小倉競輪場で行われた昨晩の第61回競輪祭の決勝。並びは吉田‐平原‐諸橋の関東,清水‐松浦‐柏野の中国で木暮と和田と坂口は単騎。
松浦がスタートを取って清水の前受け。4番手に和田,5番手に吉田,8番手に坂口,最後尾に木暮で周回。残り3周の最終コーナーから清水が誘導との車間を開けて後ろを警戒。残り2周のホームに入って吉田が清水を叩きにいくと,清水が突っ張りました。先行争いになるのかと思いましたが,バックで吉田が清水を叩くと清水は引かず,平原の内で競りにいって打鐘。その後ろも内の松浦と外の諸橋で競りになり,その後ろは柏野‐和田‐木暮‐坂口となりました。競りは残り1周のホームを過ぎるまで続き,その後のコーナーで平原が外に浮き,清水が奪取。清水はその勢いで発進。松浦の後ろにはうまく諸橋がスイッチし,この3人が前に。和田も最終コーナーで捲ってきましたが,諸橋に牽制されて失速。車間を開けていた松浦が直線で清水を差して優勝。清水が半車身差の2着に残って中国のワンツー。諸橋が4分の3車身差の3着に流れ込みました。
優勝した広島の松浦悠士選手は前回出走の松戸のFⅠの完全優勝に続いて連続優勝。9月の富山記念など記念競輪は3勝していますがビッグは初制覇。記念競輪を最初に勝ったのが昨年で,その昨年からトップクラスでの頭角を現してきた選手。ここは清水というよい目標を得て,吉田と清水では清水の力の方が上なので,チャンスはあるとみていました。吉田に先行されて平原が発進していく展開でも,清水の力ならなんとかできるのではないかとみていたので,番手を奪いにいったのは意外だったのですが,単騎の選手が3人もいたことを踏まえれば,むしろいい作戦だったのかもしれません。たぶん平原は競られることをあまり想定していなかったと思われますので,作戦勝ちといっていいのではないでしょうか。
この概要から,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の七八節が,スピノザの哲学に則する場合にどう記述されるべきであったかが理解できます。
スピノザは精神mensのうちにひとつの観念ideaしかないならという,現実的にあり得ない仮定を立てていますが,この仮定から結論できることは,その精神のうちに疑惑dubitatioが生じることはないということです。もしその観念が真の観念idea veraであった場合,精神は確実性certitudoを有するので,疑惑の生じようがありません。一方,その観念が誤った観念idea falsaであった場合,精神はそれについて確実であることはできませんが,疑惑を有する積極的な理由もありません。精神は真の観念によっては疑惑を有することができないので,疑惑を有するならそれは誤った観念によってですが,ひとつの誤った観念からは疑惑は生じ得ず,ふたつ以上の誤った観念が比較されることによって,疑惑が生じ得るからです。
次に,確実性についていえば,それは観念がひとつしかないかふたつ以上あるかということはまったく関係ありません。これに関係するのは,精神のうちに真の観念があるかないかです。もし精神のうちにひとつの観念しかないとしても,それが真の観念でありさえすれば,精神はそれについて確実性を有することができます。逆に,精神のうちにふたつ以上のいくら多くの観念が存在するとしても,その中に真の観念が存在しないなら,いい換えればそのすべてが誤った観念であるなら,精神は何の確実性も有することはできません。
最後に,僕はここではスピノザが疑惑を確実性の反対概念と混同したと推測しましたから,そのような意味での不確実性についていえば,精神のうちにいくら多くの観念があっても,そのすべてが誤った観念であれば精神が不確実性を有することができないという点では確実性と同様であり,したがってこの場合も精神のうちにいくつの観念が存在するかということとはまったく関係ありません。また,真の観念がひとつだけあるなら,確実性だけがあり不確実性はありませんが,潜在的には不確実性を有しているといってもいいと考えます。そのときに誤った観念が発生すると仮定すれば,それに対する不確実性を有することができるからです、
松浦がスタートを取って清水の前受け。4番手に和田,5番手に吉田,8番手に坂口,最後尾に木暮で周回。残り3周の最終コーナーから清水が誘導との車間を開けて後ろを警戒。残り2周のホームに入って吉田が清水を叩きにいくと,清水が突っ張りました。先行争いになるのかと思いましたが,バックで吉田が清水を叩くと清水は引かず,平原の内で競りにいって打鐘。その後ろも内の松浦と外の諸橋で競りになり,その後ろは柏野‐和田‐木暮‐坂口となりました。競りは残り1周のホームを過ぎるまで続き,その後のコーナーで平原が外に浮き,清水が奪取。清水はその勢いで発進。松浦の後ろにはうまく諸橋がスイッチし,この3人が前に。和田も最終コーナーで捲ってきましたが,諸橋に牽制されて失速。車間を開けていた松浦が直線で清水を差して優勝。清水が半車身差の2着に残って中国のワンツー。諸橋が4分の3車身差の3着に流れ込みました。
優勝した広島の松浦悠士選手は前回出走の松戸のFⅠの完全優勝に続いて連続優勝。9月の富山記念など記念競輪は3勝していますがビッグは初制覇。記念競輪を最初に勝ったのが昨年で,その昨年からトップクラスでの頭角を現してきた選手。ここは清水というよい目標を得て,吉田と清水では清水の力の方が上なので,チャンスはあるとみていました。吉田に先行されて平原が発進していく展開でも,清水の力ならなんとかできるのではないかとみていたので,番手を奪いにいったのは意外だったのですが,単騎の選手が3人もいたことを踏まえれば,むしろいい作戦だったのかもしれません。たぶん平原は競られることをあまり想定していなかったと思われますので,作戦勝ちといっていいのではないでしょうか。
この概要から,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の七八節が,スピノザの哲学に則する場合にどう記述されるべきであったかが理解できます。
スピノザは精神mensのうちにひとつの観念ideaしかないならという,現実的にあり得ない仮定を立てていますが,この仮定から結論できることは,その精神のうちに疑惑dubitatioが生じることはないということです。もしその観念が真の観念idea veraであった場合,精神は確実性certitudoを有するので,疑惑の生じようがありません。一方,その観念が誤った観念idea falsaであった場合,精神はそれについて確実であることはできませんが,疑惑を有する積極的な理由もありません。精神は真の観念によっては疑惑を有することができないので,疑惑を有するならそれは誤った観念によってですが,ひとつの誤った観念からは疑惑は生じ得ず,ふたつ以上の誤った観念が比較されることによって,疑惑が生じ得るからです。
次に,確実性についていえば,それは観念がひとつしかないかふたつ以上あるかということはまったく関係ありません。これに関係するのは,精神のうちに真の観念があるかないかです。もし精神のうちにひとつの観念しかないとしても,それが真の観念でありさえすれば,精神はそれについて確実性を有することができます。逆に,精神のうちにふたつ以上のいくら多くの観念が存在するとしても,その中に真の観念が存在しないなら,いい換えればそのすべてが誤った観念であるなら,精神は何の確実性も有することはできません。
最後に,僕はここではスピノザが疑惑を確実性の反対概念と混同したと推測しましたから,そのような意味での不確実性についていえば,精神のうちにいくら多くの観念があっても,そのすべてが誤った観念であれば精神が不確実性を有することができないという点では確実性と同様であり,したがってこの場合も精神のうちにいくつの観念が存在するかということとはまったく関係ありません。また,真の観念がひとつだけあるなら,確実性だけがあり不確実性はありませんが,潜在的には不確実性を有しているといってもいいと考えます。そのときに誤った観念が発生すると仮定すれば,それに対する不確実性を有することができるからです、
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