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万葉雑記 番外雑話 聖徳太子の尊称と墨子

2020年10月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑話 聖徳太子の尊称と墨子

 弊ブログでは数回に渡り、大工さんの記念日と聖徳太子との関係問題や憲法十七条の基本精神と使う言葉の由来からすると、聖徳太子と墨子との相性が良いことを紹介しました。
 ここで、有名な聖徳太子の尊称はあくまでも高貴な御方を本名では呼称しない風習から付けられた尊称です。そのため、日本書紀では「聖徳太子、廐戸皇子。更名豊耳聡。聖徳。或名豊聡耳。法大王。或云法主王」と紹介します。
 飛鳥時代から奈良時代にあって馬は大変に高価ですから、現代ならプライベートジェットの保有のような感覚でしょうか。貴族階級の贅沢規制の一環として馬の保有制限が出ます。そのような時代感覚で馬の保有=馬房=廐戸なら、この人と云う意味合いの「廐戸皇子」の呼称は、ほぼ、社会生活上での資産側から見た別称みたいなものでしょう。他方、聖徳は従来説の様に仏教側からの尊称でしょうし、仏教側からの解釈とは相違しますが国家運営の重要性からしますと法大王や法主王は憲法十七条などの成文規定を日本で最初に行い、施行させた人との意味合いでの事績からの尊称と考えます。ここまでは、オーソドックスなものであって、弊ブログでの解釈と社会一般との乖離は大きくはないと思います。
 さて、豊耳聡や豊聡耳の尊称ですが、これが中国の故事成語「聡耳明目」に由来するものとは、あまり、知られていないと思います。従来は「聡耳」の言葉の後解釈として、一度に十人の人々の行政訴訟を聞いて判断が出来た聡い人、つまり、話を耳で聞いての聡い人だから「耳聡」、「聡耳」などと説明します。当然、日本書紀の漢文章はこのような説話から言葉は作りません。特別な言葉には漢籍や漢字本来の由来を持ちます。それを踏まえて日本書紀に先行する漢籍を調べると故事成語「聡耳明目」が得られます。
ここで、聖徳太子の別称である豊耳聡や豊聡耳が故事成語「聡耳明目」にあると決めつけますと、問題が生じます。さて、どの先行する漢籍に由来したのかです。弊ブログ調べでは次の四候補が有ります。なお、周易とは現在で唐代以降に整備された易経と云うものの前身です。

候補①:周易 彖傳 巽而耳目聡明
候補②:孫子 見日月不為明目、聞雷霆不為聡耳
候補③:墨子 是以聡耳明目、相与視听乎
候補④:荀子 是聡耳之所不能听也、明目之所不能見也

 令和二年秋現在で、ネットを調べると聖徳太子の別称「豊聡耳」を故事成語「聡耳明目」に由来を候補③の墨子に求める人はいますが、それ以外に求める人を見つけることは出来ませんでした。候補の時代の先後では周易が最も古く荀子が新しい位置にあります。孫氏と墨子はほぼ同時代ですが、孫氏と墨子は共に約200から300年程度の時代を経て現代に伝わる原形が出来たと推定され、どちらを先とするかは難しいものがあります。
 時代として候補①の周易は、ほぼ、漢易(易緯)と思われるものですが、日本書紀では唐時代に五経正義として確立した経教に区分される易経の名称を与えられものが欽明天皇十四年に載りますから、日本書紀では易経ですが易緯がこの頃に伝来しています。他の候補の書籍の伝来時期は日本書紀や続日本紀からは不明です。ただ、秦から漢初までに墨子が、後漢から唐初時代までに孫氏と荀子が現代に伝わる形に編纂されていますから、聖徳太子の時代にはこれらの整った書籍が中国側には存在しています。
 聖徳太子の時代に候補①の周易が易緯でしたら、それは現代風の儒教の教えと占いが融合した易経ではなく、占いの形とその形に対応する言葉の手引き集を主体とするものであって、尊称となる言葉「聡耳」の引用先として採用するかどうかの問題があります。儒学の易経と占術の易緯とは性格を異に、隋時代以前の易緯は宋時代までに儒学の易経と入れ替えに書籍は消えたとします。これを示すように易経について日本書紀から日本後紀までに四回ほど記事が載りますが、二回は欽明天皇の時代の易博士の日本への赴任記事、一回は天平宝字の陰陽生が学ぶべき基本書籍の命令の記事、残りの一回が大化元年の新政策に対する占いを行ったその結果を示す記事です。
 また、現在、中国と台湾は唐代以前の古典資料の整備を行っており、その一環で特徴的にその時代の漢籍記録が残る日本の漢文資料のデータベース化を積極的に推進しています。そのために日本側の漢籍へのデータベース化からすると中国側の方が日本の中古代の記録に詳しい場面もありますし、広く公開されています。これを反映して、中国の研究者は、「日本の歴代の朝廷は易経など儒教の書籍をほとんど重要視していなくて、儒家の五経が進講された記録として、宇多天皇が仁和四年(888)十月九日に周易を受講したものしか見られない」と報告します。平安時代の話ですが、朝廷や学者は五経正義で教義として整ったはずの儒教ですが、知識程度にしか採用しなかったようです。このような歴代の扱いからしますと、聖徳太子の尊称となる聡耳の言葉を周易から取った可能性は薄いと考えます。
 次に候補②の孫氏の書籍について、孫氏は兵法の書籍で、それも戦時を想定した制度としての職業軍人と戦闘集団が存在することがあって初めて社会の必要性が生まれます。このような背景から日本で初めて記録に出て来るのが続日本紀に載る天平宝字四年(760)の記事です。律令制度には軍制が規定されていますから、建前では大宝律令以降では兵法や軍制の研究が必要となります。しかし、飛鳥時代前期に孫氏の書籍を人々が知っていて、それを重視したかです。また、憲法十七条の制定や仏教からの聖徳の尊称からしますと孫氏を重視するのであれば違和感となりますし、次の原文からも後ろ向きの文面ですから尊称の引用先としてはどうでしょうか。

