晴れ、ときどき映画三昧

映画は時代を反映した疑似体験と総合娯楽。
マイペースで備忘録はまだまだ続きます。

「ある侯爵夫人の生涯」(08・英) 70点

2015-01-31 08:07:44 | (欧州・アジア他) 2000~09

・煌びやかで閉鎖的な貴族社会の暮らしをドラマチックに描写。

   
18世紀後半、マリー・アントワネットと同時代に生きた英国・デヴォンシャー侯爵夫人・ジョージアナの生涯を描いたアマンダ・フォアマンの伝記小説の映画化。ドキュメンタリー出身のソウル・ディヴによる監督・脚本。米アカデミー衣装賞を獲得している。

ダイアナ妃が子孫でもあるスペンサー家からデヴォンジャー侯爵家へ17歳で嫁いだジョージアナ。現代の夫婦生活とはかけ離れた世界で、夫は世継ぎを生むことだけを望む跡取りのための政略結婚だ。華やかな社交界での人気と煌びやかな生活の陰で、夫との関係は彼女の期待とは違っていた。
それを慰めてくれたのは、親友エリザベス・フォスターで侯爵に同居の許可を得る。皮肉にもその親友を夫に奪われ、<妻妾同居>が続いて行く。

いっぽう文学・政治のサロン主宰者として、女性のファッションリーダーとして脚光を浴びて行くジョージアナ。そこで知り合ったのは政治家を目指すチャールズ・グレイ。紅茶のアール・グレイの由来は彼の名に起因する。後の首相はまだ野心家の若者だった。2人はたちまち恋に落ちる。もともとギャンブル・酒・恋と3拍子揃ったバイタリティ溢れる型破りな女性の生涯は波乱万丈だ。

ヒロイン、ジョージアナを演じたのはキーラ・ナイトレイ。「つぐない」「プライドと偏見」のコスチューム劇でお馴染みの若手女優だ。肖像画を観る限り豊満な女性だったが、細身のナイトレイとはイメージが違う。ただ華麗な衣装を纏っての美しさは引けを取らない。

侯爵に扮したのはレイフ・ファインズ。当時の貴族がそうであったように彼もまた下半身に節操がなく、使用人との間にできた女の子がいた。結婚後もエリザベスとの仲はスキャンダルとなる。
ただ男として見ると同情の余地はある。世継ぎを儲けるというプレッシャーのなか、17歳の娘との結婚は本意ではない。現代風にいえば、結婚と恋愛は別モノというところか?妻が男の子を産む前に好きな男との不倫は想定外だったことだろう。お互い様では済まない侯爵家のスキャンダルはちょうどチャールズ・・ダイアナ夫妻と重なる。「不器用な男だ。」と述懐する侯爵をさりげなく好演しているが、女性からはブーイングが聴こえそうな役柄だ。

チャールズ・グレイ役のドミニク・クーパーは風貌が歴史劇には合わない感じがした。親友でもあり恋敵でもあるエリザベスを演じたヘイリー・アトレルはジョージアナとは正反対の肉感的。3人の子供を元・夫から取り返そうと侯爵を頼るがジョージアナへの親愛も失わない複雑な役。ヘレナ・ボナム=カーターが適役だと思うが、年齢的には無理だったかもしれない。ジョージアナの母にシャーロット・ランプリングが扮していたが、<名家の女の在り方>を諭す凛とした女性で適役だった。

長編2作目のS・ディヴ監督には荷が重かったのかもしれない。史実を元にしたドラマの功罪を背負いながら、このドラマを観た。ちょうどNHK大河ドラマの「篤姫」のように。

「コットンクラブ」(85・米) 80点

2015-01-30 08:07:27 | (米国) 1980~99 
 ・採点が甘くなる?好きなジャンルを堪能。

 

 ジム・ハスキンスの原作をフランシス・F・コッポラが脚色・監督している。1920年代・NYハーレム地区にある高級ナイトクラブを舞台に繰り広げられる抗争と2組のカップルの物語。実在の大物ギャングを登場させ、組織のなかで伸し上がって行く若きギャングとタップダンサーが主役のドラマ。

 コッポラを起用したのはプロデューサーのロバート・エヴァンス。「ゴッド・ファーザー」のコンビでもあるが、もともとエヴァンス監督、コッポラ脚本でスタートしたもの。殺人事件や確執もあって大モメに揉めた後遺症のせいか、散漫なストーリーで失敗作と云われている。このあたりはR・エヴァンスのドキュメンタリー映画「くたばれ!ハリウッド」(02)でも触れられていた。
 
