晴れ、ときどき映画三昧

映画は時代を反映した疑似体験と総合娯楽。
マイペースで備忘録はまだまだ続きます。

「火垂るの墓」(08・日) 60点

2015-08-31 16:02:14 | 日本映画 2000~09(平成12~21)

 ・ 黒木和雄の遺志を引き継いだ日向寺監督の戦争悲話。

                   

 自らの戦争体験をもとにした野坂昭如の直木賞受賞・短編小説(68)が原作。すでに高畑勲監督でアニメ化(88)され<一番泣ける映画で二度と見たくない映画>と言われ大ヒットした。

 さらに松島奈々子主演でTVドラマ化(05)され評判を呼んでいて、実写版は相当の期待とハンデを負っての登場。<戦争レクイエム三部作>など反戦ドラマを熱心に映画化していた故・黒木和雄の遺志を継いで愛弟子・日向寺太郎が監督している。

 太平洋戦争末期、神戸の大空襲で中学生の清太(吉武怜朗)と4歳の節子(畠山彩奈)は優しかった母・雪子(松田聖子)を亡くし、西宮の叔母(松坂慶子)の家を頼ってリヤカーで向かう。

 叔母は追い返そうとするが、食料を持ってきた兄妹を見て引き止める。戦禍のなか、兄妹を通して市井の人々が悲惨な暮らしをする姿を、かなり淡々と描いている。

 泣かせるアニメや叔母から見た兄妹のTV版とは違って、清太という少年から見た戦時中の大人の世界が繰り広げられて行くストーリー。

 軍人の家に生まれ比較的恵まれた家庭で育った兄妹が、皮肉にも戦争で孤児となり心から頼れる大人が不在となってしまう。ここでは、叔母が非情な大人の象徴として冷たい仕打ちがエスカレートして憎まれ役となっている。大なり小なり身内を守るための行為は現実のものだったはずだった時代でもあったが・・・。

 松坂慶子は、渋々引き受けた敵役だったが、新境地を拓くキッカケとなった気がする。母親役の松田聖子は7年ぶりの映画出演だったが、話題づくり程度の役割で無難なところ。

 親切な中学の校長・本城(江藤潤)一家は、家を無くした人々が学校で暮らすことを黙認した結果、自炊の火の不始末から校舎を焼失させてしまう。責任を取って一家は自殺するという悲惨な結果に。現在では信じられない行動だが、世間の厳しい目と教育者という立場で家族まで犠牲にする理不尽さが切ない。

 ほかにも若い未亡人(池脇千鶴)の家に入り浸りの病弱な学生(山中聡)は、虚無的な暮らしを晒し純粋な清太を傷つけ、防火訓練を陣頭指揮する町内会長(原田芳雄)らの不興を買う。

 清太は唯一よき理解者だった本条校長を真似て、理想を追って家を出たのだろう。

 東京大空襲のとき母親の背におぶさってB29からの焼夷弾投下を逃げ回り、着物を売ってミルク代に変えたと聴かされた筆者にとって、節子はもしかすると分身だったかもしれない。

 本作は、映画としての出来よりも佐久間ドロップの缶を知っている自分には、キャッスル・イン・ジ・エアのピアノとギターの音とともに、涙なしでは観ることはできない作品でもある。
 

「日本のいちばん長い日」(15・日)70点

2015-08-29 18:22:16 | 日本映画 2010~15(平成23~27)

 ・ 終戦に関わった主要3人をドラマチックに描いた原田眞人監督。

               

 日本人にとって知っておかなければいけない昭和20年(1945)8月15日。同年4月鈴木首相就任から玉音放送された8月15日までを、ドラマチックに描いた終戦70年目を迎えた夏の大作。

 戦争継続を主張する陸軍の総帥・東條秀樹と終結すべしという海軍の元首相・岡田啓介。2人の大論争は戦争末期の象徴でもある。連合軍のポツダム宣言を巡って受諾=降伏か?本土決戦か?に分かれ連日連夜の閣議は紛糾する。

