前にアルテノヴァから出て、プロアルテ・ピアノ四重奏団という団体(ルーマニアのジョルジュ・エネスコ・ブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団のピックアップ・メンバーで構成さているらしい、いにしえのプロアルテ四重奏団とは関係ないようだ)が演奏するピアノ四重奏曲の2番を収めたアルバムを発見した。あぁ、そういえば、こんなのもってたな....という感じだが(笑)、多分、これはブラームスを目当てに購入してきたものではない。実はあまり記憶にもないのだが、お目当ては間違いなくフィルアップに収録されたマーラーのピアノ四重奏曲の方だったのだろう。もちろん、今ならお目当ては当然ブラームスだが、このマーラーの若き日の習作については、ほとんどどんな曲だが記憶に残っていなかったので、まずはこちらから聴いてみることにした。

 マーラーの交響曲以前の作品といえば、18歳の時に書いたカンタータ「嘆きの歌」が有名だが、このピアノ四重奏曲はそれに遡ること2年前、16歳の時の作品らしく、現存するマーラーの作品では一番初期のものともいわれている。マーラーの作品は前述の「嘆きの歌」にしてから、その後のマーラーらしさという点からすれば、けっこうオーソドックスな趣が強いが、その2年前の本作ともなれば更にそういう感が強い。曲は一楽章のみ、全体に悲劇的なムードが横溢している。4分ほどしたところで突如テンポが激変して嵐のような展開になったりする部分、あるいはそれ以降の大きな身振りでもって激情を展開していくあたりは、既にマーラー的なるもの原型を感じさせる部分だが、まぁ、あくまでも「オーソドックスな室内楽の枠」の中での話で、この作品の段階では、後年の捨て身で破れかぶれの音楽をやっているようなところはまだ少ない。また、悲痛な旋律はなかなかのものだが、どちらかといえばロシア・スラブ系の美しさに近いし、全体の生真面目さはいたってまっとうなドイツ流だとも思う。要するに優等生の音楽といった様相だ。

 ところでこの楽章だが、当然この続きがあったのだろうが、続く「スケルツォ」のみが多少残っているくらいのようだ。完成したのに残りが散逸したのではなく、この楽章とスケルツォの冒頭まで書いて、放置されたままにったということらしい。マーラーはこのピアノ四重奏曲をどのように構想していたのだろう?。常識的に考えれば、この悲劇的な楽章をスタートに、やがて輝かしい最終楽章へと進んでいくような、つまり交響曲の5番のようにもの作るつもりだったとは容易に想像できるところだけど、スケルツォがあるところを見ると当然完成品は4楽章以上。かなりドラマチックな展開に満ちた交響詩的なピアノ四重奏曲になったに違いない....こんなことを考えながら、マーラーの若書きを聴くのも楽しいひとときである。
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世界樹の迷宮 (RPG)

2009年11月15日 23時56分20秒 | GAME
 DSi購入したのはいいが、昨日も書いたとおり「真・女神転生」が届かないので、つなぎに何かいいゲームはないか....ということで、とりあえずこれを購入してみた。昨晩、DS用のRPGについてあれこれと調べたところ、さすがにPSPより段違いに売れまくったハードだけあって、RPGだけでも沢山ありすぎて目移りするくらいだったが、中でもこれは私の好きな「ウィザードリィ」に近い、パーティを作って、街←→ダンジョンをひたすら往復するあのスタイルらしく、ネットでの評判も上々で(特に古いゲーマーにはそうらしい)、IIも出たということで、これならイケそう....と考えた訳である。

 まず、簡素なオープニングの後、ギルドみたいなところでキャラをいくつか作って、それを組み合わせてパーティーの編成する(キャラは典型的な萌え系なのが、こういう硬派なゲームのトーンとはそぐわない気もするが、まぁ、いまどきのゲームはこれが王道なのしょう-笑)。街には酒場、商店、宿屋、教会(?)といった施設があり、そけれらしいキャラクターが話しかけてくるのももおなじみで、もはや説明不要といった感じ。さっそくダンジョンに入ってみると、移動中の視点は一人称で視界はワイヤーフレーム風のもの。戦闘にはいってもモンスは基本静止画で多少エフェクトが入る程度という、まさに「ウィザードリィ」的世界であった。