 それでも厖大な製作費をもとに、セットや美術は凝りに凝って、クラブでのショータイムは往時を完璧に再現できたのでは?と思うほど感動もの。好きなジャンルだけにどうしても甘い採点となってしまう。

 主演のディキシーを演じたのはリチャード・ギア。コルネット奏者からクラブ経営者のオウニー(ボブ・ホプキンス)に雇われ部下となる。コルネットのソロを吹き替えなしで演奏するなど多彩なところも魅せるが、中盤以降は魅力発揮の部分もあまりなく尻つぼみ。愛人役のヴェラを演じたダイアン・レインは見惚れるほどの美しさだが、何と19歳だったというから驚きだ。2人のラブロマンスをもう少し丁寧に描いて欲しかったがコッポラの趣味ではなさそう。
 
 代わりにメインに登場したのはタップダンサーのサンドマン(グレゴリー・ハインズ)。兄とともにクラブ・オーディションに合格して憧れの舞台へ。ソロで踊ることで兄との確執があったり、混血歌手ライラ(ロネット・マッキー)とのロマンスが舞台裏として繰り広げられる。何より本物のタップは最大の見せ場となっている。

 アイルランド系のオウニー・マドゥンとユダヤ系のダッチ・シュルツの実在人物による抗争を背景に、2人の主人公が深く関わるという展開を予想していたがそれほどでもなかった。イタリア系のフレンチーが登場したりディキシーの弟・ヴィンセント(ニコラス・ケイジ)などの絡みもあまり生きてこなかったのは肩すかしの感あり。最近、エンターテインメント・ウィークリー誌に<原作小説に劣る映画化作品・26作>にリストアップされていたのも頷ける。

 それでも、メイン楽団デューク・エリントンやチャップリン、グロリア・スワンソンなどが実名で登場する禁酒法時代の社交場「コットン・クラブ」という高級クラブの雰囲気を臨場感をもって堪能できる、ある意味とても贅沢な作品である。

 
 

「シングルマン」(09・米) 60点

2015-01-29 08:02:43 | (米国) 2000~09 

・究極の「ミドルエイジ・クライシス」ドラマを美しい映像で魅せたT・フォード監督


「キャバレー」の原作者クリストファー・イシャーウッドの小説をファッション・デザイナーが初監督。いわゆる「真夜中のカーボーイ」「ブロークバック マウンテン」などと同じ部類のゲイを扱った作品である。原作者も監督も同じ経験を持つだけに、多少の偏見を持っている筆者には敬遠しがちなテーマで今回が初見である。

ロスの大学教授ジョージは16年間に亘って愛してきたパートナーのジムを交通事故で失って8カ月。悶々とした日々を送ってきたが生きる価値を見失い死を決意したのが、62年キューバ危機の頃。身辺整理をする今日1日をしっかりと生きようといつものように大学へ向かう。

この日が特別な日であることが、彼の心にどのような影響を及ぼしたかが、美しい映像によって出会った人や回想とともに鮮やかに浮かび上がってくる。まさにミドルエイジ・クライシス(中年男性の危機)をロス在住の英国人でゲイである究極のマイノリティであるための苦悩が緻密で繊細に描かれている。
本職の服装はもとより住まいや調度品・車や小物類など隅々まで行き届いたセンスの良さは流石だが、とてもファッションデザイナーの余技とは思えない本格的な映画作りは、本人の想いが込められているからかもしれない。

その緻密さはキャスティングにも反映されている。主演のジョージを演じたのはコリン・ファース。幅広い役柄をこなすこの英国俳優は表情ひとつで心の内を映像で伝える演技力を魅せ監督の期待に応え、ベネチア映画祭で見事主演男優賞を受賞している。オスカーにもノミネートされたが本作では叶わず翌年の「英国王のスピーチ」で獲得している。
ハリウッドで孤独で危うい女性を演じたらピカイチのジュリアン・ムーアが元恋人で異性の親友で出演している。夫と別れ、子供が離れ寂しい一人住まい。ジョージと2人だけのパーティを誘い目化粧をするときのいじらしさ。いづれは老いと向き合わなければならない人間の哀しさが伝わってくる。
ドラマの性質から美青年が何人も登場する。回想シーンで登場するのはジム役のマシュー・グート。ジョージと違って明るく、読書も「ティファニーで朝食を」で前向きな青年だ。ただ2人のキス・シーンだけは見たくなかった。
もうひとり重要な役柄は学生ケニー役のニコラス・ホルト。「アバウト・ア・ボーイ」で小太りの少年だった彼がヌード・シーンも魅せる19歳とは!主人公の苦悩を察知して拳銃を手に眠る彼が唯一の理解者だった。ほかにも監督のブランドでモデルを務めたジョン・コルタジャレナがジェームス・ディーンを真似た風貌で登場したり、美青年好きの女性ファンには、別の楽しみがあるかもしれない。