 その間に広島・長崎に相次いで原爆投下され、国体護持のために本土決戦を主張する戦争継続者を如何に抑えるかに苦悩する阿南陸相(役所公司)・鈴木首相(山崎努)と昭和天皇(本木雅弘)の3人にスポットを当てたエンタテインメント・ドラマ。

 監督・脚本の原田眞人は原作「日本のいちばん長い日(決定版)」(半藤利一)に加え、「聖断」昭和天皇と鈴木貫太郎(半藤利一)と「一死大罪を謝す」陸軍大臣阿南惟幾(角田房子)を織り込んだ人間ドラマに仕上げている。

 同名の岡本喜八版(67)は、ナレーション・実写フィルムを前段に取り入れ45年8月14日正午からの24時間を迫力満点なドキュメンタリー風に描いているのに対し、阿南・鈴木と昭和天皇の心情を追いながらの原田版は、昭和天皇のお言葉・お考えが随所に描かれているのが最大の特長。

 岡本版は先代・松本幸四郎が演じていたが、映像では正面からは登場することなくお言葉も極めて少なく、本木演じる天皇との半世紀の隔たりを改めて感じる。本木の好演が本作の胆となった。

 「私の名で始められた戦争が、私の言葉で終わらせるのであれば、ありがたく思う。」という開戦を望まなかった天皇のご意志が画面を通してこれほどハッキリ伝わったのは初めてだろう。

 天皇の神奉者である東條が、軍をサザエの殻に、中身を国民に喩え「サザエの殻を厚くしなければ中身は死んでしまいます。」と進言すると「トルーマン、スターリンがサザエを食すだろうか?捨て去るであろう。」と返されたのは事実の有無は別に、その見識を示されたお言葉として印象に残る。

 
 阿南惟幾は主戦論者・戦争継続論者ではなく、本土決戦・主戦論者と和平論者の2派間で苦悩しつつ和平へ持っていこうとする人物として描かれている。人徳者として陸軍内で評価の高い人物だったが、軍人として有能だったとは言えない人と聞く。明治天皇に殉じた乃木希典と人物像が重なる。

 鈴木貫太郎は戦争終結に命を懸けた最後の首相として描かれ、二二六事件で銃弾を四発受けながら生き残った強者の面影を持つ老獪な人物。最後のご奉公を天皇に請われての登場だった。

 天皇と元侍従長(鈴木)と元侍従武官(阿南)の三名を中心に、その人となりや家族を描きながら玉音放送で終戦宣言した夫々迎えた運命の日。

 本作を観て感じたのは、1歳半で東京大空襲を受けた筆者にとってサスペンス・ドラマとして観るにはとても重いテーマだったこと。

 当時の空気は今では推測しきれないほどで、1億玉砕論が渦巻く時代や畑中少佐(松阪桃李)ら青年将校の反乱事件はなかなか理解できないことだろう。時代は70年経過して、太平洋戦争を実感できないものとなっている。

 今日日本の平和の礎を築いてきたのは、こうした先人たちの愛国心によるもので、後進にも伝えて行くいいキッカケとなった作品でもある。

 開戦に反対だった山本五十六・連合艦隊司令官は有名だが、他にも小野寺信・陸軍少将ストックホルム大使や新庄健吉・米駐在陸軍主計大佐など陸軍にも反戦者がいたが、真珠湾攻撃に突入してしまった。

 邦画界には、これからの世代のためにも<何故無謀な戦争に突入したのか?>をテーマにした作品の映画化を願ってやまない。

 
 
 

「血と怒りの河」(68・米)70点

2015-08-25 11:54:57 | 外国映画 1960~79

 ・ テレンス・スタンプ主演の異色西部劇。

                   

 本場アメリカの西部劇が衰退していた60年代後半、ロナルド・M・コーエン原案・脚本による異色西部劇として登場した本作。

 主演は「コレクター」(65)でナイーヴな青年を演じ一斉を風靡したイギリス人俳優テレンス・スタンプ、監督がイタリア系カナダ人シルヴィオ・ナリッツアーノ、音楽がギリシャ人マノス・ハジタキスという国際色豊かな顔ぶれ。

