伊豫の温泉に至りて作れる謌
この歌は、伊予風土記の記事、万葉集の集歌6の歌の左注と集歌8の額田王が詠う熟田津の歌を引用したような歌です。つまり、この歌が歌われたとき、これらを集約して研究した山上憶良の類従歌林は広く知られた存在だったと推定されます。
山部赤人は、その歌人としての活動年代は神亀元年ごろから天平八年ごろの人ですから、その当時に、近江朝以前の歌については山上憶良の類従歌林を重要な参考資料にしていた可能性があります。その面でも、歌自体の鑑賞を離れて万葉集の編纂の成り立ちを推測する上で、興味深い歌でもあります。
山部宿祢赤人至伊豫温泉作謌一首并短謌
標訓 山部宿祢赤人の伊豫の温泉(ゆ)の至りて作れる謌一首并せて短謌
集歌322 皇神祖之 神乃御言 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極是凝 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 謌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處
訓読 皇神祖(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 敷きませる 国のことごと 湯(ゆ)はしも 多(さわ)にあれども 島山の 宣(よろ)しき国と 極(きは)みこぎ 伊予(いよ)の高嶺(たかね)の 射狭庭(いさには)の 岡に立ちて 謌(うた)思(しの)ひ 辞(こと)思(しの)ひせし み湯(ゆ)の上の 樹群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神さびゆかむ 行幸(いでまし)処(ところ)
私訳 天皇の皇祖である神が宣言なされた、神に継ながる天皇が治めなさる大和の国中に温泉はたくさんあるけれど、島山の立派な国とここにかき集めたような伊予の高き嶺の、神を祭る射狭庭の岡に立って、昔に詠われた謌を懐かしみ、述べられた詞を懐かしむと、温泉の上に差し掛ける樹群を見ると樅の木も育ちその世代を継ぎ、鳴く鳥も昔も今も声は変わらない。遠い時代に天皇が神として御出でになられた、御幸された場所です。
反謌
集歌323 百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久
訓読 ももしきの大宮人の飽田津(にぎたつ)に船乗りしけむ年の知らなく
私訳 沢山の岩を積み上げ造る大宮の宮人が飽田津で船乗りしたでしょうその年は、遥か昔でもう判らない。
参考歌その一
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌
標訓 讃岐國の安益(やすの)郡(こほり)に幸(いでま)しし時に、軍(いくさの)王(おほきみ)の山を見て作れる謌
集歌5 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情
訓読 霞立つ 長き春日の 暮れにける 区別(わづき)も知らず 村肝(むらきも)の 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠つ神 吾(わ)が大王(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり座(ゐ)る 吾が衣手に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 念(おも)へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る 方法(たづき)を知らに 網の浦の 海(あま)処女(をとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾が下情(したこころ)
私訳 霞が立つ長い春の日が暮れたようだ。今居る場所も判らず、体の中に宿る心を辛く感じ、ぬえ鳥のように忍び泣きしていると、美しい襷を肩に掛けるのが相応しいように、願いを掛けるのが相応しい大和の京から遠く離れたこの地の神が、我が大王が行幸なさっている山のその山を越す風が、独りで座り居る私の袖を、朝に夕に思いを呼び起こすようにひるがえるので、立派な男と思っている私も、草を枕にするような苦しい旅路にあるので、大和の京に残る貴女にこの思いを伝える方法も知らないので、網の浦で地元の海人の娘達が焼く塩のように、貴女への思いで胸を焼くことです。それが私の貴女への想いです。
反謌
集歌6 山越乃 風乎時自見 寐不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
訓読 山越(やまこし)の風を時じみ寝(ぬ)る夜(よ)おちず家なる妹を懸(か)けて偲(しの)ひつ
私訳 山を越す風が絶え間ない。毎晩毎晩、大和の家に残す愛しい貴女を心に掛けて恋い慕う。
左注 右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。
注訓 右は、日本書紀を檢(かむが)ふるに讃岐國に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王は未だ詳(つまび)らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「記に曰はく『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊豫の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す、云々』といへり。一書(あるふみ)に云はく『是の時に、宮の前に二つの樹木在り。此の二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)二つの鳥大(さは)に集まれり。時に、勅(みことのり)して多くの稲穂を挂けてこれを養ひたまふ。乃ち作れる歌云々』」といへり。若(けだ)し、疑ふらくは此より便(すなは)ち幸(いでま)ししか。
参考歌その二
額田王謌
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の謌
集歌8 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
私訳 熟田津で朝鮮に出兵するための対策を立てて実行してきたが、全ての出陣への準備が願い通りに整ったし、この遅い月の月明かりを頼って出港の準備をしていたら潮も願い通りになった。さあ、今から出港しよう。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酋十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔丙寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)みて曰はく「飛鳥岡本宮の御宇天皇の元年己丑、九年丁酋の十二月己巳の朔の壬午、天皇(すめらみこと)大后(おほきさき)、伊豫の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮の馭宇天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の丙寅、御船の西に征(ゆ)き始めて海路に就く。庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶存(のこ)れる物を御覧(みそなは)して、當時(そのかみ)忽ち感愛(かなしみ)の情(こころ)を起こす。所以に因りて謌を製(つく)りて哀傷(かなしみ)を詠ふ」といへり。即ち此の謌は天皇の御(かた)りて製(つく)らせしなり。但し、額田王の謌は別に四首有り。