人間にとって「死」は避けられないもの。だったらどんな人生を送るべきか?中年になって誰でも考えることをこの映画は気付かせてくれる。筆者のような高齢者には死の準備を死に装束まで遺言する主人公を見習うべきか?やはり、何気ない日常を大切に生きることのほうが楽しい。




「オール・アバウト・マイ・マザー」(99・スペイン) 80点

2015-01-28 12:33:12 | (欧州・アジア他)1980~99 

 ・逞しい女性たちの人間賛歌。

  
 
 スペインの奇才ペドロ・アルモドバル監督・脚本で、カンヌ国際映画祭・監督賞、米アカデミー・外国映画賞を受賞した。
 
 ゲイの夫と別れひとり息子を失ったマヌエラ(セシリア・ロス)を中心に、マヌエラの夫の子を妊娠したシスター・ロサ(ペネロペ・クロス)、薬物中毒の若手女優なしでは生きて行けない大女優マリサ・パレデス(ウマ・ロッホ)の3人による必死で逞しい生きザマを描いている。
 
 「欲望という名の電車」の映画・劇が巧く絡んでいて、登場人物が性倒錯・薬物依存など異常な世界に身を置くだけに、真実の愛を観て欲しいという暗示なのだろう。

 その代弁者が、顔と胸を手術して街娼で稼ぐアントニア・サン・ファン演じるアグラードで、主役たちを完全に喰ってしまう。

 ひとり息子を亡くしたマヌエラがロサの息子を育て、エイズ感染の危機から免れそうなのが救いで、観ていてほっとさせられた。

 

「わが街」(91・米) 70点

2015-01-27 08:00:03 | (米国) 1980~99 
・<人生とは映画のようなもの、映画とは人生のようなもの>を描いた群像劇。

  

 ’92ロス暴動の前年に映画化された人生の転換期を迎えた6人の男女を描いた群像劇。「白いドレスの女」(81)で監督デビューしたローレンス・カスダン監督・脚本でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞している。

 弁護士マック(ケヴィン・クライン)はサッカー観戦後、近道をしようとしたとき車がエンスト。黒人少年5人に囲まれてしまう。そこへと通りかかったのがレッカー車運転手のサイモン(ダニー・クローバー)。サイモンは、マックを救いグランド・キャニオン行きを勧める。こうして偶然出会った2人は不思議な運命を感じ始める。

 サスペンスタッチで始まるこのドラマは、幸せと不幸せは紙一重。それでも人間は誰かと関わりを持ちながら生きて行くんだということを語りかけている。マックは親切心でサイモンの妹一家の住まいの世話をしたり、サイモンに秘書の友人ジェーンをデートの相手として紹介したりする。単なるお節介にも見えるが見返りを期待しないで他人の世話をするのは、サイモンという一生出会うことのなかった黒人の友人を得たから。マックの妻クレア(メアリー・マクドネル)は息子の成長とともに生き甲斐を失いかけたところにジョギング中に赤ん坊を見つけ家に連れ帰る。マックの友人映画プロデューサー・デイヴィス(スティーヴ・マーティン)は白昼強盗に遭い太ももを刺され入院を余儀なくされ、バイオレス・アクションではない映画作りを思い立っている。マックの秘書ディー(メアリー=ルイーズ・パーカー)はマックに想いを寄せ1回だけ過ちを犯してしまう。

 犯罪が突然身に降りかかったり地震が起きたり時代の閉塞感が漂う大都会ロス。6人の暮らしが転換期を迎えたとき、どのように行動したかをL・カスダンはパッチワークのように描いている。原題が「グランド・キャニオン」なのは、大自然の中で人間の日常の悩みはちっぽけなものと言いたかったのだろうか?