 白い肌と青い眼の米国人孤児だったアズール(T・スタンプ)は、メキシコの盗賊オルテガ(リカルド・モンタルバン)に息子同様に育てられた。

 独立記念日、オルテガらは国境を越えテキサス開拓民村落を襲うが、オルテガの息子マヌエルが医師モートン(カール・マイデン)の娘ジョアンヌ(ジョアンナ・ペティット)に暴行をしようとするのを観たアズールは思わずマヌエルを射殺する。

 負傷したアズールはモートン親子に手当をされ、閉ざされていた心を徐々に開き農民として生きる決心をする。

 イタリアン・ウェスタンのような風合いでスタートした本作だが、敵役であるはずのオルテガが盗賊でありながら首領としての度量と愛情を兼ね備えた存在感があり、魅力的に描かれている。

 演じたR・モンタルバンの貫録が、モートン医師役のカール・マイデン共々ドラマに重みを持たせてくれる。

 ヒロイン・ジョアンヌを演じたジョアンナ・ペティットは同じ開拓民の若者ジェス(アンソニー・コステロ)の想いを知りながらブルーに一目惚れする芯の強い女性を好演しているが、なんとなく身勝手に見えてしまうのが難点。
 
 河を挟んでのテキサス開拓民VSメキシコ盗賊の争いがハイライトだが、アズールことブルーの特殊な生い立ちに苦悩する姿を通して開拓民とメキシコ人の狭間で揺れる心情が描かれ、一風変わった西部劇となった。

 アクションシーンは「ベンハー」のヤキマ・カナットが担当している。葦原での馬の疾走シーンや西部劇には珍しい空撮による俯瞰のショットが迫力満点。

 原題「ブルー」が示すように良くも悪くもT・スタンプの魅力に委ねた作品で、育ての親に刃向うブルーの複雑な心境にどう決着するか?というエンディングは、正統派西部劇とは違った趣きで彼の個性に見合ったものだった。

「8月の狂詩曲」(91・日)70点

2015-08-24 08:20:44 | 日本映画 1980~99(昭和55~平成11) 
 ・ 悲しいけれど美しい、黒澤明・晩年の映像美。

                   

 村田喜代子の芥川賞受賞作「鍋の中」をもとに、黒澤明監督が脚本化した29作目の作品。

 原作は17歳の<たみ>が主人公で原爆被災のストーリーは登場しないが、本作では「原爆被災体験した長崎の祖母と4人の孫たちとの交流を描きながら、反核をハッキリと表現している。」

 長崎郊外にひっそりと暮らしている鉦(村瀬幸子)のもとへ、ハワイで成功し大富豪となった兄・錫二郎から是非死ぬ前に会いたいという手紙が来た。

 大家族だった鉦は兄弟全部を思い出せないほどで、ハワイには息子・忠雄(井川比佐志)と娘・良江(根岸季衣)が代わりに行っている。

 その間疎遠だった孫たち・<縦男(吉岡秀隆)、たみ(大寶智子)、みな子(鈴木美恵)、信二郎(伊崎允則)>が鉦と一緒に過ごすこととなった。

 都会生活に慣れ親しんだ孫たちは祖母の作る田舎料理は口に合わず、孫たちが買出しのために長崎の街へ行く。そこで視た戦争の傷跡を知って、戦争や原爆が如何に悲惨だったかを理解していく・・・。

 ハリウッドの大スター、リチャード・ギアが片言の日本語で出演している。どう見ても日系には見えない甥のクラーク役で、親日家で黒澤ファンであるR・ギアの出番も思ったより多い。

 彼が鉦に向かって「すみませんでした。」「私たち悪かった。」というセリフが米国で<原爆投下を謝った>ということが話題となって一波乱あったが、<鉦の夫が被爆死したことを、錫二郎一家が知らなかったから誤ったので、原爆投下ではない。>というのが正式見解だ。

 前作「夢」(90)でも、かつての「いきものの記録」(55)でも原爆への恐怖を訴えている黒澤。鉦の台詞に「戦争に勝つためには人は何でもする。何れは己を滅ぼす。」とある。筆者はクラークが鉦に謝ったのは、黒澤の確信犯ではないか?と邪推している・・・。

