万葉雑記 色眼鏡 三二七 今週のみそひと歌を振り返る その一四七
巻十六 有由縁并雜謌に入り、鑑賞しています。本来ですとこの巻十六に載る短歌は基となる長歌や前置漢文、左注の漢文などとともに鑑賞すべきですが、弊ブログの遊び方のルールにより分離して鑑賞しています。この巻十六は「有由縁并雜謌(由縁あるものに併せてくさぐさの歌)」と紹介するように、いろいろな種類の歌が集められています。
今回は、少し不思議な歌二首で遊びます。
集歌3851 心乎之 無何有乃郷尓 置而有者 狼孤射能山乎 見末久知香谿務
訓読 心をし無何有(むかふ)の郷(さと)に置きにあらば藐孤射(はこや)の山を見まく近けむ
私訳 心を無為自然の無何有の境地に置きたらば、仙人の住む藐姑射の山を見て暮らすような境地は近いであろう。
集歌3852 鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
訓読 鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干(しほひ)に山は枯(か)れすれ
私訳 鯨魚を獲る広い海も死して滅する、山も死して滅する。死して滅するからこそ海は潮が引くし、山は木が枯れる。
紹介しました二首は中国の荘子を背景として詠われたものと思われ、最初の集歌3851の歌の「狼孤射能山」とは荘子の逍遥遊に示す藐姑射の山と理解するものとなっています。
荘子 逍遥遊の一節より
原文 藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若氷雪、綽約若処子、不食五穀吸風飲露、乗雲気而遊乎四海之外、其神凝、使物不疵癘而年穀熟。
訳文 藐姑射の山に神なる人は居りれて有り、肌膚は氷雪の若く、綽約として処子の若くにして、五穀を食わず風を吸い露を飲み、雲気に乗りて四海の外に遊び、其の神の凝くにて、物をして疵癘せざらしめ、年穀をして熟せしめむといへり。
また、二句目の「無何有乃郷尓」には無心:無念無想の精神が示されていると解説します。つまり、作者も読者も荘子を知っていることが前提となっている非常に知識レベルが高くて、困惑するような歌です。
同じように集歌3852の歌は旋頭歌に分類される歌ですが、その背景に荘子の斉物論があるとされます。この斉物論は、「現実世界の根源にあってそれを支えている〈道〉の絶対性のもとでは,現実世界における万物の多様性や価値観の相違などのあらゆる差別相が止揚されて意味をもたなくなること、したがって道の在り方に目覚め道と一体となることによって、個が個としての価値を完全に回復し、何ものにもとらわれない境地に到達できるという論」と紹介されるものですが、判るようで判らない非常に難解な哲学思想です。
集歌3852の歌は、一見、不変と思える広大な海も大地にそそり立つ山も、いつかは無くなってしまうものであって不変ではない。その不変ではない表れとして海に満ち引きがあり、山では季節ごとに木が枯れるとします。世の中は人が観念しているほど固定されていないということを中国的な修辞法での極端な譬喩で示しているのでしょう。説によっては集歌3852の歌は仏教の輪廻を詠うとするものがありますが、集歌3849の歌に付けられた部立「厭世間無常歌二首」に添えられた二首と理解し、仏教からの二首に対して荘子からの哲学とするのが良いと思います。
なお、今回のものは集歌3849の歌から集歌3852の歌までの四首を組歌として哲学ものとして鑑賞すべきですが、最初の二首は仏教から鑑賞するものとされていますから、焦点を明確にするために割愛しています。参考に仏教的な二首はこの世とあの世の対立軸で歌を詠い、荘子の方の二首はこの世とあの世の対立軸をも超越する観念に対する哲学で歌を詠います。その立場の違いがあります。
今回は、判ったような判らない、モヤモヤとしたものになりましたが、話題のテーマを提供し、万葉集には哲学を詠ったものがあり、その哲学解釈は読者にゆだねられていることを紹介することに終始します。
いや、実にこの二首は難しい。お任せいたします。
