竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 八七 万葉集巻五 標題を考える

2014年10月25日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 八七 万葉集巻五 標題を考える

 最初に、今回のものは長い長い独り言です。ですから、退屈の上、今まで以上に得るものがありません。個人のブログの性質として、ご容赦下さい。
 この独り言は、以前に紹介した「貪窮下賤」の言葉から「貪窮問答謌」へ展開した鑑賞の続編となるものです。そこでは『紀州本万葉集』では目録と標題との間では「貪窮」の表記は違っていると紹介しました。今回は、その違いに対する独り言です。
 さて、江戸期以降の古典研究態度では研究の成果を下に古典原文を校訂し、校訂文を正しいものとし、その校訂の過程は脚注や欄外に置くような形になって来ています。従いまして、特別に注意を払わないと一見、原文のようですが、本来の伝本で記された表記と近代の校本された原文との差異に気が付かない可能性があります。その校本後の姿で原文として紹介するものでは近代の『校本万葉集』や中世の『定家版古今和歌集』などが代表的なものです。
 一方、それ以前ですと、藤原為家は『土左日記』を写本したときに「紀氏正本書写之一字不違」と記し、また、『源氏物語』の写本(正徹本)では次のような奥書を持ち、写本した底本との間に“これは写本の写本”ではあるがそこには差異が無いことを宣言して、嘉吉三年(1443)版の写本の正統性を主張しています。

<源氏物語正徹本奥書より>
校本云、去正応四年之比。此物語一部以家本。不違一字所摸也。於此巻者舎兄慶報法眼筆也。可為證本乎。
通議大夫藤為相
(判)

以多本雖校合、猶青表紙正本〈定家卿本也〉不審之処、為相卿正応之比、以青表紙。書写之本出来之間、加一校之処、此本一字不違彼校本。桐壺・夢浮橋両帖、為相卿自筆之奥書、判形等、如此。則注別之了、尓今、弥定正本、若違此本者、非彼家本、不用之者也。
(判)
嘉吉三年初秋中七日 重而書之

 このように日本の写本の世界では一字一句間違えずに写本するのが原則です。そして、新たな校訂や校合の成果は赤字や青字で表わし、書き込みの為に写本したテキストに記述します。この原則は鎌倉時代中期にも生きていたと考えますし、平安時代の写本もまたそのようであったと考えます。

 ここで、最初の「貪窮問答謌」の話題に戻ります。
 『万葉集』の編纂歴史の研究では、巻一から巻十六までが詩歌集として編纂された形跡があるが、巻十七から巻二十の四巻はある種の資料集的に付属されたものではないかとの指摘があります。そうした時、巻一から巻十六までのものについても、巻五は山上憶良の個人的な詩歌ノートの体裁をしているとの指摘があります。つまり、巻五はそのように指摘されるほど、非常に独特な編纂スタイルを持っています。
 その特得な編纂スタイルを紹介するために、『万葉集』での各巻の目録と本文での標題との比較を紹介します。紹介では恣意的な行為を除くため、各巻の第四番目から第八番目までのものを取り上げます。巻一から巻十六までのすべてを取り上げますと煩雑になりますので、ここでは巻一、巻二と巻五を代表として紹介します。

巻一
歌四目録 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作謌并短歌
歌四標題 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作謌
歌五目録 額田王謌 未詳
歌五標題 額田王謌 未詳
歌六目録 額田王謌
歌六標題 額田王謌
歌七目録 幸紀温泉之時額田王作謌
歌七標題 幸于紀温泉之時額田王作謌
歌八目録 中皇命徃于紀温泉之時御謌三首
歌八標題 中皇命徃于紀温泉之時御謌

巻二
歌四目録 天皇賜鏡王女御謌一首
歌四標題 天皇賜鏡王女御謌一首
歌五目録 鏡王女奉和御謌一首
歌五標題 鏡王女奉和御謌一首
歌六目録 内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣謌一首
歌六標題 内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣謌一首
歌七目録 内大臣報贈鏡王女謌一首
歌七標題 内大臣藤原卿報贈鏡王女謌一首
歌八目録 内大臣娶釆女安見兒望時作謌一首
歌八標題 内大臣藤原卿娶釆女安見望時作謌一首

巻五
歌四目録 山上臣憶良思子等謌一首并短歌
歌四標題 思子等謌一首并序
歌五目録 山上臣憶良哀世間難住謌一首并短歌
歌五標題 哀世間難住謌一首并序
歌六目録 大宰師大伴卿相聞謌二首
歌六標題 謌詞両首 大宰帥大伴卿
歌七目録 答謌二首
歌七標題 答謌二首
歌八目録 師大伴卿梧桐日本琴贈中衛大将藤原卿謌二首
歌八標題 大伴淡等謹上 梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝


