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旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

テロにどう対処すればいいのか?

2015-02-05 14:48:20 | 政治経済

 

 「イスラム国」なるテロ集団事件は最悪の事態を迎え、なお日本をより危険な方向に向かわせよとしているようだ。後藤さんの殺害、ヨルダン人パイロットの惨殺、またヨルダン側による死刑囚の死刑実行と、事態は悲劇的方向へと突き進んでいる。
 人間のやることとは思えないテロ集団の行為に、許しがたい怒りを覚える。その怒りは、相手が常識では話し合えない無法なテロ集団であるだけに絶望的でさえある。とはいえこれほどの危険にさらされて放置はできない。どうすればいいのだろうか?

 安倍首相は、1日の関係閣僚会議で、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせる」という声明を発した。この「罪を償わせる」という言葉は、翌日の参院予算委員会で「法によって裁かれるべきと考える」と修正されたようだが、当初の発言は国際社会にかなりの波紋を投げかけたようだ。
 ニューヨーク・タイムス紙は、「安倍首相は日本の平和主義から逸脱し、復讐を誓う」という見出しで、「戦後の平和主義を捨てて、世界でより積極的な役割を日本に担わせようとしている」と述べ、ワシントン・ポストも、安倍首相が集団的自衛権の行使を目指していることを指摘し、「日本の国家主義者らは人質事件を軍事的強化の口実に使うかもしれない」という識者の声を紹介したという。(5日付赤旗一面)
 日本が戦後70年にわたって堅持してきた平和主義、特に戦力と交戦権の放棄をうたった憲法9条は、(実際にはかなりの戦力を持っているが)、想像以上に世界各国に評価されているのではないか? 世界平和の一つの要石と思われているのではないか? その要を外すことに、諸国は不安を感じているのではないか?
 力こそ平和への抑止力、とよく言われる。しかし、力は本当に抑止力になってきたのか? アメリカは世界を何十回も破壊できるほどの核兵器を持つが、9.11テロを抑止できなかった。イラク戦争、パキスタン戦争を繰り返すが、テロを抑止できず、むしろ恐怖におびえ、一層の戦力強化に向かっている。力(戦力)は力の報復を呼び、それを繰り返して一層大きな戦争への道につながる…、これが歴史の教訓ではないのか?
 力ではなく無力(憲法9条の平和主義)こそが平和の保証ではないのか? テロも、この絶望的な相手でさえも、幅広い国際的世論の力で、その原因たる貧困、差別の問題を含め、要因を取り除き根絶していくしかないのではないのか。

 このようなことを言うと、必ず、書生論、理想主義、平和ボケという言葉が返ってくる。書生論が何故悪いのか? 理想論が何故悪いのか? 人類は理想を求めてこそ生きてきたのではないのか? ボケと言われるほど平和にボケなければ、世界平和など来ないのではないのか?

  


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