巻十六 有由縁并雜謌に入り、鑑賞しています。本来ですとこの巻十六に載る短歌は基となる長歌や前置漢文、左注の漢文などとともに鑑賞すべきですが、弊ブログの遊び方のルールにより分離して鑑賞しています。この巻十六は「有由縁并雜謌(由縁あるものに併せてくさぐさの歌)」と紹介するように、いろいろな種類の歌が集められています。
今回は、少し不思議な歌二首で遊びます。
集歌3851 心乎之 無何有乃郷尓 置而有者 狼孤射能山乎 見末久知香谿務
訓読 心をし無何有(むかふ)の郷(さと)に置きにあらば藐孤射(はこや)の山を見まく近けむ
私訳 心を無為自然の無何有の境地に置きたらば、仙人の住む藐姑射の山を見て暮らすような境地は近いであろう。
集歌3852 鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
訓読 鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干(しほひ)に山は枯(か)れすれ
私訳 鯨魚を獲る広い海も死して滅する、山も死して滅する。死して滅するからこそ海は潮が引くし、山は木が枯れる。
紹介しました二首は中国の荘子を背景として詠われたものと思われ、最初の集歌3851の歌の「狼孤射能山」とは荘子の逍遥遊に示す藐姑射の山と理解するものとなっています。
荘子 逍遥遊の一節より
原文 藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若氷雪、綽約若処子、不食五穀吸風飲露、乗雲気而遊乎四海之外、其神凝、使物不疵癘而年穀熟。
訳文 藐姑射の山に神なる人は居りれて有り、肌膚は氷雪の若く、綽約として処子の若くにして、五穀を食わず風を吸い露を飲み、雲気に乗りて四海の外に遊び、其の神の凝くにて、物をして疵癘せざらしめ、年穀をして熟せしめむといへり。
また、二句目の「無何有乃郷尓」には無心:無念無想の精神が示されていると解説します。つまり、作者も読者も荘子を知っていることが前提となっている非常に知識レベルが高くて、困惑するような歌です。
同じように集歌3852の歌は旋頭歌に分類される歌ですが、その背景に荘子の斉物論があるとされます。この斉物論は、「現実世界の根源にあってそれを支えている〈道〉の絶対性のもとでは,現実世界における万物の多様性や価値観の相違などのあらゆる差別相が止揚されて意味をもたなくなること、したがって道の在り方に目覚め道と一体となることによって、個が個としての価値を完全に回復し、何ものにもとらわれない境地に到達できるという論」と紹介されるものですが、判るようで判らない非常に難解な哲学思想です。
集歌3852の歌は、一見、不変と思える広大な海も大地にそそり立つ山も、いつかは無くなってしまうものであって不変ではない。その不変ではない表れとして海に満ち引きがあり、山では季節ごとに木が枯れるとします。世の中は人が観念しているほど固定されていないということを中国的な修辞法での極端な譬喩で示しているのでしょう。説によっては集歌3852の歌は仏教の輪廻を詠うとするものがありますが、集歌3849の歌に付けられた部立「厭世間無常歌二首」に添えられた二首と理解し、仏教からの二首に対して荘子からの哲学とするのが良いと思います。
なお、今回のものは集歌3849の歌から集歌3852の歌までの四首を組歌として哲学ものとして鑑賞すべきですが、最初の二首は仏教から鑑賞するものとされていますから、焦点を明確にするために割愛しています。参考に仏教的な二首はこの世とあの世の対立軸で歌を詠い、荘子の方の二首はこの世とあの世の対立軸をも超越する観念に対する哲学で歌を詠います。その立場の違いがあります。
今回は、判ったような判らない、モヤモヤとしたものになりましたが、話題のテーマを提供し、万葉集には哲学を詠ったものがあり、その哲学解釈は読者にゆだねられていることを紹介することに終始します。
いや、実にこの二首は難しい。お任せいたします。
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