スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

北条早雲杯争奪戦&ネコババの件

2020-08-30 19:12:42 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは吉沢‐佐藤の東日本,松井‐郡司‐和田の神奈川,松浦‐東口の西日本。
 郡司がスタートを取って松井の前受け。4番手に吉沢,6番手に松浦で周回。残り3周のホームから松浦が上昇。前を叩きにはいかず,郡司の横で併走。そのまま残り2周を迎えて松井が徐々にペースアップ。郡司と松浦の併走は残り1周のホームまで続きましたが,郡司が番手を死守。バックから吉沢の捲り。これはいいスピードでしたが郡司のブロックに遭って失速。このあおりで佐藤が落車。直線の手前から郡司が自転車を外に持ち出したので,松井と郡司の間を割った和田が伸び,フィニッシュ手前で松井を差して優勝。逃げ粘った松井が半車輪差の2着。3着に入線した郡司は最終周回のバックの走行により失格。和田と郡司の間に進路を取り,4着に入線した松浦が1車身差の3着に繰り上がり。
 優勝した神奈川の和田真久留選手は3戦前の大垣のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2017年11月の防府記念以来の2勝目。このレースは自力のある選手が3人で並んだ地元勢が強力。ということで松浦は分断を狙いにいきましたが,どうしても小回りコースは内で競った方が有利なので,郡司が番手を死守。これは前受けをしたのが功を奏した形で,この時点で地元勢には有利になりました。最終コーナーの郡司の走り方は,和田に進路を開けた面があります。すでに自身に余力が残っていなかったからかもしれませんし,あるいは失格になることを悟っていたからかもしれません。

 医師がネコババ行為に及んだとスぺイクHendrik van der Spyckが証言している部分は,この医師がだれかを特定するのに,研究者によってよく言及される部分です。コレルスJohannes Colerusはスぺイクの証言に基づき,この医師をL.M.と記述しています。スピノザの親友でこの頭文字に該当するのはマイエルLodewijk Meyerです。しかしマイエルがこのような行為に及ぶとは考えられないので,実際はこの医師はシュラーGeorg Hermann Schullerであったとするのが,スピノザの死を看取った医師がシュラーではないかという根拠のひとつとなっています。他面からいえば,研究者の共通認識として,シュラーであればこのような行為に及んだとしても不思議ではないというのがあることになります。もちろんこれは根拠のひとつであって,たとえばシュラーは後にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対し,自分がスピノザの死を看取ったという主旨のことを伝えていて,そうしたこともこの医師がシュラーであったことの根拠のひとつとされます。ただ,ネコババ行為に及んでも不思議ではない人間であると認識されているシュラーのことですから,チルンハウスに対して嘘をつくような人間でもあるということはいえるのであり,確実にこの医師がシュラーであったと断定できるわけではありません。
                                        
 さらに次のような事情が加味されます。
 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaはスぺイクの証言に基づくものですが,スぺイクはコレルスに対して,スピノザに好印象を抱いてもらうための証言をする理由があったと僕はみています。このために,コレルスの伝記は,たとえコレルスが反スピノザに立つ人物であったとしても,全面的に信用してはいけないと僕は考えているのです。したがってこのネコババの件も,スぺイクがスピノザに対して抱いていた印象から,スぺイクが誤って医師がネコババをしたというように認識したという可能性があります。つまり実際は医師は死ぬ前のスピノザの承諾を得てそれらの品を持ち帰っただけかもしれません。例えば形見として小刀をもらうとか,お礼として金を受け取るということがあったとしても何ら不自然ではないからです。ですからこれがスぺイクの勝手な判断であったとしたら,この医師がマイエルであっても不思議ではないことになります。

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