昨日,オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたコーフィールドカップGⅠ芝2400mに2頭の日本馬が出走しました。
フェイムゲームは1番枠からの発馬ということもあり,中団やや後ろ寄りのインからのレース。じっとしていたので,直線に入る辺りではだいぶ位置を下げていました。ホッコーブレーヴの方は前半はフェイムゲームより少し前。こちらは15番枠からの発走でしたので必然的に外。ただ,発走直後から行きたがっていたように見えました。向正面で外から進出して位置取りを上げたのはそうした影響があったからかもしれません。直線も外からの競馬となりましたが,さすがに脚に余裕はなく,10着。フェイムゲームの方は直線少しだけ外に出て,それなりに脚は使ったものの,前に届くといった競馬ではなく,6着でした。
フェイムゲームは長い距離で馬群を割ったときに最も強さを発揮するので,馬群がタイトになりやすい海外のレースには適性があるかもしれないと考えていました。なのでこういうレースでよかったとは思いますが,直線を向いたところでの位置が後ろ過ぎました。距離が伸びるのは絶対にプラスなので,予定通りにメルボルンカップを使えるなら,もう少しいい勝負ができる筈だと思います。ホッコーブレーヴは能力面ではフェイムゲームより下と思われるので,フェイムゲームが6着なら10着で順当という気はします。こちらも距離延長のマイナス面は少ないでしょうから,有力馬が長距離を苦にするようなら,今回以上の結果もあり得るでしょう。
書簡の最後の方でステノNicola Stenoは,神Deusや精神mensと身体corpusに関するカトリック共同体にずっと保持され続けてきた原理を真の原理であると信じたいとし,この原理に従う人びとの神聖な生活ぶりが,その原理が真verumであることを証明しているという主旨のことを書いています。ステノが本当にそう思い込んでいたのか,あるいは意図的にこのような記述にしたのかは何ともいえませんが,実際のステノの精神のダイナミズムはこれとは違っていたと僕は考えています。ステノにあったのはおそらく真理veritasを知りたい,正確にいえばステノ自身が確信できる事柄を知りたいという欲望cupiditasだったのであり,カトリック信者の神聖な生活が,ステノの確信に値したということであったと思われます。
さらにステノはその少し前の部分で,スピノザが確実性certitudoというとき,それは証明的確実性,これは第二種の認識cognitio secundi generisによる確実性のことを意味するといえますが,そういう確実性だけを念頭に置いていて,信仰fidesの確実性を知らないと批判しています。この信仰の確実性を証明するのが,カトリック信者の神聖な生活であったわけです。したがってステノがいう信仰の確実性というのは,第三種の認識cognitio tertii generisに類するような認識ではなく,ステノ自身が確信できるような事物の表象imaginatioであったことになります。これはステノが,カトリックの原理が真であるということの証明Demonstratioに,信者の神聖な生活を援用していることからより明らかだといえます。
ですがスピノザにとってステノが確信していた確実性は,何ら確実なものではありません。これは虚偽と誤謬が異なるということに注意するなら,容易に理解できる筈です。表象は混乱した観念idea inadaequataであり虚偽falsitasです。しかしそれ自体では誤謬errorではありません。しかしもしも表象を真理と認識するcognoscereなら,この認識は誤謬です。第二部定理三五により,この誤謬は何らかの認識の欠乏privatioを含みます。この場合には,虚偽が虚偽であるということの認識,いい換えれば確実性それ自体の不足privatioと考えても構いません。なので誤謬である事柄をなお真理であると思い込むのは,虚偽が虚偽であることを疑わないというだけのことなのです。他面からいえば,確実性とは疑惑dubitatioの欠乏ではないのです。
フェイムゲームは1番枠からの発馬ということもあり,中団やや後ろ寄りのインからのレース。じっとしていたので,直線に入る辺りではだいぶ位置を下げていました。ホッコーブレーヴの方は前半はフェイムゲームより少し前。こちらは15番枠からの発走でしたので必然的に外。ただ,発走直後から行きたがっていたように見えました。向正面で外から進出して位置取りを上げたのはそうした影響があったからかもしれません。直線も外からの競馬となりましたが,さすがに脚に余裕はなく,10着。フェイムゲームの方は直線少しだけ外に出て,それなりに脚は使ったものの,前に届くといった競馬ではなく,6着でした。
フェイムゲームは長い距離で馬群を割ったときに最も強さを発揮するので,馬群がタイトになりやすい海外のレースには適性があるかもしれないと考えていました。なのでこういうレースでよかったとは思いますが,直線を向いたところでの位置が後ろ過ぎました。距離が伸びるのは絶対にプラスなので,予定通りにメルボルンカップを使えるなら,もう少しいい勝負ができる筈だと思います。ホッコーブレーヴは能力面ではフェイムゲームより下と思われるので,フェイムゲームが6着なら10着で順当という気はします。こちらも距離延長のマイナス面は少ないでしょうから,有力馬が長距離を苦にするようなら,今回以上の結果もあり得るでしょう。
書簡の最後の方でステノNicola Stenoは,神Deusや精神mensと身体corpusに関するカトリック共同体にずっと保持され続けてきた原理を真の原理であると信じたいとし,この原理に従う人びとの神聖な生活ぶりが,その原理が真verumであることを証明しているという主旨のことを書いています。ステノが本当にそう思い込んでいたのか,あるいは意図的にこのような記述にしたのかは何ともいえませんが,実際のステノの精神のダイナミズムはこれとは違っていたと僕は考えています。ステノにあったのはおそらく真理veritasを知りたい,正確にいえばステノ自身が確信できる事柄を知りたいという欲望cupiditasだったのであり,カトリック信者の神聖な生活が,ステノの確信に値したということであったと思われます。
さらにステノはその少し前の部分で,スピノザが確実性certitudoというとき,それは証明的確実性,これは第二種の認識cognitio secundi generisによる確実性のことを意味するといえますが,そういう確実性だけを念頭に置いていて,信仰fidesの確実性を知らないと批判しています。この信仰の確実性を証明するのが,カトリック信者の神聖な生活であったわけです。したがってステノがいう信仰の確実性というのは,第三種の認識cognitio tertii generisに類するような認識ではなく,ステノ自身が確信できるような事物の表象imaginatioであったことになります。これはステノが,カトリックの原理が真であるということの証明Demonstratioに,信者の神聖な生活を援用していることからより明らかだといえます。
ですがスピノザにとってステノが確信していた確実性は,何ら確実なものではありません。これは虚偽と誤謬が異なるということに注意するなら,容易に理解できる筈です。表象は混乱した観念idea inadaequataであり虚偽falsitasです。しかしそれ自体では誤謬errorではありません。しかしもしも表象を真理と認識するcognoscereなら,この認識は誤謬です。第二部定理三五により,この誤謬は何らかの認識の欠乏privatioを含みます。この場合には,虚偽が虚偽であるということの認識,いい換えれば確実性それ自体の不足privatioと考えても構いません。なので誤謬である事柄をなお真理であると思い込むのは,虚偽が虚偽であることを疑わないというだけのことなのです。他面からいえば,確実性とは疑惑dubitatioの欠乏ではないのです。
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