晴れ、ときどき映画三昧

映画は時代を反映した疑似体験と総合娯楽。
マイペースで備忘録はまだまだ続きます。

「蜩ノ記」(14・日)80点

2015-12-28 18:08:52 | 日本映画 2010~15(平成23~27)

 ・ 最後の砦?小泉堯史監督の様式美溢れる時代劇

                   

 直木賞受賞の葉室麟原作の静謐な時代劇を、小泉堯史監督が古田球と共同脚色した本格的時代劇。

 前作「明日への遺言」(08)以来のメガホンで、時代劇は「雨あがる」(00)から14年経過している。

 豊後・羽根藩の右筆・壇野庄三郎(岡田准一)は些細なことから殿中で刃傷沙汰を起こし、家老・中根兵右衛門(串田和美)の温情で切腹を免れる。

 替わりに、7年前事件で切腹を命じられ、10年間の猶予で家譜(藩の歴史)の編纂のため山里に幽閉されている戸田秋谷(役所広司)の監視役を命ぜられた。

 事件とは、大殿・三浦兼通の側室・お由の方(寺島しのぶ)との不義密通というもの。なのに穏やかに日々を家譜の編纂と畑仕事に勤しみ、妻・織江(原田美枝子)や娘・薫(堀北真希)も慎ましく暮らしている。

 物語は秋谷と庄三郎の師弟愛を軸に庄三郎と薫の純愛、秋谷と織江の夫婦愛を織り交ぜながら真相に迫って行く。

 決して大仰な描写はなくても、生き方に熱い想いを抱かせてくれる。こういう時代劇は映画化がかなり難しいが、じっくりと時間を掛けて準備した節が窺えて好感が持てる作りだ。

 秋谷のような完全無欠な人物は物語でしかありえないが、役所広司という俳優が演じると不自然さを感じないのが不思議。

 事件を追っていくうち、お由の方がお家騒動に巻き込まれ幼な馴染みだった秋谷がお家を守るため罪を背負ったという理不尽な真相が判明して行く。

 山里での四季の移り変わりを丁寧に捉え、武士が仕えるとはこういうことかと納得させられてしまうが、現代社会では納得の行くものではないことは明白。

 年貢を取り立てる理不尽な奉行や武士に取り入る悪徳商人も登場し、農民が犠牲になるが何故か悲惨な光景に映らないのは何故だろう?

 敵役である家老中根兵右衛門がお家のために行ったという免罪符があって、勧善懲悪ものになっていないためだろう。

 本作は時代劇が持つ勧善懲悪が不明瞭なためにドラマが成立しているのだ。

 それだけに役所を始め若手で時代劇の資質を持つ岡田や黒澤時代劇で揉まれた原田美枝子・井川比佐志、歌舞伎の血筋を受け継いでキメ細かな情感を醸し出す寺島しのぶの演技が支えている。

 堀北も時代劇の所作を習得しこれからが期待できる女優となったが、結婚で銀幕復帰はしばらく待たなければならないのは惜しい。

 益々時代劇の映画化が難しくなった今、次回作はどんな作品になるのだろうか?待ち遠しい。

 
 
 

 

「素晴らしき日曜日」(47・日)80点

2015-12-23 11:57:00 | 日本映画 1946~59(昭和21~34)

 ・ 敗戦直後の東京、貴重な映像遺産となった黒澤明監督の<愛の物語>。

                   

 黒澤明監督の戦後2作目は、幼馴染み植草圭之助シナリオによる、<男女の愛の物語>。

 終戦直後の混乱期東宝のストライキもあって、充分な撮影体制が整っていないこの時期、黒澤はそれを逆手にとって、オールロケ作品に挑んだ作品でもある。

 結果上手くいかない部分もあって、一部セット撮影を余儀なくさせられたものの、東京の映像は貴重な文化遺産となっている。

 ある日曜日、満員電車から上野駅に降り立った若い女性(昌子)がいそいそと雑踏の中を歩いているシーンから始まるこのドラマ。

 待ち合わせ場所の若い男(雄造)は、人目を憚りながら落ちていた吸い掛けの煙草を拾おうとしていた。貧しい2人のランデブー(デート)を追いかけながら、当時の世相を描いた心温まる1日。
 
 この頃筆者は3~4歳だったのでリアルタイムでの実感はないものの、本作を見ながら上野駅の雑踏や浮浪児がいたこと、空地では草野球をしたことなど・・・蘇ってきた。

 若い2人は金もなく、「新興模範住宅」(モデルハウス)で夢を語り、安アパートを訪ねたりしながら住まいを探すが、とても手が届かない。知り合いのキャバレー(ダンスホール)を訪ねればタカリと間違えられ、雄造(沼崎勲)は「こんな時代、闇屋でもやらなきゃまともな暮らしもできやしない」と嘆く。

