竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百九四 今週のみそひと歌を振り返る その十四

2016年12月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九四 今週のみそひと歌を振り返る その十四

 今回は集歌367の歌に載る「日本」と云う表記について考えてみたいと思います。この「日本」と云う表記は、一般には「やまと」と訓じ、一部、集歌319の歌では「ひのもと」と訓じます。

集歌367 越海乃 手結之浦矣 客為而 見者乏見 日本思櫃
訓読 越(こし)し海(み)の手結(たゆひ)し浦を旅しせに見れば乏(とも)しみ日本(やまと)思(しの)ひつ
私訳 越の海にある手結の浜辺を旅の途中で見ると気持ちがおろそかになり、大和の風景を思い出します。

 では、この日本と云う言葉は何を指すのでしょうか? 「やまと」との訓じから奈良盆地一帯の倭国を示すのでしょうか。それとも夷の支配地との境界から隼人の支配地の境界までの大和朝廷が支配していた地域全体を指し、その代表として朝廷の所在地である京師を意味するのでしょうか。それとも畿内を示すのでしょうか。当然、朝廷の所在地である京師としますと、万葉集の時代、京師は飛鳥、近江、飛鳥、藤原、奈良、紫香楽、奈良と変転しますから、歌が詠われた時代によっては示す地域は違うかもしれません。一方、畿内ですと孝徳天皇の大化二年の詔「凡畿内東自名墾横河(=伊賀国名張郡横川)以来。南自紀伊兄山(=紀伊国那賀郡背山)以来。西自赤石櫛淵(=播磨国明石郡櫛淵)以来。北自近江狭々波合坂山(近江国滋賀郡逢坂山)以来。為畿内国」により、明確にその域内が定まります。ただし、天智天皇が、孝徳天皇が定めた畿外となる近江大津に都を移したため、天智天皇時代には境界として東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関(=敦賀市疋田?)が実質上の役割を果たしたようです。
 他方、万葉集には「日本」と云う言葉を使った歌が十七首ありますので、以下にそれを紹介します。

石上大臣従駕作謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞

藤原宮御井謌
集歌52 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
集歌63 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

詠不盡山謌一首并短謌
集歌319 奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞

集歌359 阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念

角鹿津乗船時笠朝臣金村作謌一首并短謌
集歌366 越海之 角鹿乃濱従 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎

集歌367 越海乃 手結之浦矣 客為而 見者乏見 日本思櫃

集歌389 嶋傳 敏馬乃埼乎 許藝廻者 日本戀久 鶴左波尓鳴

十六年甲申。春二月、安積皇子薨之時、内舎人大伴宿祢家持作謌六首
集歌475 挂巻母 綾尓恐之 言巻毛 齊忌志伎可物 吾王 御子乃命 萬代尓 食賜麻思 大日本 久邇乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊尓波 花咲乎為里 河湍尓波 年魚小狭走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舎人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 埿打雖泣 将為須便毛奈思

集歌956 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念

集歌967 日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞

悲寧樂故郷作謌一首并短謌
集歌1047 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男牡鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思並敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞

集歌1175 足柄乃 筥根飛超 行鶴乃 乏見者 日本之所念

天平元年己巳冬十二月謌一首并短謌
集歌1787 虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓 紐不解 丸寐乎為者 吾衣有 服者奈礼奴 毎見 戀者雖益 色二山上復有山者 一可知美 冬夜之 明毛不得呼 五十母不宿二 吾歯曽戀流 妹之直香仁

集歌2834 日本之 室原乃毛桃 本繁 言大王物乎 不成不止

集歌3295 打久津 三宅乃原従 常土 足迹貫 夏草乎 腰尓魚積 如何有哉 人子故曽 通簀文吾子 諾々名 母者不知 諾々名 父者不知 蜷腸 香黒髪丹 真木綿持 阿邪左結垂 日本之 黄楊乃小櫛乎 抑刺 々細子 彼曽吾麗