 「スターウォーズ」シリーズや「ボディ・ガード」など幅広いジャンルで活躍するなか、何故本作のような地味な作品を作ったのだろうか?プロデューサー・デイヴィスの台詞<人生とは映画のようなもの、映画とは人生のようなもの>を実践してみたのだろう。

「シカゴ」(02・米) 75点

2015-01-26 08:19:45 | (米国) 2000~09 

・13年前のオスカー「作品賞」を獲得したミュージカル



ブロードウェイの名演出家ボブ・フォッシーに心酔しているロブ・マーシャル監督。映像ならではの工夫が凝らされオスカー「作品賞」を始め6部門を受賞している。

20年代のシカゴ、スターを夢見るヒロインが愛人を射殺して刑務所に収容されるが、スキャンダルを利用してスターに伸し上がろうとするミュージカル。移り気な大衆心理とそれを煽るマスコミ批判も込められているものの、生真面目にならず歌と踊りを楽しみながら観るブラック・コメディだ。

つい最近、米倉涼子がブロードウェイでヒロインのロキシー・ハートを演じて話題となったが、本編ではレニー・ゼルウィガーが扮している。歌もダンスも素人ながらM・モンローのような可愛さで頑張っている。
年上のライバルで、妹と夫の殺人容疑で刑務所入りしながら復活を期すヴェルマ・ケリーにキャサリン・ゼタ=ジョーンズ。パワフルな歌とダンスは圧巻で助演女優賞を獲得、妊娠を隠しての出演は、主演のレニーをも凌ぐ存在感を魅せている。
2人を無罪にするために登場するのは「裁判をショービジネス」と公言している悪徳・敏腕弁護士ビリー・フリン。リチャード・ギアが意外な役柄で奮闘、華麗な?タップダンスやコミカルな腹話術師に扮している。ブロードウェイ出身ながらブランクもありタップには自信がなかったが、R・マーシャルが心配無用だと請け負ってくれたという。吹き替えなしが売りの本作だが、撮影の工夫で見事に克服されている。
刑務所長ママ・モートンのクイーン・ラティア、ロキシーの夫・エイモスにジョン・C・ライリーが脇を固め良い味を出していたのも見逃せない。

「オール・ザット・ジャズ」を始めお馴染みの曲をタイムリーに入れ、ドラマとミュージカル・シーンを巧妙に切り替え、従来のミュージカルの概念を一掃したことがアカデミー会員に高評価を得たのだろう。その後の「レ・ミゼラブル」が同じ意味で高評価が期待されたが柳の下のドジョウはいなかった?



「フィールド・オブ・ドリームス」(89・米) 80点

2015-01-25 08:09:39 | (米国) 1980~99 
 ・ 自分を投影できるか?で評価が違ってくるファンタジー。

      
 W・P・キンセラの原作「シューレス・ジョー」をフィル・アルデンが脚色・監督、ケヴィン・コスナーの本格的初主演作品でもある。

 米オハイオ州の農民レイ・キンセラ(K・コスナー)は、トウモロコシ畑で「君がそれを造れば、彼はやってくる」という声を聴く。彼は妻のアニー(エイミー・マディガン)の協力で畑を半分壊し野球場を造る。そこへ’19年ブラックソックス・スキャンダルで追放されたシューレス・ジョー・ジャクソン(レイ・リオッタ)が現れる。さらに「彼の痛みを癒せ」「最後までやり遂げよ」という声を忠実に果そうとする。

 男の夢の実現、家族・親子の絆をテーマに、夢を叶えようとするファンタジー。自分を投影できるか?で、好き嫌いがハッキリ分かれるストーリーだ。アメリカのベースボールは特別なスポーツであることを前提に見ると、まるで重みが違ってくる。我々世代にとって男の子を持つ父親が親子でのキャッチボールは、まさに憧れの存在・至福の喜びなのだ。残念ながら筆者は娘だったが、マネごとをした。

 テレンス・マン(ジェームズ・アール・ジョーンズ)のモデルはJ・D・サリンジャーで、「金はあるが心の平和がないのだ」などと意味深い台詞でアメリカの現状を嘆いている。夢に向かってやり遂げることが如何に大切かを暗示するかのようだ。

 当初主演はトム・ハンクスの予定だったが断られたという。代わりに演じたK・コスナーは本作を機にスター街道を歩んで行くが、その後の出演作にも多大な影響を与える作品となった。