 各巻の目録と標題とを示しそこでの差異を紹介しましたが、これは西本願寺本に準拠した『万葉集』での話であり、伝本によっては目録や標題もまた一致しないことはあります。インターネット上でも「万葉集目録における仙覚寛元本と文永本との差異 -巻十七~十九を中心に(北井勝也)」と云う伝本による目録の差異に注目した論文を見ることが出来ます。このように同じ仙覚系の写本であっても校本された時期などにより目録に差異があることが確認出来ます。伊藤博氏のように使用した底本や同じ系列の底本を使用したと思われものでも写本した者により目録には差異が認められるから、目録は『万葉集』の研究対象になじまないとしています。それを反映して注釈によっては独自の目次を立てる人もいます。それほどに目録と標題との関係を考えることは難しいのです。

 困難性を認識したところで、先に紹介したものを比べて見ますと、巻一や巻二に対して巻五は目録と標題との差異が際立ちます。紹介はしませんでしたが、最大に差異が目立つものとしては次のものがあり、目録では「山上臣憶良和為熊凝述志謌一首并短謌」ですが、標題では「敬和為熊凝述其志謌六首并序 筑前國守山上憶良」となっています。この「敬和為熊凝述其志謌」は漢文の序、長歌一首、短歌五首で構成されていますから、目録と標題とを比べますと標題の表記の方が判りやすい観があります。
 ただ、『万葉集』では長歌に付属する短歌は数えない場合がありますから、その場合は目録が古風であるのかもしれません。目録において「・・・・一首并短歌」と記す場合、「并短歌」は小文字での添え字の扱いです。ときに「并短歌」は後年の補筆かもしれません。同様な小文字での補筆の例が巻一などに見られる「謚曰天智天皇」や「謚曰天武天皇」などの諡号です。このような漢風諡号は『万葉集』の編纂に相応しくないのは明らかです。従いまして、巻一の目録「過近江荒都時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」は「過近江荒都時柿本朝臣人麿作歌一首」+補筆「并短歌」が正しい理解かもしれません。つまり、長歌は代表的作品数と数えますが短歌は付属物とする姿です。先の例に戻りますと、巻五目録「山上臣憶良和為熊凝述志謌一首并短謌」は「山上臣憶良和為熊凝述志謌一首」+補筆「并短歌」が正しい理解としますと、標題の「敬和為熊凝述其志謌六首并序 筑前國守山上憶良」は後年の写本時に先の校訂者により付けられたものを古本本文として扱われたと解釈するのが良いのかもしれません。
 すると、疑問が生じます。巻五において、詩歌集の巻五の目次となる目録と本文詩歌に付けられた標題とを比べる時、どちらの方が古い歴史を持つのでしょうか。なお、巻五を参考にしますが、目録も標題も詩歌の作歌者自体が付けたものなのかと問いますと、一概にそれは違うでしょう。一般に目録も標題も『万葉集』の編集者か、後年の写本者によって付けられたものと考えます。有名な山上憶良の「日本挽歌」は目録では「筑前守山上臣憶良挽歌一首并短謌」であり、標題は最初の前置漢文には付けられてはおらず、次の長歌に「日本挽歌一首」と付けられています。参考に、このような姿があるためにこの前置漢文の製作者について古い時代には大伴旅人説と山上憶良説との両論がありました。これは形式論において、作品に標題が付けられていない、または、関係付けが明確になされていないと云う厳密論議を行ったための形式的な確認のための議論です。内実は全くありません。
 ここでもう一つ困った問題があります。山上憶良が詠う「日本挽歌」の作品中に「日本挽歌」と云う言葉は出て来ません。従いまして、およそ、標題である「日本挽歌一首」は憶良自身が付けたものと思われます。同様に嘉摩三部作とも称される「令反惑情謌一首」、「思子等謌一首」や「哀世間難住謌一首」もまた憶良自身が付けたものでしょう。「貧窮問答謌一首」もまた本文中のシンボル的な言葉を採用したものではありませんから標題は憶良自身が付けたものです。およそ、標題は作品内容を示すものとして憶良が付けたものですから、作品を鑑賞するとき、標題とかい離することは出来ません。
 以前のブログで「貪窮下賤」と「貧窮下賤」は同じではないことをテーマしたとき、『紀州本万葉集』の目録では「貪窮問答謌」ですが、『西本願寺本万葉集』の目録では「貧窮問答謌」となっていると紹介しました。そして伝本の歴史では巻一から巻十までに限ると紀州本万葉集の方が古風を伝えていると紹介し、ここでのブログでは『紀州本万葉集』の「貪窮問答謌」の表記を採用していると宣言しました。ところが、詳しく調べますと同じ『紀州本万葉集』巻五の伝本においても目録表記と標題表記とが相違していることが判ります。

