旅のプラズマ

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ミャゴラトーリ『椿姫』は、なぜ感動をもたらしたか?

2022-08-04 14:37:02 | 文化(音楽、絵画、映画)



 この公演はなぜ感動を与えたか? それは、制作者(首藤史織)と演出者(大澤恒夫)の新解釈に基づく演出にあったのではないか?
 大澤氏の、チラシ裏面の解説によれば、原作者アレクサンドロ・デュマ・フィスは、自分の実体験としてこの小説を書いたが、それは、交際していた娼婦を最後は見捨て、その死に際にも会わなかったという結末であった。しかしデュマは、彼女の気高い愛を想起するにつけ、あまりにも哀れな結末を悲しみ、翌年戯曲化した際、死の直前に恋人と再開させ、彼は彼女を抱きしめ「神よ、この人をあなたぼ身元へ」と祈るシーンに書き改める。そこには、ヴィオレッタというこの女性を、娼婦と見るより純愛に生きた女性と見るデュマの目があった。
 ところが後年、歌劇王ヴェルディがこの作品をオペラ化する際、もちろん結末は二人の再会のシーンとし、神へ導く荘厳な曲で謳い上げたが、このオペラの題名を『ラ トラヴィアータ(道を踏み外した女)』として、再び娼婦色を漂わせた。
 演出者大澤氏は、この経過を、原典をたどりながら追跡し、「椿姫は確かに娼婦ではあったが、トラヴィアータであったか?」をテーマにこの公演に取り組んだ。そして大澤氏がチラシの解説を「このオペラは究極のハッピーエンドではないかと思う」と結んでいるように、制作者も演出者も、デュマの目でこのオペラを追った。
 そこに感動の源があったのではないか?(つづく)

  


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