 黒澤の脚本は類型的な人物像と道徳的・教訓的な展開に違和感があって、観ていて衰えたな~と思わずにはいられない。かつて小国英雄・菊島隆三・橋本忍らとの共同脚本で成立していた黒澤作品は、晩年補佐する脚本家がいない孤独さを如実に表わしている。

 しかし、その欠点を承知で観る映像の素晴らしさは、衰えるどころか益々冴え亘って見えた。鉦が住む農家や念仏堂、長崎空港がセットである驚きと、焼け残ったジャングルジムなどの小道具に手抜きはなく、山間の緑・青い滝壺・蟻とバラ・月など黒澤リアリズムは究極の美しさ。

 会話のない老人同士のカット、山間のピカの眼は黒澤が描いた絵コンテが目に浮かぶ。

 そして最大の見どころは、大雨の中傘を手に走る鉦とそれを追う子供や孫のラストシーン。

 ミスマッチでは?と思うシューベルトの野ばらがとても効果的なシーンはまさに渾身のエピローグだ。

 <それは涙ぐましいが微笑ましく、恐ろしいが爽やかで、悲しいけれど美しい。>

 

「日本のいちばん長い日」(67・日)80点

2015-08-19 15:56:06 | 日本映画 1960~79(昭和35~54)

 ・ 終戦70年に最も相応しいドキュメンタリー風戦争ドラマ。

                  

 大宅壮一(実際は半藤利一)のノンフィクション小説を、東宝が創立35周年記念オールスター・キャストで映画化。

 監督は戦争アクションものを得意とした岡本喜八。橋本忍の脚本は45年8月14日正午から15日正午まで、日本の軍部や政府内部の中枢機関がどのような動きだったかが順を追ってドラマチックに描かれていて、まるでドキュメンタリーのような緊迫感ある味わい。

 モノクロで描かれた157分は、まさに戦後70年目に最も相応しい戦争ドラマだ。

 7月26日早朝日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が海外で傍受され、翌日官邸で緊急会議が開かれる。阿南陸相の強硬な反対により、会議は紛糾し、結論は持ち越された。

 広島に原爆投下、ソ連参戦、長崎原爆投下と事態は益々悪化の一途を辿り、このままだと本土決戦か?という10日、政府は天皇の大権に変更がないことを条件に受諾する旨、スイス・スウェーデン日本公使へ通知。

 12日、連合国側の回答は天皇の地位条項にあるSubjyect Toの解釈が<隷属か制限か>で大論争となる。

 仲代達矢のナレーションで始まるこのドキュメンタリー・フィルムを交えた20分余りのプロローグは、日本人なら目に焼き付いておかなければならないシーン。

 8月14日特別御前会議で、天皇は東郷外務大臣(宮口精二)の意見に賛同し終戦を決意。

 ここから長い1日が始まる。大半の兵力を失った海軍は兎も角、100万の兵力を抱えた陸軍は戦闘体制は崩れていない。本土決戦で勝利してから有利な和平に持ち込みたいという意見が大勢だった。

 ご聖断が下った後、もっとも厄介なのは終戦反対派の陸軍青年将校たちのクーデター計画を抑えること。

 海軍育ちで二二六事件で命を狙われた鈴木貫太郎首相(笠智衆)、阿南陸相(三船敏郎)は気心が知れた中、お互い苦しい胸の内を知りながらご聖断を仰がなければ物事が進まないという辛さを共有していた。

 あくまで終戦を果たしその責任を背負った鈴木と陸軍の創意を担った阿南。阿南を過度に英雄扱いすることをギリギリで避けながら、2人の苦悩は対照的に描かれている。

 ドラマは血気に逸る将校たちの動きを追いながら、中枢人物以外に終戦という幕引きに携わった人々がどのように行動したか?が緊迫感をもって描かれる。

 官邸、宮内省、侍従、日本放送協会などで実務に携わる人々の生死を懸けての行動が、軍部の愛国心とは違った愛国心によって、15日に終戦を迎えることとなったのだ。

 岡本の卓越した編集技術、俳優たちの適格な演技と相俟って、見事な群像劇に仕上がっている。

 あまりにも遅きに失した感は否めないが、広島・長崎の原爆被災、東京など大都市爆撃、沖縄の激戦など多大な犠牲を負いながら、最悪の本土決戦を避け国体維持を果たした玉音放送。

 自刃した阿南陸相やクーデターの首謀者畑中少佐(黒沢年男)が、戦後の復興を見たらどんな想いだったろうか?