候補②:孫子
原文:故舉秋毫不爲多力、見日月不為明目、聞雷霆不為聡耳
訓読:故に秋毫(しゅうごう)を挙ぐるも多力と為さず、日月を見るも明目と為さず、雷霆を聞くも聡耳と為さず。

 また候補④について、荀子は、どうも、秦墨と呼ばれた墨学集団と交流があったようで儒教と墨学の良いところ取りをしたような姿を見せます。墨子は人々を分け隔てなく政治を行うとすると、聰耳明目として民の訴えを聞き、生業の状況を見る必要があるとしますが、対する荀子は墨子がそのように説いたとしても民の訴えには虚実が混じっているではないか、そのような現実があれば聰耳明目の人であっても人々の虚実を正確に聞き分け見分けることは難しいと説きます。ここに人の他人を愛し、秩序を大事にする精神に期待する墨子と人は本性においては自己の利益の為には何をするか判らないとする荀子の差があります。ちなみに、人の本性に期待する墨子の兼を和と置き換えますと、憲法十七条の第一条「以和為貴。無忤為宗。(和を以て貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ)」と趣旨は似て来ます。この聖徳太子の説く所の理念からしますと墨子の方が相応しく、荀子とは違う世界と考えます。

候補④:荀子·儒效
原文:若夫充虚之相施易也、堅白同昇之分隔也、是聡耳之所不能听也、明目之所不能見也,弁士之所不能言也。
訓読:若し夫れ充虛の相(あい)施易(いえき)するや、堅白(けんぱく)同昇(どうしょう)の分隔するや、是れ耳の聽く能わざる所なり、明目の見る能わざる所なり、辯士の言う能わざる所なり。

候補③:墨子 兼愛下
原文:今吾将正求與天下之利而取之、以兼為正、是以聰耳明目相與視聴乎。
訓読:今、吾は将(まさ)に正(まつりごと)に天下の利を與し而して之を取らむことを求めるとすば、兼(けん)を以って正(まつりごと)と為し、是れを以って聰耳(そうじ)明目(めいもく)の相(あい)與(とも)に視聴(しちょう)せむ。

 非常に強引ですが、聖徳太子の別尊称である「豊聰耳」に漢籍の由来があるとしますと、墨子が一番、ぴったり来ます。
 さらにこの時代、薄葬の思想が現れ推古天皇が最初の実践者となるべく遺勅を残し、聖徳太子は役人なら勤務時間を守れと求めます。これらは墨子の行政方法に対する主張です。さらに聖徳太子には大工の祖である伝承があり、これは墨子の実務・科学を説くものの現れです。状況証拠ですが、飛鳥時代の日本人は国民が豊かになる方法として墨子の教えを受け入れ、それを実践したのではないでしょうか。