集歌3326 礒城嶋之 日本國尓 何方 御念食可 津礼毛無 城上宮尓 大殿乎 都可倍奉而 殿隠 々座者 朝者 召而使 夕者 召而使 遣之 舎人之子等者 行鳥之 群而待 有雖待 不召賜者 劔刀 磨之心乎 天雲尓 念散之 展轉 土打哭杼母 飽不足可聞

 かように「日本」と云う表記を紹介しますと、歌によりその「日本」と云う言葉が示すものが時代により変わっていることが推定されます。たとえば、飛鳥浄御原宮から藤原京時代では集歌52の歌の「日本乃 青香具山者」に代表されるように「日本」は飛鳥地域や倭国を示すようです。
 それが次の時代となる藤原京時代から前期平城京時代になると、世界における国家意識が表れ大和朝廷の支配する地域として「日本」と云う表記が使われるようになります。それが集歌1047の歌で詠う「八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者」です。大和朝廷の大王が支配する地域すべてですから奈良盆地内の倭国でもありませんし、畿内でもありません。一方、集歌63の歌が詠う「日本」は「日本邊」として、直接には唐からの大船が着岸する畿内の河内国大伴の御津付近の景色です。しかしながら、この時代になると「日本」と云う言葉に奈良盆地南縁の飛鳥地域と云うような意味合いは無いと考えられます。
 そうした時、集歌367の歌の「見者乏見 日本思櫃」、集歌1175の歌の「乏見者 日本之所念」などの「日本」は広義では畿内であり、狭義では大和朝廷の都を示します。人々の意識の中に諸外国と比較する認識下では「礒城嶋之 日本國」と云う大和朝廷の大王が支配する地域全体を示し、また同時に大和朝廷の官人たる個人レベルでは大和朝廷の都、それも藤原京や前期平城京などの大規模で最先端の首都を意味するようです。その感覚により集歌956の歌の「御食國者 日本毛此間毛」では、歌中で「日本=前期平城京」と「此間=大宰府」とを並立させています。

 逆に見ますと、歌が詠われた時代推定において、この「日本」と云う言葉の扱いで、飛鳥浄御原宮から藤原京時代のものなのか、それとも藤原京時代から前期平城京時代以降のものなのかと云う比較が可能になります。また、時代における人々の国家意識と云うものまでも推定が可能になります。
 可能性として、飛鳥浄御原宮から藤原京時代のもので「日本」と云う表記がつかわれていても、これは「大和」と云う表記と置き換えが可能です。つまり、後年に「やまと」と云う言葉に「日本」と云う表記を当てた可能性があります。
 一方、統治と領土と云う概念からは、「日本」は「大和」や「倭」と云う表記との置き換えは出来ません。統治と領土と云う概念下、「日本」は大和朝廷が支配・管理する地域の国名ですから、論理上、「大和」にはなりえないことになります。すると、万葉集での国家としての「日本」と云う表記はいつごろからかと云うと、集歌475の歌の「大日本 久邇乃京者」から天平十六年の時点では、それが確認できます。さらに集歌1047の歌の「八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者」の表記も国家と云う概念がありますが、この歌もまた天平十六年です。これ以前となる天平元年に詠われた集歌1787の歌はどうでしょうか。歌では「礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓」とありますが、この「日本国」の表記が示すものが地域としての大和国か、国家としての日本国かは非常に難しいところです。
 万葉集には日本と云う表記を使った長短歌が全部で十七首ほどありますが、大和朝廷が支配・管理する地域の国名としての「日本」と云う表記を採用したものは少なく、わずか二首を数え、それは天平年間後半の認識です。「日本」と云う国号を記述する日本紀が捧呈されたのは養老四年(七二〇)五月ですが、古事記には「日本」と云う国号表記はありません。おおむね、国号としての「日本」は藤原京時代後半から前期平城京初期の間で使われるようになったもののようです。そのため、外交文書ではなく、人々の間で国号として「日本」と云う言葉が認識されるまでは、万葉集では詠い込まれなかった言葉のようです。一部の専門家の間で言葉が存在しても、人々が認知しなければ世間の言葉とはならなかったのではないでしょうか。

 今回も取り留めの無い与太話に終始しました。


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