 リメイクが公開中の現在本作を観て、戦争という犯罪は、正義の名のもとに一旦突入すると歯止めの効かない魔物だと改めて知る思いだ。

  
 

 

 

 

「壬生義士伝」(03・日)75点

2015-08-17 16:19:18 | 日本映画 2000~09(平成12~21)

 ・ 泣かせる作家・浅田次郎の時代劇を、手堅く纏めた滝田洋二郎監督。

                  

 浅田次郎原作の長編時代劇を中島丈博が脚本化、相米慎二監督の急死を受けて滝田洋二郎が監督した137分。

 主演・中井貴一、共演・佐藤浩市の映画界サラブレッドが、幕末に翻弄された新撰組志士に扮し初共演したのも話題となった。

 明治32年満州・奉天に旅立つ前夜の町医者の所へ、孫を連れてきた老人。古い写真立ての男に気付いた。男は新撰組の吉村貫一郎(中井貴一)で、老人が思い出を語り出す。

 老人は新撰組でも幹部クラスの斎藤一(佐藤浩市)だった。入隊希望者のみすぼらしい田舎浪人が、組第一の遣い手・永倉新八と互角に渡り合った剣の達人だった。彼が元南部藩下級武士の吉村である。

 原作同様、吉村が若いころに戻って、何故貧しいながら愛する妻・しづ(夏川結衣)と子供たちを残し脱藩したのか?を辿って行く。

 おさな馴染みだった大野次郎右衛門(三宅裕司)が上司であり、恋のライバルだった経緯、脱藩の理由などが綴られ、貧しい田舎侍の哀愁が滲み出ている。

 卑屈なまでに腰が低く守銭奴とまで呼ばれた吉村は、貧困に喘ぐ家族のために脱藩して金を送っていたのだ。人を何人も殺し虚無的な人生を送っていた斎藤には、凡そ正反対の吉村が気に入らず斬ろうとするが、必死の抵抗に会い腕を試したのだと誤魔化す。

 幕府の京都守護を任されていた旗本となったのも束の間、大政奉還後逆賊となった仇花新撰組にいる二人。人となりを知った斎藤は、鳥羽伏見での戦いで一人官軍へ斬り込んでいった吉村へ「死ぬな~!」と絶叫する。

 中井貴一の朴訥とした南部下級武士はミスキャストでは?という予想を覆す名演技。一見冷めた男だが愛情溢れる男を演じた佐藤浩市はハマり役。

 薄幸な女ぬいを演じた中谷美紀、健気な妻夏川結衣も彩りよく、脇を固める共演者も三宅裕司を始めなかなかユニーク。

 塩見三省の近藤、野村祐人の土方、堺雅人の沖田、津田寛治の大久保など本来なら脚光を浴びる役柄を斬新なイメージで適材適所に配している。

 なかでは大野家の中間・佐助に扮した山田辰夫が役得だった。
 
 盛りだくさんなエピソードを盛り込んで、時代を行ったり来たりする長編ストーリーを何とか纏め上げた中島丈博の脚本は、原作の雰囲気を壊さないよう苦慮したようで、後半は整理し切れずテンポがダレてしまった。

 滝田の演出もナレーション・台詞が過剰気味で、久石譲の音楽もこれでもか?という泣かせる映画にエネルギーが費やされたのが惜しい!

 本作は渡辺謙主演のTV新春時代劇(02)と比較されるが、むしろ前年上映された「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督・真田広之主演)を意識していたのはないか?

