旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

演出家や監督により創り出されるものはどう違うのか?

2014-06-27 15:10:45 | 文化(音楽、絵画、映画)


 娘がオペラ『ラ・ボエーム』の公演に取り組んでいる。今度は従来と違って、オペラ界の鬼才と言われる岩田達宗氏の演出を得て、“小劇場演劇的オペラ”ともいうべき新しいジャンルを生み出すのだと意気込んでいる。
 そして、毎日岩田氏のもとで練習に励む歌手たちの演技を観て、「泣けて泣けて仕方がない。(主人公の)ミミが可哀そうで…」と言いながら帰ってくる。私は、「観客が泣くならまだしも、演技をしているお前たちが泣いていたんじゃあ仕方ないではないか」と言うのだが、演技をつける練習で泣かされるほど岩田氏の演出は違うというのだ。
 娘は、『ラ・ボエーム』について音大時代から数限りなく接しているはずだ。その同じボエームが演出する人で全然違う。岩田氏は、一人一人の登場人物について、その生い立ちを含めて自分なりの人間像を描きあげており、その人物たちに物語を構成させる。出演者が“その人物”に成れるまで、語りかけ演技をつけていくという。
 物語の筋も登場人物の名前も全て同一だが、生まれた『ラ・ボエーム』は全く違うというのだ。『椿姫』を見ても『蝶々夫人』を見ても、娘は「主人公が可哀そうだ」と言っていつも泣いていた。しかし今度の「練習時からの涙」はちょっと質が違うようだ。7月24、25日の公演(「会場は座・高円寺」 )を楽しみにしている。

 交響曲にしても、カラヤンだ、小澤征爾だと言って指揮者を選んで聞きに行く。映画でも黒沢だ、小津だ、山田洋次だとなる。サッカーにしても野球にしても、ルールも使用球も同じなのに監督により別物のチームが生まれる。高校野球など監督によって天と地の差が出てくる。
 演劇も演出の力によるのだろう。演出家の知識、経験、生き様、哲学というようなものが、同じ題材を全く別のものに創り上げていくのだろう。


投票ボタン

blogram投票ボタン