 おまけとして、先の薄葬の思想に注目しますと、日本書紀に載る大化二年(六四六)三月の薄葬令の一文に「西土之君戒其民曰、古之葬者、因高為墓、不封不樹。棺槨足以朽骨、衣衿足以朽完而已」とあり、これは墨子の節葬下篇に載る「故古聖王制為葬埋之法、曰、棺三寸足以朽體、衣衾三領足以覆悪」や「子墨子制為葬埋之法曰、棺三寸足以朽骨、衣三領足以朽肉」を参考にしたような類型の表現を示します。薄葬の思想は儒教の拠って立つ世界とは真反対の世界ですし、中国の孝行思想を取り入れた中国仏教とも相容れない世界です。隋唐時代の仏教僧と仏教徒の葬儀は従来の孝行思想で葬儀を行い、さらに大乗仏教式に骨を個々人の為の石塔に納めます。庶民にとっては儒教の「土葬+一族の廟」に祀るよりも、仏教の「火葬+石塔」の方が費用的には大変な話になります。このような隋唐の埋葬スタイルに対し、日本の薄葬の思想は東アジア圏においては特異なのです。ほぼ、その特異性からすると墨子に学んだと考えると落ち着きが良いと考えます。
 また、儒教や仏教とは全く違う墨子のもう一つの特異な思想に女性の活用・登用の考えがあります。儒教は男性家長を中心の男系社会思想ですし、仏教は原則的に女性を対象とはしていません。そのようななかにあっての墨子の女性活用の思想です。この視線から日本書紀を点検しますと日本律令体制の不思議な所は天武天皇の時代から女性であっても能力により官への出仕が可能で官位も与えられていたことです。

天武天皇二年(六七三)五月の記事:「詔公卿大夫及諸臣・連并伴造等曰、夫初出身者、先令仕大舎人。然後選簡其才能、以死当職。又婦女者、無問有夫無夫及長幼、欲進仕者聴矣。其考選准官人之例」

 知られていませんが、戦争において小国が大国に立ち向かう為に、墨子は女性を労働力・戦力と考えて、號令篇では「諸男女有守於城上者、什、六弩、四兵」や「令行者男子行左、女子行右、無並行、皆就其守、不従令者斬。」と規定を作り、その守備隊を率い守り抜いた女性指揮官には錢五千、守備隊で部署を守り抜いた女性に錢千を与えるような報償制度などを設けて人材活用を行うことを推薦しています。
 日本古代社会で、母系社会を背景に律令規定の中で女性の相続や所有権などの権利保全の話だけなら判り易いのですが、なぜか特異的に官組織への女性の登用制度を飛鳥から奈良時代の日本が制度化します。女性が男性を指揮下に置くことも認める制度ですから、まず、儒教では考えられない官組織への登用制度です。
 加えて、飛鳥奈良時代での非常に特異的ですが、成文規定に天武天皇の時代、官組織への登用された女性は男性と同じように髪を結い、縦乗りで乗馬することを求められていました。また、女性であっても官人として乗馬技能を確認する観閲も定期的に行われていました。さらに特徴的なのは当時の宮中の妃や夫人クラス、また、高級官僚の夫人であっても自分の荘園や野外に乗馬で外出します。そのために近習する女性は貴人女性を警護する必要があり、その為に武装が必然となります。律令制度上では後宮十二司の中に兵司を置き、女嬬が武装した仕女たちの指揮を執るようなっています。ただ、高貴な女性が外出しなくなる平安時代では、この後宮十二司の中の兵司の存在理由が近い不能になります。なお、外出する貴人女性の警護の必然が生まれた江戸期には別式女と云う名称で武装した女性警備隊が生まれることになります。
 近世では女性が職業に就くことへの忌諱や問題として月経による血の穢れを挙げる場合がありますが、日本書紀と同時代の古事記では次のような日本武尊の伝説を載せます。日本武尊と尾張国の宮簀媛=美夜受比賣(ミヤズヒメ)は、日本武尊を迎えた宴会で月経の兆しを示す宮簀媛の裳裾をテーマに歌を交わします。このように飛鳥奈良時代は非常に開け広げな感覚であり、平安時代の忌諱感覚とは全くに違うことを理解する必要があります。

自其國越科野國乃言向科野之坂神、而還來尾張國入坐、先日所期美夜受比賣之許、於是獻大御食之時、其美夜受比賣捧大御酒盞以獻、爾美夜受比賣、其於意須比之襴(意須比三字以音)著月經、故見其月經、御歌曰

比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿礼波須禮杼 佐泥牟登波 阿礼波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
(ひさかたの 天の香具山 とかまに さ渡る鵠 弱細 手弱腕を 枕かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が着せる 襲の裾に 月たちにけり)

爾美夜受比賣答御歌曰

多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 阿良多麻能 都紀波岐閇由久 宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多多那牟余
(高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く うべな うべな 君待ち難に 我が着せる 襲の裾に 月たたなむよ)

 このような状況を踏まえたとしても、飛鳥奈良時代からの日本の女性の官組織への登用制度は特異です。なお、続日本紀などには官人最下級となる後宮十二司の女嬬クラスでも官位拝受の記録が載りますから、適切に人事評価が為されていたと考えられます。これを中国に先行事例などを探すと唯一、墨学だけに辿り着きます。推古天皇頃を始めとして飛鳥奈良時代、その後の日本と云う形を刑するような重要な政策立案には墨子の思想が入ったと思われます。ただしかしながら、従来の日本古代史の研究では墨子も道教も無いことになっています。実に不思議です。
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