 この藤沢周平の原作は山形庄内を思わせる海坂藩の下級武士が主人公で、剣の達人ながら家族のために慎ましく暮らす主人公が藩命により人を斬る。境遇が良く似ている南部盛岡の吉村は、<故郷の石割桜のような侍魂を持ち>義の道を選ぶ。

 回顧シーンをコンパクトにして120分ほどだったら、余韻の残る名作になったのでは?と思わずにいられない。

 

 

  

「黒い雨」(89・日)80点

2015-08-14 11:07:14 | 日本映画 1980~99(昭和55~平成11) 

 ・ 巨匠・今村昌平による反戦を声高に叫ばない反戦映画。

               

 ’65年に書かれた井伏鱒二の原作を、繁栄を謳歌していた44年後のバブル絶頂期に巨匠・今村昌平が全編モノクロで映画化している。カンヌ映画祭でグランプリ間違いなしといわれた。

 受賞を逃した理由は政治的判断とのもっぱらの噂であるが、人間ドラマとしての価値は決して落ちていない。

 若いころの今村は筆者にとって脂っこくて苦手な監督だったが、本作は円熟した彼が観られマイベスト作品となった。

 昭和20年8月6日、広島郊外の疎開先にいた高丸矢須子(田中好子)。叔父のもとへ行くため瀬戸内海を小舟で渡っていたとき黒い雨を浴びる。それは原爆投下20分後のことだった。

 広島市街地は阿鼻叫喚の地獄絵図そのもの。かろうじて叔父・閑間重松(北村和夫)と妻・シゲ子(市原悦子)夫婦と巡り会い、重松が働いている工場へ避難する。

 矢須子は、5年後福山市小畠村の大地主だった重松の実家で叔父夫婦・祖母(原ひさ子)とともに暮らしていた。農地解放で先祖代々の土地を切り売りしながら、おさな馴染みの庄吉(小沢昭一)・好太郎(三木のり平)と鯉の養殖を始める。

 それは、ピカと言われた原爆後遺症に鯉の生血とアロエが効くのでは?という理由もあったが、近所の池本屋のおばはん(沢たまき)から、「昼間っから働かず、釣り三昧でイイ身分だ」と言われるなど、世間の目を気にしてのこと。

 重松の最大の悩みは、死んだ妹の娘矢寿子の縁談がなかなか決まらないことだった。それは「ピカに遭った娘」と分かると破談になるため、「被爆者定期健康診断」で異常なしという医師(大滝秀治)の証明は無力だった。

 原爆投下の悲惨な状況を描きながら、その後生き延びた人々の不安な日々を送る過酷な人生をメインに描いている。

 主人公の矢寿子は「ピカに合った娘」とのレッテルは剥がれないし、叔父の重松や庄吉は「原爆ぶらぶら病」との陰口を背負ったまま。

 村には元特攻隊員の悠(石田圭祐)がエンジンに怯えるPTSDに苛まれている。そんなハンデを背負った人と、原爆とは無縁だった人との間にある目に見えない壁は相当に厚いものがある。

 情報が発達した今日でも、福島原発による風評被害は相当に根深い。人は同じ悲劇を繰り返すものなのか?

 矢寿子を演じた田中好子の女優開眼映画でもある。清純な若手女優が演技に目覚めるキッカケは、監督との巡り合いによるものが多いが、本作も今村監督との相性が良かったのだろう。

 自分に死の影が徐々に忍び寄る恐怖心を隠しながら人知れず悩み抜いた揚句、風呂場で髪の毛が抜けたときの覚悟の笑いは名シーンだ。

 世話になった叔父夫婦には健気に振る舞い、同じ戦争被害者悠とは心を通わせ本心を打ち明ける切なさは胸を打つ。

 今村は反戦を声高に叫ぶことなく、登場人物に寄り添って描くことで反戦を訴えた。原作にある重松が言った<いわゆる正義の戦争より、不正義の平和のほうがいい>は、その象徴か?

