新年初の大レースとなる第58回川崎記念。
外からきれいに発馬を決めたフリオーソの逃げ。カネヒキリが2番手でマークし,やや掛かり気味に3番手のインがサクセスブロッケン。その後ろにブルーコンコルド,ボランタス,ボンネビルレコードの追走。最初の1000メートルは63秒8。これはさすがにスローペース。
結果的に上位の着順と道中の並びが入れ替わったのは,カネヒキリが直線でフリオーソを差しただけ。カネヒキリが優勝。半馬身差の2着にフリオーソが粘り,3馬身とやや水を開けられましたがサクセスブロッケンも3着を確保。きわめて順当な決着に終りました。
優勝したカネヒキリは昨年暮れのジャパンカップダート,東京大賞典,そしてここと大レース3連勝で6勝目。ここはスムーズに逃げたフリオーソを大名マーク。相手もある程度まで楽をできたのでややてこずった感もありますが,着差以上に楽な勝ち方だったといえるのではないでしょうか。父はフジキセキ。
鞍上はフランスのクリストフ・ルメール騎手で管理するのは角居勝彦調教師。共に東京大賞典に続く大レース制覇で,ルメール騎手は一昨年以来2度目,角居調教師は初の川崎記念優勝となっています。
2着と3着は少し開きましたが,力の差があるというわけではなく,スムーズにレースができた方が先着できるという関係にあるのではないでしょうか。
もちろん不可能の場合にも,第四部定理一は必然の場合と同様に成立するわけですから,たとえばAに関してそれが不可能であるという真の観念がある人間の精神のうちにあるとしても,ただこれだけのことによって,Aの想像ないしは表象というものがこの人間の精神のうちから排除されるというものではありません。むしろたとえAが何らかの意味で不可能であるということをある人間がこのような意味で知っていたとしても,Aが必然であるという認識はこの人間の精神のうちには絶対に生じないでしょうが,Aが可能であるとか,Aが偶然であるとかいった表象は,この人間の精神のうちに生じる場合があるでしょう。ただこの場合,Aが不可能であるということをこの人間が知っていると仮定されているわけですから,虚偽と誤謬との関係でいえば,この人間の精神の一部が虚偽によって構成されていることは間違いありませんが,この虚偽が誤謬であるということは絶対にないということになります。
これらのことから理解できるように,人間が何らかのものを想像するという場合には,それはある事物が必然であるとか不可能であるとかいう観念からは生じないということになります。いい換えればそれは別の原因から生じるということになります。もっとも,このこと自体は第二部定理四〇からも明らかであるといえるかもしれません。想像は表象であり,表象は混乱した観念ですから,それが十全な観念あるいは真の観念から生じることはないからです。しかしここでは,ある混乱した観念が生じてくる原因というものを,もっと具体的に考えてみるために,もう少し別の角度からこのことを掘り下げていこうと思います。
外からきれいに発馬を決めたフリオーソの逃げ。カネヒキリが2番手でマークし,やや掛かり気味に3番手のインがサクセスブロッケン。その後ろにブルーコンコルド,ボランタス,ボンネビルレコードの追走。最初の1000メートルは63秒8。これはさすがにスローペース。
結果的に上位の着順と道中の並びが入れ替わったのは,カネヒキリが直線でフリオーソを差しただけ。カネヒキリが優勝。半馬身差の2着にフリオーソが粘り,3馬身とやや水を開けられましたがサクセスブロッケンも3着を確保。きわめて順当な決着に終りました。
優勝したカネヒキリは昨年暮れのジャパンカップダート,東京大賞典,そしてここと大レース3連勝で6勝目。ここはスムーズに逃げたフリオーソを大名マーク。相手もある程度まで楽をできたのでややてこずった感もありますが,着差以上に楽な勝ち方だったといえるのではないでしょうか。父はフジキセキ。
鞍上はフランスのクリストフ・ルメール騎手で管理するのは角居勝彦調教師。共に東京大賞典に続く大レース制覇で,ルメール騎手は一昨年以来2度目,角居調教師は初の川崎記念優勝となっています。
2着と3着は少し開きましたが,力の差があるというわけではなく,スムーズにレースができた方が先着できるという関係にあるのではないでしょうか。
もちろん不可能の場合にも,第四部定理一は必然の場合と同様に成立するわけですから,たとえばAに関してそれが不可能であるという真の観念がある人間の精神のうちにあるとしても,ただこれだけのことによって,Aの想像ないしは表象というものがこの人間の精神のうちから排除されるというものではありません。むしろたとえAが何らかの意味で不可能であるということをある人間がこのような意味で知っていたとしても,Aが必然であるという認識はこの人間の精神のうちには絶対に生じないでしょうが,Aが可能であるとか,Aが偶然であるとかいった表象は,この人間の精神のうちに生じる場合があるでしょう。ただこの場合,Aが不可能であるということをこの人間が知っていると仮定されているわけですから,虚偽と誤謬との関係でいえば,この人間の精神の一部が虚偽によって構成されていることは間違いありませんが,この虚偽が誤謬であるということは絶対にないということになります。
これらのことから理解できるように,人間が何らかのものを想像するという場合には,それはある事物が必然であるとか不可能であるとかいう観念からは生じないということになります。いい換えればそれは別の原因から生じるということになります。もっとも,このこと自体は第二部定理四〇からも明らかであるといえるかもしれません。想像は表象であり,表象は混乱した観念ですから,それが十全な観念あるいは真の観念から生じることはないからです。しかしここでは,ある混乱した観念が生じてくる原因というものを,もっと具体的に考えてみるために,もう少し別の角度からこのことを掘り下げていこうと思います。
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