 いじける雄造を励ましながらあくまでもポジティブな昌子。雨の中日比谷のコンサート会場目指し駆ける2人はびしょ濡れになりながらも楽しそう。

 そのコンサートもダフ屋に阻まれショゲカエル雄造は、友人と同居しているアパートでラブコール。現在とは隔世の感ある男女間は、これでも大いに話題になったという。

 脇役女優で地味な顔立ちの中北千枝子が、とてもイジラシイ演技を魅せている。

 最も話題となったのは、コーヒーショップ「ヒヤシンス」の夢を語り合うパントマイムと、日比谷野外音楽堂でのラストシーン。

 雅子が観客に向かって「どうか拍手をしてください・・・。」と叫び、「未完成交響曲」が高らかに流れるのは、ささやかな幸せを願う庶民への純粋な応援歌。

 黒澤には映画館での観客が万雷の拍手を聴こえていたに違いない。筆者が映画館で拍手・歓声を送ったのは、アラカンの鞍馬天狗が杉作を救うため馬で駆けつけるシーンだったのを思い出す。

 資料によると当時の日本人は拍手をするのは照れ臭く、あってもパラパラだったという。のちにフランスで上映されたとき、万雷の拍手を目撃した黒澤の嬉しそうな笑みが目に浮かぶ。
 
 


「雪の轍」(14・トルコ/仏/独)85点

2015-12-20 14:27:46 |  (欧州・アジア他) 2010~15

 ・196分の長編なのに眠くならなかった会話劇。

                  

 トルコの巨匠といわれるヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の最新作で、カンヌ・パルムドール受賞作品。日本で劇場公開されたのは本作が初めて。

 筆者も初鑑賞なので、調べてみたらカンヌの常連(グランプリ2回・監督賞1回)でまだ56歳。

 まもなく冬を迎えようとしている世界遺産の洞窟・カッパドキア。ホテル「オセロ」のオーナー・アイドゥン(ハルク・ビルギナー)は元舞台俳優で今は地方紙のコラムを書きながら、悠々自適の暮らし。娘と間違えられそうな若い妻ニハル(メリサ・ソゼン)は改修費のない小学校支援活動に熱心で、夫婦関係は冷え切っている。

 アル中の夫と離婚して実家のホテルに戻ってきているアイドゥンの妹ネジラ(デメット・アクヴァ)。3人はそれぞれ自己欺瞞を抱えながら日々を過ごす。

 切っ掛けは、アドゥンの車に投石した少年でイスマイル家の息子。家賃を滞納して家具を差し押さえされていて家主はアドゥンだったこと。

 チェーホフの短編をモチーフにしたという本作は、3人の途方もない会話が続いてまるで舞台劇のよう。仕掛けたのはネジラで兄のコラムを「浅はかな知識で偉そうに批評する」「感傷的過ぎて吐き気がする」とけなしたりする。まさに真髄をついているだけに棘が刺さった気分になるアドゥン。

 「悪を受け入れることの是非論」をテーマに3人が囲む朝のテーブルでは取り止めがない。3人には家賃を滞納したイスマイルのことが頭を掠めている。「ヒトラーを赦すか?」という例えで話を打ち切るアドゥンには他人を思いやる心が微塵もなさそう。

 夫婦の対話も不毛で噛み合わない。どこかベイルマンの作風にも似ている。

 富めるものと貧しいもの、エゴイズムとプライドがぶつかり合い人間の傲慢さを描いた本作には、冬のカッパドキアが良く似合う。

 筆者は実家が借家で家主から追い立てられた実体験があり、あの少年の気持ちが重なってしまった。筆者の父親は困窮していたが家賃は滞ったことはなく、イスマイルのような自尊心はなかったのでこのような結末にはならなかったが・・・。

 本作は「サイの季節」鑑賞後で、196分という長編にも拘らず何故か眠くならなかった。嫌いではないがチェーホフや、テーマ曲のシューベルトのピアノ・ソナタ(20番・第2楽章)が大好きでもなくカッパドキアの風景に憧憬があるわけでもないのに、どうしてだろう?

 きっとこの監督の<深い人間洞察力の素晴らしさ>に感動したのかもしれない。

 

 

「サイの季節」(12・イラク/トルコ)80点

2015-12-19 18:02:33 |  (欧州・アジア他) 2010~15

 ・ 3人の心象風景を詩的に描いたゴバディ監督の人間ドラマ。

                   

 イラン映画といえば、ひところ子供を主題にした作品でそのレベルの高さを世界に伝えていたが、イラン・イスラム革命(79)後の政府によって表現規制されていたためでもあった。

 本作のバフマン・ゴバディ監督は次の世代(69年生まれ)で、「ペルシャ猫を誰も知らない」(09)というセミ・ドキュメントを撮って祖国へ戻れなくなった人。

 ゴバディは、クルド系イランの詩人サデック・キャマンガールが27年間投獄されたという事実をもとに映画化したという。本作では彼の思いが込められた詩的な作品で、主演はイラン70年代の大スターであるベヘルーズ・ヴォスギー。

 B・ヴォスギー扮するサヘルが刑務所を釈放されたシーンから始まるこのドラマは、その妻ミナ(モニカ・ベルッチ)と元運転手で革命後・指導者となり夫婦に嫉妬するアクベル(ユルマズ・エルドガン)の愛憎劇。