 モノクロ画面は、虹が出たかを示すことなくエピローグとなるが、カラーでその後の矢須子を描いた19分のシーンが存在した。編集後悩み抜いてカットしたというが、筆者には正解だった。      

「父と暮らせば」(04・日)80点

2015-08-12 10:38:45 | 日本映画 2000~09(平成12~21)

 ・ 井上ひさしの名戯曲が黒木和雄の映像で蘇った。

                 

 作家・井上ひさしが広島の原爆被災体験者を丹念に取材して書き上げた二人芝居の名作を、黒木和雄が映画化している。

 「TOMOROW 明日」(88)、「美しい夏 キリシマ」(02)に続く黒木の戦争レクイエム三部作・完結編でもある。

 昭和23年広島。図書館に勤める美津江(宮沢りえ)は大切な人を失った心の傷が癒えないまま暮らしている。

 図書館に現れた一人の青年(浅野忠信)に淡い恋心を抱くが、幸せになることのためらいから、いざというとき心が拒否してしまう。

 それを知った父・竹造(原田芳雄)が「恋の応援団長」を買って出て、何とかこの恋を成就させようとあれこれ励まし説得を重ねる。

 その竹造は原爆投下の日に亡くなっていた・・・。悲しみを乗り越えて新しい人生を歩みだそうとする4日間の物語だ。

 自分の幸せを願う心が父親との会話で浮き彫りにされながら、戒める心を持つもう一人の美津江が存在する。

 筆者にも宮沢りえと同い年の一人娘がいるので、父・竹造の気持ちが手に取るように分かる。劇中「人がたまげてのけぞるような色気はない」というが、我が娘と比べるべくもないが、凛とした美しさは儚い色気を感じ、まさにはまり役。

 原作に殆ど忠実に描きながら映画ならではの工夫は凝らされている。復興前の広島の市街地はとても舞台では表現できない。悲惨な被災地を再現することで、この戦争の酷さが倍増されている。

 父・武造に扮した原田芳雄は時には軽妙洒脱、時には悲運を伝える悲痛な叫び、そして事実を受け止めた今は娘の幸せを願う一人の父親の心情が見事に伝わってくる。

 一人芝居<広島の一寸法師>は、舞台にも負けない映画人としての誇りすら感じさせる熱演だった。

 殆ど出番・台詞がないのに、青年役・浅野忠信の存在感もなかなかのもの。

 映画本来の特長であるダイナミズムを放棄しても、宮沢りえ、原田芳雄の出演者、鈴木達夫の撮影、木村威夫の美術、松村偵三の音楽が一体となって、原作の持つエネルギーを映像に残したいという意欲が溢れていた。

 挿入歌、宮沢賢治の「星巡りの歌」が流れ、「こよな むごい別れが二度とあっちゃいけん!」という父と、「おとったん ありがとありました。」という娘の声がいつまでも耳に残っている。
  



 
 

「奇跡」(11・日) 70点

2015-08-09 12:08:09 | 日本映画 2010~15(平成23~27)

 ・ 是枝流「スタンド・バイ・ミー」は銘菓<かるかん>に似ていた?

                    

 是枝裕和監督は「幻の光」(95)以来追いかけているが、本作は未見だった。理由はこの年発生した東北大震災。その直前に大津波で臨死体験するストーリー「ヒア アフター」(米、C・イーストウッド監督)を観て、しばらく映画館通いする意欲が減退してしまっていた。

 本作は、震災の翌日全線開通した九州新幹線の企画ものであり、子役お笑いタレント(まえだまえだ)が主演であり、日本人の日常から家族を描くというドラマを想像して触手が動かなかった。

 観終わって想像通りでもあり違っているところもあって、映画は勝手に想像するものではないということを感じるとともに、観るときの心境や時期によって違うことも改めて想った。

 鹿児島にいる母の実家で暮らす兄・航一(前田航基)は、父と2人で福岡に住む弟・龍之介(前田旺志郎)と再び一緒に暮らすことを夢見て、新幹線が通過する瞬間に願い事を叫べば叶うという噂を信じて友達と旅に出る計画を実行する。