 戻ります。
 では巻五において、詩歌集の巻五の目次となる目録と本文詩歌に付けられた標題とを比べる時、どちらの方が古い歴史を持つのでしょうか。確かに山上憶良が詠う「日本挽歌」のように作歌者自身が付けた標題も存在しますが、一方では、目録に「山上臣憶良詠鎮懐石一首并短歌」とありますが、その本文中では標題を持ちません。標題を持たず、先に置かれた詩歌に対して連続的に歌が始まると云う、詩歌集としての体裁を保っていません。つまり、目録をもって本文中では古本に準じたのでしょうか。
 帰結として、鎌倉時代中期になって仙覚が種々の古本から校本するまでに目録のものは残り、本文中のものは伝承される途中で脱落したのでしょうか。ちなみに説文解字から目録の「山上臣憶良詠鎮懐石一首」に使われる「詠」の文字を調べますと「声を長く延ばして歌う行為」とあります。作品を作るのではなく、出来ている作品を歌う様です。つまり、「鎮懐石一首」の作品は伝承されたものを憶良が朗詠したと云うことです。この作品の最後に「右事傳言、那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也」とありますから、憶良が那珂郡伊知郷の蓑嶋に住む建部牛麻呂から伝承を聞いて記録したと云うことが真相のようです。すると、目録は正しく作品内容を理解し記述していると思われますから、古本でもそうであったかもしれません。
 時に人は、巻五は、最初は憶良の詩歌ノートのような手記帖が元ではないかとし、それが大伴家持あたりに伝わり『万葉集』として体裁を整えたのではないかとします。そうしますと、「沈痾自哀文」の作品では、『万葉集』の作品群の中にあって特異的に本文中に多くの注記を持ちますから、憶良の詩歌ノートを下に直接のその作品の解説を受け、その解説を書き留め、注記としたのかもしれません。それが特異的な注記の存在の理由なのでしょう。もし、憶良から直接に解説を受けた人物が『万葉集』の編纂に関わったとしますと、付けられた目録は正しく山上憶良の意図を理解している可能性があります。つまり、巻五の目録は憶良の詩歌ノートのような手記帖から分離できないことになります。目録と標題とを比べるとき、憶良自身が付けた標題を除くと、目録がより根源であると云うことになります。
 『万葉集』の編纂は大伴家持の手によるものか、その影響が濃いとします。一方、筑紫時代の関係から大伴家持と山上憶良とには交友かあり、憶良の詩歌ノートは大伴家持の下に移り、それが『万葉集』巻五になったとも推定されています。可能性として、巻五の目録は正しく山上憶良の作歌意図を反映している可能性があるのではないでしょうか。その時、現在の一般の解釈はそれに沿っているでしょうか。

 『万葉集』巻五の目録と標題は次のような姿であったかもしれません。 ただ、現在に伝わる伝本では巻五は目録と標題とは一対一の対応にはなっていません。目録の方が作品群としては捉えていますから、その分、作品の掲載と区切りは目録の方がすっきりしています。(目録一から目録十までを掲示)

目録一 大宰師大伴卿報凶問謌一首
集歌群 集歌793 含む前置漢文
目録二 筑前守山上臣憶良挽謌一首并短謌
集歌群 集歌794~799 含む前置漢文
目録三 山上臣憶良令反或情謌一首并短謌
集歌群 集歌800~801 含む前置漢文
目録四 山上臣憶良思子等謌一首并短謌
集歌群 集歌802~803 含む前置漢文
目録五 山上臣憶良哀世間難住謌一首并短謌
集歌群 集歌804~805 含む前置漢文
目録六 大宰師大伴卿相聞謌二首
集歌群 集歌806~807 含む前置漢文
目録七 答謌二首
集歌群 集歌808~809
目録八 師大伴卿梧桐日本琴贈中衛大将藤原卿謌二首
集歌群 集歌810~811 含む前置漢文
目録九 中衛大将藤原卿報謌一首
集歌群 集歌812 含む前置漢文
目録十 山上臣憶良詠鎮懐石一首并短謌
集歌群 集歌813~814 含む前置漢文

 個人の感想ですが京都大学電子図書館で閲覧できる『万葉集(近衛本)』巻五目録のデジタル映像では、「貪窮問答謌」の「貪」の文字は「貧」になりきれない「貪」の感覚があります。一方、本文では明確に「貧」の表記です。これは『万葉集(紀州本)』のデジタル映像と同じ姿です。なお、目録の表記については一字不違の伝統から偶然の誤記ではないとします。
 長い独り言でしたが、最後まで結論を導き出せないもどかしさがあります。現況では目録を尊重し「貪窮問答謌(ドングウモンドウウタ)」と解釈します。

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