旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

トルコ紀行⑰ ・・・ ボスフォラス海峡、ルメリ・ヒサール

2009-11-01 15:29:49 | 

 正味6日のトルコツアーの最終日は、ボスフォラス・クルージングとグランドバザールの買い物。この日も好天に恵まれ、紺碧の空に白雲の浮かぶもとで快適なクルージングを楽しんだ。何百人も乗れそうな船をわが23人で借り切り、広い甲板から船室、船首から船尾まで、みんなはしゃぎまわって楽しんだ。
 
ボスフォラス海峡とかダーダネルス海峡とか、世界史や地理の時間に聞いてはいたが正確な位置すら覚えていなかった。アジアとヨーロッパにまたがるイスタンブールの町が、そのボスフォラス海峡で分けられていると知った後も、せいぜい数キロの長さの海峡かと思っていたが、黒海とマルマラ海をつなぐ実に30キロに及ぶ海峡である。イスタンブールは、そのほんの南端に位置するだけで、われわれのクルージングも南の三分の一を往復したに過ぎない。
          

 この海峡には、日本の技術と技術員、それに円借款などが多大な貢献をしたと伝えられる二つの大橋が架けられている。その第二ボスフォラス(ファティフ・メフメット)大橋の西側の袂に、あの「ルメリ・ヒサール(要塞)」が聳えている。

   

 ルメリ・ヒサール!
 
塩野七生の『コンスタンティノープルの陥落』を読んで、トルコに行ったらこれだけは見よう、と思った。それは、コンスタンティノープル陥落を決定付けたのはこの要塞にあった、と思われたからである。
 
オスマントルコの若き皇帝メフメットⅡ世は、コンスタンティノープル攻略の野望を胸にこの要塞を築く。攻略開始のちょうど一年前、14523月のこと。それからわずか139日で完成したと伝えられる。ビザンティン帝国が生き延びるためには、要塞着工を阻止して直ちにオスマンとルコを叩くべきであったろう。しかしその力は既に無く、何がしかの交渉はするが結局は座視するしかなかった。勝負はここに決まり、オスマン側はボスフォラス海峡の統治権を手にする。小麦をはじめ黒海沿岸の膨大な資源を運ぶ船は、全て砦に止められ高い交通料を取り上げられ、従わない船には容赦なく砲弾が打ち込まれた。

 歴史は新しい扉を開いた。1453年5月29日コンスタンティノープル陥落、オスマントルコ帝国が誕生したのである。
                          
   


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