 航一のクラスメイトが2人、龍之介のクラスメイト3人が一緒でそれぞれ子供なりの願いがある。女優になりたいなど子供らしい夢や、死んだ犬を生き変えさせたいという幼い夢を持ちながらの旅は、さながら「スタンド・バイ・ミー」のような展開。

 監督は予め900人余りオーディションした子供たちに<どんな奇跡が起きたらいいか?>を聞いて、ドラマにも取り入れている。そこから選ばれた子供たちは等身大の演技を披露。因みに女優になりたいといった恵美役の内田伽羅は、是枝作品のレギュラー?樹木希林の孫で両親の反対を押し切っての出演。

 さらに福岡のアイドル・ユニット橋本環奈など将来のスター候補生もいるが、子供らしく走り回る姿は脇を固める豪華俳優とは違った魅力を発揮している。これは子供たちには台本を渡さず、粗筋だけ口頭で伝え自由に演技させる手法が活きている。

 今観ると、有珠山の噴火を駅員から聴いて桜島の噴火を願うことを諦めた航一。御嶽山の噴火以降、変にリアルな流れになっている偶然さにも驚く。

 主演した前田兄弟は、兄が思い込みが激しく夢中になるが少し神経質、弟が現実に適応する能力があるがちゃらんぽらんという本来の性格がそのままでているようで納得。

 学校の先生に阿部寛、長澤まさみ、家族にオダギリ・ジョー、大塚寧々、樹木希林、橋爪功に加え、夏川結衣、原田芳雄、高橋長英、リリイ、中村ゆりなど豪華な脇役を揃えたためちょっぴり長い128分。

 子供らしい悩み・決断・実行で少し成長した<是枝版スタンド・バイ・ミー>は、鹿児島銘菓・かるかんに似たほんのり甘い映画だった。個人的には辛み・苦味・酸味の何れかがもう少し欲しかった気がするが・・・。

「世界の果ての通学路」(12・仏)70点

2015-08-04 10:04:08 |  (欧州・アジア他) 2010~15

 ・ 子供たちには、素直に感じてもらいたい映画。

                   

  「マサイ」(03)で部族の伝説を映画化したフランス・ドキュメンタリー監督、パスカル・プリッソンが、4か国・4人の子供たちを主人公に通学する姿を追ったドキュメンタリー。

 ケニアのジャクソン(11歳)は、6歳の妹サロメを連れて象やキリンなど野生動物がいるサバンナ片道15キロを2時間かけて通学する。

 アルゼンチンのカルロス(11歳)はアンデス山脈のペタゴニアの山々や草原を馬で駆け抜ける。5歳下の妹ミカイラも一緒で片道18キロを2時間半の道のりだ。

 モロッコのザヒラ(12歳)はアトラス山脈の辺境の村で育ったベルベル人。毎週月曜の朝友達2人と合流し片道22キロを4時間かけ、全寮制の学校へ向かう。


 インドのサミュエル(13歳)は南部ベンガル湾の漁村に未熟児で生まれ足に障害を持ち、オンボロの自家製車椅子を弟2人に押してもらい4キロを通学している。

 4人にはそれぞれパイロット、獣医、医師になるという将来の夢があって、決して恵まれた環境ではない家庭事情を乗り越え、学校へ行くことをとても前向きに取り組んでいる。

 少し出来過ぎで、何か演出過多では?と疑うのは筆者も含めての大人たち。映画化にあたって監督は、教育関連問題に取り組む国際組織<エッド・エ・アクション>に委託、60件ほどの情報を入手。

 中から、夢をかなえるために頑張っている子供たちを主題に4件を選定、10日間一緒に暮らしてロケハンしている。 本番ではスタッフを最小限に抑え、移動カメラを多用してひとり12日間で撮り終えたという。

 辺境の地ならではの貧困・女子の教育認識の低さ・身体障害車への置き去りなどハンデを乗り越えるモチベーションの高さを画面から感じる。

 それが映画として成立するかどうかの編集的な事情の範囲は許容して、ヤラセではないことを信じたい。

 <学校へ行って勉強することは、夢をかなえるためには素晴らしいことだ>という子供たちに、明るい未来を託す家族の想い同様、願ってやまない。