鬱と不安症。これらから、社会不適合障害とも言われ、人と話すのが怖い、そういう気持ちが常にありました。
若いころからそういうのはあり、営業向きと言われてはいて、簡単な交渉事も成就はするものの、成就するまでは不安そのもの。
楽しいことも、辛いことも、何でも不安だし、不用意に、あり得ない事態まで考えてしまう。
それが、会社を持ち、今の仕事をするようになっては、責任がさらなる重しとなります。
さらに、「不器用な」自分が、余計なことをしたり、話したりで、自ら混乱させることも多々あり、そして、それに気づいたときに、自分を責めてしまい、次のことに自信がなくなる。
この余計なこととは、本意でないことや、不実でないことを、さらっと行ってしまい、それがため、相手はそれを信じてしまい、事が複雑になる。
これは相当な病みました。
最近も1つありましたが、ここんところはそれも少なくなり、そういう不安も無くなってます。
ソラナックスという不安症の薬は15年飲みました。これは心を穏やかにもしましたね。
不安が無くなり、堂々とする自分もでてきました。
それまでは自分の不注意や不本意で、災いを呼んでしまう自爆状態。
一つは、大人としての気持ちが足りないから、安易にものを言う。
思ったことを考えずに相手に話しまう。
その場しのぎで言ってしまう。
ADHDの本に、そういう行動例があり、自分だ~と思うものの、そこで初めて気づくのも愚かだが、自分を見つめなおす契機でもありましたね。
薬も効き、不安症のデプロメールは処方箋から消えました。
いろんなことが要因の中、一番は、「ゆとりのなさ」です。
そういう生活を幼少期からしていたこともそうですし、両親がせっかちだから、その遺伝もあるのでしょう。
ADHDは遺伝で生活環境やしつけとは関連無いと言います。反面、心理学者は発育段階の環境などにも起因すると言う人がいます。
これね、矛盾してるのがADHDもある程度は訓練や薬で治ること。脳内分泌の先天的不足とは言われますが、訓練などで治るその理由は、後天的に何かがそうさせていたのでは?と私は考えるものです。
自閉的な先天性の人もいるでしょうが、ADHDと言われる多くの人は環境棋院だと思うんです。
そういうのを学者はADHDとは違うと言いますが、訓練で治ると言うところを考えると、遅れるべき何か条件があるからだと自分は振り返るものです。
どうあれ、努力しないと、病気や症状は治りません。全く望みがないならば、しょうがないにせよ、治ることであるならば、トライするべきですね。
不安症は病気とします。ここは後発的なことも多いいでしょう。だが、これも環境だと思うんですね。
トラウマになることがあればなんでか?
いまーここに気づくことで、多くの心理的な問題には気づくものがあると思います。
まずは自己解析をし、また、何かの「原則」にはとらわれることなく、気づいたことに着目する。こういう事から取り込むと、気づいたら、楽になってたりするかもしれませんね。
自分にお金をかけるのは糸わず、治る何かがあるならば、トライすることが大切でしょう。
しかし、弱者詐欺が必ずあります。ヘッドギアのようなもので、心身が落ち着くとか、そういうのは自分で選ばず、友人などに相談してからですね。