ここ数日、ウィントン・マルサリスの2枚のアルバムを聴いたことで、なにやら彼に対する興味が再び沸いてきてしまい。昨夜、ラックをあれこれ探したところ、幸い売り飛ばさずに残っていたレギュラー・アルバムがCDが数枚でてきたので、昨日、今日とiTunesに取り込んでいるところである。なにしろ、彼のアルバムはもう長いこと聴いていなかったので、多分、「ソウル・ジェスチャーズ・イン・サザン・ブルー」の三部作とかエルヴィン・ジョーンズと「至上の愛」をやっているライブ盤とかも、購入しているはずだから、探せ出てきそうだが、とりあえず彼の活動の本流ともいえるアルバムは出てきたので、昔を思い出しつつ聴いているところなのだが、とりあえず今夜は、彼のデビュー作をメインのオーディオ・システムでじっくりと聴いてみた。おそらく10年ぶりくらいである。
よく知られているとおり、このデビュー作(81年)は、当時のウィントン・マルサリス・バンドによって録音されたトラック3つを額縁にして、ハンコック、カーター、ウィリアムスというVSOPのリズム・セクションとのトラック4つを間に置いた構成になっている。ちなみ前者は東京録音、後者はニューヨークである。どうしてこういう構成になったのかは、実はあまりよく覚えていないのだが、マルサリスはジャズ・メッセンジャーズの後、VSOP絡み人脈で名前を上げたこともあり、デビュー作にはそのお墨付きを与える意味で、こういう変則的なものになったのだろう。なぜ東京録音だったのかといえば、当時ハンコックがCBSソニーに日本サイドから発案によるアルバムを何枚も製作していたことから(VSOP、ピアノ・トリオ、マルサリス入りのカルテットなど)、おそらくそれらに合わせて録音したのだと思われる。
まぁ、そういう経緯で製作されたせいもあって、オリジナル・バンドの演奏が1,2,7曲目に配置されているせいもあり、全体としてはマルサリスのアルバムという体裁は整っているものの、その後のマルサリスの出していく一連のアルバムに比べると、彼らしさという点ではやや薄味な印象もあのはいたしかたないところだろう(中間の4曲がいかにもVSOPIIの音である)。ちなみにマルサリス・バンドによる3曲はどれも、テクニカルな仕掛けを隠し味にした複雑なアレンジ、高い演奏力、ある種のシリアスな音楽的な趣など、この時点でほぼマルサリスの音楽は7割方出来上がっていたことを伺わせる。この時期のマルサリスの音楽というのは、フリー・ジャズで一旦壊れ、フュージョンという形で生きながらえたジャズを、今一度伝統的なスタイルで再生していく....みたいなコンセプトを本人自身が使命感として感じていたフシがあって(笑)、この3曲は単に伝統をそのまま再生させるのではなく、なにがしかのコンテンポラリーさを加味した上で再構築していこうという意図が強く感じられるのだ。
具体的にはいえば、「ファーザー・タイム」はトリッキーなリズムとオーソドックスな4ビート・ジャズをシームレスにつなぐアレンジ、「アイル・ビー・ゼア....」は切れ切れのモチーフやインプロで印象派風な空間を形成、「トワイライト」はブルース的なリフの繰り返しの中、アブストラクトなソロを点描的に配置していく非常にモダンな作品といったところか。まぁ、よーするに60年代の新主流派の音楽の続きを15年後に再開したような音楽なのだが、ここでは未だ新伝承派としてのコンセプトが勝ちすぎて、音楽的感興が伴ってない憾みがないでもない。ちなみにいえば、80年代にこれを聴いた私は「これって絶対考えすぎな音楽だよなぁ、もっと素直に普通ジャズやればいいのに」とか思ったものだったが、今回実に久しぶりに聴いても、残念ながらそのあたり印象はかわらなかった。
よく知られているとおり、このデビュー作(81年)は、当時のウィントン・マルサリス・バンドによって録音されたトラック3つを額縁にして、ハンコック、カーター、ウィリアムスというVSOPのリズム・セクションとのトラック4つを間に置いた構成になっている。ちなみ前者は東京録音、後者はニューヨークである。どうしてこういう構成になったのかは、実はあまりよく覚えていないのだが、マルサリスはジャズ・メッセンジャーズの後、VSOP絡み人脈で名前を上げたこともあり、デビュー作にはそのお墨付きを与える意味で、こういう変則的なものになったのだろう。なぜ東京録音だったのかといえば、当時ハンコックがCBSソニーに日本サイドから発案によるアルバムを何枚も製作していたことから(VSOP、ピアノ・トリオ、マルサリス入りのカルテットなど)、おそらくそれらに合わせて録音したのだと思われる。
まぁ、そういう経緯で製作されたせいもあって、オリジナル・バンドの演奏が1,2,7曲目に配置されているせいもあり、全体としてはマルサリスのアルバムという体裁は整っているものの、その後のマルサリスの出していく一連のアルバムに比べると、彼らしさという点ではやや薄味な印象もあのはいたしかたないところだろう(中間の4曲がいかにもVSOPIIの音である)。ちなみにマルサリス・バンドによる3曲はどれも、テクニカルな仕掛けを隠し味にした複雑なアレンジ、高い演奏力、ある種のシリアスな音楽的な趣など、この時点でほぼマルサリスの音楽は7割方出来上がっていたことを伺わせる。この時期のマルサリスの音楽というのは、フリー・ジャズで一旦壊れ、フュージョンという形で生きながらえたジャズを、今一度伝統的なスタイルで再生していく....みたいなコンセプトを本人自身が使命感として感じていたフシがあって(笑)、この3曲は単に伝統をそのまま再生させるのではなく、なにがしかのコンテンポラリーさを加味した上で再構築していこうという意図が強く感じられるのだ。
具体的にはいえば、「ファーザー・タイム」はトリッキーなリズムとオーソドックスな4ビート・ジャズをシームレスにつなぐアレンジ、「アイル・ビー・ゼア....」は切れ切れのモチーフやインプロで印象派風な空間を形成、「トワイライト」はブルース的なリフの繰り返しの中、アブストラクトなソロを点描的に配置していく非常にモダンな作品といったところか。まぁ、よーするに60年代の新主流派の音楽の続きを15年後に再開したような音楽なのだが、ここでは未だ新伝承派としてのコンセプトが勝ちすぎて、音楽的感興が伴ってない憾みがないでもない。ちなみにいえば、80年代にこれを聴いた私は「これって絶対考えすぎな音楽だよなぁ、もっと素直に普通ジャズやればいいのに」とか思ったものだったが、今回実に久しぶりに聴いても、残念ながらそのあたり印象はかわらなかった。