 とりあえず、休日なのを幸いに何時間かプレイしてみたが、なかなかおもしろい。最初はTPとかスキルがよくわからい点もあったものの(なにしろ、FFXIのシステムが体に染みこんでいるせいで、他のゲームでもついその感覚になってしまうのだ-笑)、慣れていけば基本的には単純なスタイルだ。まだ、2層目にいったばかりだが、「ウィザードリィ」のように不条理なほど強い....という訳でもないが、そこかしこにいる雑魚でもかなり強いのは今時めずらしい。FOEとかいうダンジョンをうろつき往路を塞いでいるモンスにいちど突撃してみたが、あっけなく全滅した(笑)。懐かしい感覚である、こういうのが受けたのかな。

 2つのスクリーンは上が視点、下が基本的にマップという形で分担されていて、なかなか使いやすい。全てがこういうスタイルではないのだろうが、このゲームの場合、ダンジョンの地図は自分で方眼紙に書き込んで把握する....みたいな、あの感覚を下の画面で再現している趣があり(おもしろいんだけど、面倒くさいあの作業ね-笑)、2画面のメリットはけっこう大きい。「へぇ、DSってこういう風になってるのねー」。と、今頃になって知ってる私は、たぶんゲーム情報弱者である(笑)。
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ニンテンドーDSi

2009年11月15日 01時40分45秒 | GAME
 という訳で、さきほどDSが届いた(もう昨日になってしまったけど)。機種についてはこれを持ち歩くつもりもないので、画面の大きなDSiLLも良かったが、まだ発売されてないこともあり、このままいくと手元にくるのは来月みたいなことなりそうなので、安定して供給されているDSiにした。あとこの手のキカイで色を選ぶとなると、私のような芸のないオッサンはたいてい黒にしてしまうがちなので(こういう男性けっこう多いんじゃない?-笑)、今回はちと気分をかえてメタリック・ブルーにしてみた。ショップで現物も確かめずに決めたので、ド派手な色だったらどうしよう?。などと、多少危惧もあったのだが、実際はそこそこ渋い色調、表面も艶消しの落ち着いたもので安心した(でも、この筆箱みたいなデザインは、あんまり愛着わかないんだよな)。

 さきほどから、少しいじくっているところだが、さすがにファミコンのニンテンドーらしいインターフェイスである。ユーザーの設定が終わったら、すぐさま「写真とりませんか?」と誘導してくるあたり、「あれもできる、これも出来る、さぁなんでもやってくれ!」みたいなソニーとはずいぶん違うなぁと思う。やはり小型パソコンであるPSPに比べ、それが建前であるにせよ、こちらは「これは子供向けの家電品」という割り切り方をしているんだろう、外部ディスプレイ出力なし、USB出力なしと拡張インターフェイスも最小限で、ある種潔さを感じさせる。ちなみに現段階では一緒に購入した肝心のゲーム「真・女神転生」の方がまだ届いていないので、残念ながらデュアル・スクリーンのゲーム機としての手応えはよくわからないのだが、遅まきながら2画面というのは、使いようによってはおもしろそうではある。

 ゲームがないので、とりあえずWiFiの設定をしてウェッブに繋げてみたが(何故だかAOSSで一発で接続できなったので手動で設定)、内蔵ブラウザはなんとOperaが入っていた。描画速度はそこそこだが、やはり一般サイトを見るには画面が小さい。デュアルスクリーンをレイアウトとディテールの2画面、上下シームレスのモードがあるのだが、どっちも苦しい。iPhoneみたいに最適化した画面が必要だと思う。ついでに音楽プレイヤーとしても使ってみたが、音質はWalkmanあたりより1ランクは下の携帯並のもので、WalkmanやiPodの代替えには苦しいかな....といしう印象であった。という訳でこのキカイやはりゲームであろう。「真・女神転生」が届かないなら、明日なにかソフトを何本が購入してこようか。
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