この歌は、伊予風土記の記事、万葉集の集歌6の歌の左注と集歌8の額田王が詠う熟田津の歌を引用したような歌です。つまり、この歌が歌われたとき、これらを集約して研究した山上憶良の類従歌林は広く知られた存在だったと推定されます。
山部赤人は、その歌人としての活動年代は神亀元年ごろから天平八年ごろの人ですから、その当時に、近江朝以前の歌については山上憶良の類従歌林を重要な参考資料にしていた可能性があります。その面でも、歌自体の鑑賞を離れて万葉集の編纂の成り立ちを推測する上で、興味深い歌でもあります。
山部宿祢赤人至伊豫温泉作謌一首并短謌
標訓 山部宿祢赤人の伊豫の温泉(ゆ)の至りて作れる謌一首并せて短謌
集歌322 皇神祖之 神乃御言 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極是凝 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 謌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處
訓読 皇神祖(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 敷きませる 国のことごと 湯(ゆ)はしも 多(さわ)にあれども 島山の 宣(よろ)しき国と 極(きは)みこぎ 伊予(いよ)の高嶺(たかね)の 射狭庭(いさには)の 岡に立ちて 謌(うた)思(しの)ひ 辞(こと)思(しの)ひせし み湯(ゆ)の上の 樹群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神さびゆかむ 行幸(いでまし)処(ところ)
私訳 天皇の皇祖である神が宣言なされた、神に継ながる天皇が治めなさる大和の国中に温泉はたくさんあるけれど、島山の立派な国とここにかき集めたような伊予の高き嶺の、神を祭る射狭庭の岡に立って、昔に詠われた謌を懐かしみ、述べられた詞を懐かしむと、温泉の上に差し掛ける樹群を見ると樅の木も育ちその世代を継ぎ、鳴く鳥も昔も今も声は変わらない。遠い時代に天皇が神として御出でになられた、御幸された場所です。
反謌
集歌323 百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久
訓読 ももしきの大宮人の飽田津(にぎたつ)に船乗りしけむ年の知らなく
私訳 沢山の岩を積み上げ造る大宮の宮人が飽田津で船乗りしたでしょうその年は、遥か昔でもう判らない。
参考歌その一
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌
標訓 讃岐國の安益(やすの)郡(こほり)に幸(いでま)しし時に、軍(いくさの)王(おほきみ)の山を見て作れる謌
集歌5 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情
訓読 霞立つ 長き春日の 暮れにける 区別(わづき)も知らず 村肝(むらきも)の 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠つ神 吾(わ)が大王(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり座(ゐ)る 吾が衣手に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 念(おも)へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る 方法(たづき)を知らに 網の浦の 海(あま)処女(をとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾が下情(したこころ)
私訳 霞が立つ長い春の日が暮れたようだ。今居る場所も判らず、体の中に宿る心を辛く感じ、ぬえ鳥のように忍び泣きしていると、美しい襷を肩に掛けるのが相応しいように、願いを掛けるのが相応しい大和の京から遠く離れたこの地の神が、我が大王が行幸なさっている山のその山を越す風が、独りで座り居る私の袖を、朝に夕に思いを呼び起こすようにひるがえるので、立派な男と思っている私も、草を枕にするような苦しい旅路にあるので、大和の京に残る貴女にこの思いを伝える方法も知らないので、網の浦で地元の海人の娘達が焼く塩のように、貴女への思いで胸を焼くことです。それが私の貴女への想いです。
反謌
集歌6 山越乃 風乎時自見 寐不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
訓読 山越(やまこし)の風を時じみ寝(ぬ)る夜(よ)おちず家なる妹を懸(か)けて偲(しの)ひつ
私訳 山を越す風が絶え間ない。毎晩毎晩、大和の家に残す愛しい貴女を心に掛けて恋い慕う。
左注 右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。
注訓 右は、日本書紀を檢(かむが)ふるに讃岐國に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王は未だ詳(つまび)らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「記に曰はく『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊豫の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す、云々』といへり。一書(あるふみ)に云はく『是の時に、宮の前に二つの樹木在り。此の二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)二つの鳥大(さは)に集まれり。時に、勅(みことのり)して多くの稲穂を挂けてこれを養ひたまふ。乃ち作れる歌云々』」といへり。若(けだ)し、疑ふらくは此より便(すなは)ち幸(いでま)ししか。
参考歌その二
額田王謌
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の謌
集歌8 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
私訳 熟田津で朝鮮に出兵するための対策を立てて実行してきたが、全ての出陣への準備が願い通りに整ったし、この遅い月の月明かりを頼って出港の準備をしていたら潮も願い通りになった。さあ、今から出港しよう。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酋十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔丙寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)みて曰はく「飛鳥岡本宮の御宇天皇の元年己丑、九年丁酋の十二月己巳の朔の壬午、天皇(すめらみこと)大后(おほきさき)、伊豫の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮の馭宇天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の丙寅、御船の西に征(ゆ)き始めて海路に就く。庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶存(のこ)れる物を御覧(みそなは)して、當時(そのかみ)忽ち感愛(かなしみ)の情(こころ)を起こす。所以に因りて謌を製(つく)りて哀傷(かなしみ)を詠ふ」といへり。即ち此の謌は天皇の御(かた)りて製(つく)らせしなり。但し、額田王の謌は別に四首有り。
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