何度か書いたが私はブラームスのピアノ四重奏曲の第一番は、シェーンベルクが編曲した管弦楽版によって知った。」シェーンベルクはこの編曲について「ブラームスの書法を忠実に守り、もし本人が今行ったとしても同じ結果になったようにした」旨を述べているとおり、彼はブラームス的なる管弦楽編曲、ブラームス的な音楽について、並々ならぬ見識を自負していたことは間違いなく、この編曲でもまるでブラームスの第一番以前の交響曲が増えたような....そんなあまりにブラームス的な響きが横溢するものになっている。もちろん、ブラームスの時代ではありえないような打楽器の使用やブラームスにしてはやや賑々しい響きがあるところは否定しないが、それにしたってこれは聴こえて来る音の向こうにあの気むずかしげなブラームスがはっきりと見えてくる音楽だ。
このシェーンベルク編曲による管弦楽版の「ピアノ四重奏曲第一番」を私はこれまでサイモン・ラトルとバーミンガム市響による演奏を唯一のものとして長く楽しんできたのだけれど、よーやくそれ以外の演奏を聴くことになった。ロバート・クラフトとシカゴ響の組んだ64年の演奏である。ラトルのものが彼のデビュー直後の80年代初頭のものだから、それより大分前のものとなる。おそらく同曲の演奏としては最初期に属するものではないだろうか。おそらくこの時期だと、この編曲版は「とるに足らないシェーンベルクの創作史におけるオマケ」のように思われていたに違いなく、あえてこの時期にこの作品を果敢にも取り上げたのは、ロバート・クラフトというストラヴィンスキーを得意とした学究肌の指揮者故のことだろう。
さて、演奏だがこれはクラフトらしいというべきなのだろう。実にザッハリッヒな演奏である。これまでラトルの新ロマン派的な演奏で同曲に馴染んで来たせいで、その趣の違いは鋭く対照的に感じる。なにしろ、第二楽章を除けばどの楽章も演奏時間が1分以上短く、演奏はザクザクと一気呵成に進んでいく。ロマン派風なあちこちに寄り道するような演奏ではなく、非常に高いテンションに裏打ちされた、弛緩などという言葉とは無縁な緊張感の高い演奏だ(シカゴのサウンドも実にパワフル)。調度、ジョージ・セルがこの曲を振ったら、おおよそこんな感じになるのではないか。個人的にはラトルの長らく親しんできたせいで、この演奏はあまりにザッハリッヒな感じがしないでもないが、これはこれでひとつの見識というべきなのだろう。じっくりと楽しみたい。
このシェーンベルク編曲による管弦楽版の「ピアノ四重奏曲第一番」を私はこれまでサイモン・ラトルとバーミンガム市響による演奏を唯一のものとして長く楽しんできたのだけれど、よーやくそれ以外の演奏を聴くことになった。ロバート・クラフトとシカゴ響の組んだ64年の演奏である。ラトルのものが彼のデビュー直後の80年代初頭のものだから、それより大分前のものとなる。おそらく同曲の演奏としては最初期に属するものではないだろうか。おそらくこの時期だと、この編曲版は「とるに足らないシェーンベルクの創作史におけるオマケ」のように思われていたに違いなく、あえてこの時期にこの作品を果敢にも取り上げたのは、ロバート・クラフトというストラヴィンスキーを得意とした学究肌の指揮者故のことだろう。
さて、演奏だがこれはクラフトらしいというべきなのだろう。実にザッハリッヒな演奏である。これまでラトルの新ロマン派的な演奏で同曲に馴染んで来たせいで、その趣の違いは鋭く対照的に感じる。なにしろ、第二楽章を除けばどの楽章も演奏時間が1分以上短く、演奏はザクザクと一気呵成に進んでいく。ロマン派風なあちこちに寄り道するような演奏ではなく、非常に高いテンションに裏打ちされた、弛緩などという言葉とは無縁な緊張感の高い演奏だ(シカゴのサウンドも実にパワフル)。調度、ジョージ・セルがこの曲を振ったら、おおよそこんな感じになるのではないか。個人的にはラトルの長らく親しんできたせいで、この演奏はあまりにザッハリッヒな感じがしないでもないが、これはこれでひとつの見識というべきなのだろう。じっくりと楽しみたい。