 無名の大リーガー、ムーンライト・グラハム役のバート・ランカスターが、まるでK・コスナーへバトン・タッチするように最後の映画出演だったのも象徴的。
 

「カポーティ」(06・米) 80点

2015-01-24 11:00:19 | (米国) 2000~09 

 ・作家・カポーティをリアルに演じたP・S・ホフマン。

    
 ノンフィクション・ノベル「冷血」を完成するまでの作家T・カポーティを、昨年2月急逝したフィリップ・シーモア・ホフマンが見事に演じ、オスカー主演男優賞を受賞している。ベッド・ミラー監督、ダン・ファターマン製作・脚本の仲良しコンビがとても丁寧な描写。

 「冷血」は67年リチャード・ブルックス監督で映画化されていて、行きずりの強盗殺人犯の心理を巧みに描写してオスカー候補にもなっている。当時私生活でも話題の多いカポーティが、6年もの歳月をかけてこの作品に心血を注いだのか?何故その後燃え尽きてしまったのか?がくっきりと描かれていた。

 人間的には鼻持ちならない本人の逸話が散りばめられている前半と、自分と似た性格と生い立ちに興味を惹かれペリー・スミス(クリフトン・コリンズJR)に傾注して葛藤する後半では雰囲気が違ってくる。

 C・コリンズJRが「13デイズ」のケネディ役とはまるっきり違う役を好演している。

 そして何といってもP・S・ホフマンがキャサリン・キーナー、クリス・クーパーという芸達者を向こうに廻してカポーティに成り切ってのリアルな演技に拍手を送りたい。個性的な役柄でこれからも活躍を期待していただけに、今更ながら貴重な俳優を失ってしまったのが惜しい。 

「股旅 三人やくざ」(65・日) 85点

2015-01-23 08:38:20 | 日本映画 1960~79(昭和35~54)

 ・ 三話とも<究極の股旅もの>を纏め上げた沢島忠監督の職人芸。

                    

 時代劇には珍しい三人のオリジナル脚本を沢島忠が監督した変則オムニバス。

 第一話 秋の章 笠原和夫・脚本 仲代達矢・主演

  渡世の義理で関八州の役人を二人斬った兇状持ちの千太郎(仲代)は、一宿一飯の草鞋を脱いだ麹屋金兵衛(内田朝雄)一家で遊女おいね(桜町弘子)の見張りを頼まれる。おいねは猪之助が所帯を持とうといってくれたことが生き甲斐で足抜けをしようとしたのだ。猪之助は千太郎が斬った男だった。

  改めて正統派股旅ものを観た想い。秋の風景に三度笠に長脇差の仲代のシルエットが映える。
  映画出演50本目の仲代は、正統派2枚目だがニヒルな役が多く、こんな真っ当な渡世人はあまり記憶がない。
  今回はストイックに演じて好感が持てた。

  相手役の桜町弘子がいい。町娘やお姫様スターの印象が濃い彼女が薄幸な遊女役を見事に演じ、生涯最高の演技をしたのでは?と思えるほど。
  笠原和夫の脚本は彼女をこれでもかというほど、不幸な境遇に置いて同情を一身に集める。

  なにしろ顔もろくに覚えていない一夜だけの男が、所帯を持とうと言ってくれただけで足抜けをしようとするのだから。
  二夜共にした千太郎に情が移るのも無理はない。

  二人の引き立て役として、浪花千栄子と田中邦衛が出ているのも贅沢な配役だ。

  千太郎が取った行いが泣かせる。これぞ男の義理・人情を地で行くシーンで幕切れとなる。

 第二話 冬の章 中島貞夫・脚本 松方弘樹・主演

  賭場でいかさま博打の掛川の文造(志村喬)を救った源太(松方)は、雪の降りしきるなか誰もいない茶屋に逃げ込んだ。互いの身の上話をするうち茶屋の娘みよ(藤純子)が帰ってくる。年老いた文造は亡くなったみよの母を知り合いだと言い、懐からいかさまで儲けた金を出して渡そうとするが・・・。

  父親が博打好きで首を吊ったため、田畑を失いヤクザになった源太と、幼いおみよを捨てた博打好きで家を離れた文造が織りなす父と子の物語は、芝居で演じる世話物のよう。
  中島貞夫は若い松方を大ベテラン志村にぶつけて演技の火花を散らせようという脚本を書き上げた。
  何しろこの年だけでも13作に出演している志村は、ここでも存在感たっぷり。
  19歳の藤純子の田舎娘役は貴重な映像で、志村とは親子というより孫娘にみえた。

  松方は予想以上の大健闘だったが、志村の貫録に圧され気味なのは止むを得なかった。

 第三話 春の章 野上龍雄・脚本 中村錦之助・主演
  腹を空かした風来坊・久太郎(中村錦之助)は村で思いもしない手厚いもてなしを得て、長の三右衛門(遠藤辰雄)から代官の悪役人・鬼の半兵衛(加藤武)を斬って欲しいと懇願される。抜き差しならなくなった久太郎は半兵衛に挑むが、軽くあしらわれ村人から冷笑される。

  絵から抜け出たような二枚目ヤクザの名作が多い錦之助のイメージを、逆手に取った野上の脚本が秀逸。
  コミカルな役もこなせる錦之助の真骨頂を魅せる痛快コメディ。

  楽屋落ちでは?と思わせる入江若葉の田舎娘・おふみとの競演は宮本武蔵のコンビ。
  遠藤と加藤の役も本来なら逆のイメージだし、渡世人・木枯らしの仙三役・江原真二郎は紋次郎のパロディか?と思わせるが、こちらの方が先。おまけにまるっきり違うドライな男なのが、笑わせる。

  春の菜の花が画面いっぱいに広がる幕切れは、沢島得意の軽快な時代劇の真打ちに相応しい。

 筆者は男の郷愁と女の情愛をたっぷり謳い上げた第一話が好きだが、評価は圧倒的に第三話が高い。
 沢島監督、三人の脚本家、古谷伸の撮影、佐藤勝の音楽が相まって三話とも究極の股旅映画として記憶に残る名作だ。

「ラルジャン」(83・フランス・スイス) 85点

2015-01-22 13:38:46 | (欧州・アジア他)1980~99 
・リアリズムの巨匠・ブレッソンが描いた遺作は<究極の虚無感>。

  トルストイの原作「にせ利札」をもとに、リアリズムの巨匠にして孤高の映画作家、ロベール・ブレッソンの脚本・監督によって製作された本作は彼の遺作となった。

 少年が作った500フランの偽札が写真店で使われ、店の主が悔しさのあまり警察へ届けないで燃料集金の従業員イヴォンに支払われる。イヴォンは気付かず食堂で支払いに使おうとしたらアルジに偽札だと言われ警察に突き出されてしまう。裁判では写真店員の偽証によって有罪となってからは冤罪を晴らすどころか負の連鎖はイヴォンをドン底まで突き落としてしまう。微罪で出所直後の仕事は気付いたら銀行強盗の見張り役をさせられていた。刑務所では娘の死を知らされ、妻宛ての手紙は宛先人不明で戻ってきてしまう。さらに...。

 文字にしてしまうとそんな馬鹿な!と思うが、ブレッソンの画像は冷徹に普通の人がどん底まで転落することが何ら不自然ではないようにカットの積み重ねで進んで行く。観客は主人公が落ちて行くさまを見せられながら、何処かでキッカケを掴んで救いや希望を見出すだろうと言う想いで見続けることになる。

 そしてそれは終盤に老婦人の後をつけ、郊外の家で果されようとしていた。その前に彼はモーテルの夫婦を殺害していたにもかかわらず食事を与え<私が神ならあなたを赦す>と言ってくれた天使のようなヒトだった。

 ブレッソンは例によって映画にダイナズムを一切排除してしまう。出演者を俳優とは呼ばずモデルといい、感情表現を一切させない。台詞は最小限で音楽は殆ど使わない。唯一流れたのが老婦人の父・ピアノ教師?が弾いたJ・S・バッハの「半音階的幻想曲とフーガニ短調」のみ。そのかわり足音・車の音・紙幣の擦れる音、スプーンの落ちる音、扉の開閉など音声はドラマに欠かせないものとして緻密に表現されているし、手・足・ドアなどのアップによって物事が進んでいる。

簡潔さの極みで、たった85分の映画なのに目が釘付けになったまま最後まで緊張感が続いて、観終わって虚無感が一杯となった。こんな映画は初めてで、べレッソンは何を言いたいのだろうか?としばらく反芻してみたが良く分からない。本人は「彼らは空虚を見つめているのです。そこにはなにもありません。善は去ってしまったのです。」というコメントを述べてる。

 現代社会では、トキドキ大人しくて目立たないヒトが社会を震撼させる無差別殺人を起こして、社会心理学者がもっともらしいコメントをしているニュースにお目に掛かることがある。べレッソンはそれを現実のものとして例示して見せたのかもしれない。独自のスタイルを頑なに守り続けた彼の遺作は、いつまでも心に残って離れようとしない。