 シンプルだが、革命に翻弄されたサヘル・ミナ夫婦と執拗にミナに纏わりつく男アクベルの30年間を、時代を行き来しながらじっくりと追いかけていく。

 時折、唐突に動物が出てきて詩が読まれたりするので正直戸惑う展開だが、幻想的な映像は詩人である主人公の心象を比喩的に表現しているのだろう。

 マーチン・スコセッシが絶賛したという本作は、B・ヴォスギーの<苦悶した表情のアップによる間と沈黙>に何とも言えない想いを感じる。彼自身の境遇と重なる部分があるのだろう。

 20代から50代を独りで演じきったモニカ・ベルッチの美しさを再認識させられた作品でもあった。この後50歳でボンドガールを演じるM・ベルッチは、まさに<イタリアの宝石>だ。

 それにしても、権力者の変遷で境遇が反転してしまう社会は、言いようのない酷い世界であることを改めて知らされた。
 
 

「シンプル・プラン」(98・米) 70点

2015-12-11 14:31:25 | (米国) 1980~99 

 ・ 拾い物だったが、「ファーゴ」には敵わないS・ライミ監督のサスペンス。

                  

 「死霊のはらわた」シリーズでデビューし、「スパイダーマン」シリーズでファン層を拡げたサム・ライミ監督。その中間に監督したサスペンスで原作のスコット・スミスが脚本も担当している。

 アメリカ北部の田舎町に妊娠中の妻・サラと平穏に暮らしているハンクは、大晦日に兄・ジェンキンスとその友人ルーとセスナ機が墜落したのを発見。操縦士は死亡しており、中には大金があった。440万ドルを巡って巻き起こしていく事件の数々で、人生の歯車が狂っていく・・・。

 カルト映画でその名を知られるようになったS・ライミ監督だが、本作は不気味なシーンはほとんどなく僅かにセスナ機発見の導入部のみ。

 事件など起こりそうもない雪深い田舎町で事件発生という設定は、一見コーエン兄弟の「ファーゴ」(56)を思い出させるが、主人公は人柄の良さそうな保安官ではなく善良なハズの小市民夫婦とその兄である。

 誰でも突然大金を手にしたら、欲にかられ善からぬ行動に出てしまうかもしれない。自分ならどうするかと思いながら観てしまう。

 警察に届けようというハンクに黙っていれば分からないから山分けしようというルーと、優柔不断だが密かに死んだ父親の農場経営の生活設計を望んでいた兄・ジェイコブ。

 2人に押されたハンクは、自分が金の管理をしてホトボリが冷めるまで黙っているというプランを条件に渋々同意する。

 夫婦・兄弟・友人という最も身近な人間関係がいきなり大金を手に入れたことで狂っていくさまは、なかなか面白い展開で拾い物という感じで鑑賞した。

 ハンクを演じたビル・パクストンよりも、ジェイコブに扮したビリー・ボブ・ソートンの演技が光る。賢弟愚兄の2人が歩んできた半生は余りにも対照的で、貧しいながら大学を出て地元の飼料会社に勤めサラと結婚子供も生まれようとしているハンクと、独身で恋人もいない失業中のジェイコブ。

 常識をわきまえているハンクが段々善悪の判断が狂い、ジェイコブが罪の意識に苛まれ自らを追い込んで行く現象は、近頃の偽装事件など社会のあちこちにみられることなのかもしれない。

 最も罪の意識がなく、兄弟の人生を狂わせてしまったのはブリジット・フォンダ演じる妻のサラだったのが、皮肉なところ。

 平穏な田舎町で起きた事件は、銃社会の米国ならではの悲劇でもあった。
               
     

「彼岸花」(58・日) 80点

2015-12-06 12:13:30 | 日本映画 1946~59(昭和21~34)

・ 小津の初カラー作品は戦中派の父親と娘の人情劇。

                  

 「東京物語」(53)を筆頭に、「晩春」(49)以来<父親と娘の関係を核とした家族の物語>をコンスタントに撮り続けていた小津安二郎監督初のカラー作品。

 翌年「お早う」で見られるように、この頃の小津作品はコミカルな面が伺えるが、本作は格式ある様式美を兼ね備えながら、クスリと笑えるような人情劇。

 丸の内の会社常務である平山渉(佐分利信)は、中学時代同期生の娘の結婚式に出席して祝辞を述べる。帰宅した平山は長女・節子(有馬稲子)が適齢期を迎え、ボーイフレンドでも連れてこないと妻・清子(田中絹代)に嘆いて見せる。

 式に欠席した同窓生・三上(笠智衆)から娘(久我美子)が家出して銀座のバー勤めをしているのを聞いて、一度覗いてみると約束していながら放置していたが、急に様子を見に行く気になったのは、突然娘さんと結婚させてくださいと訪ねてきた男・谷口(佐田啓二)が来たからだった。

 主人公は旧制中学時代育ちの戦中派で、高級住宅地に居を構えた一流会社の常務。他人の縁談や恋愛には良き理解者だが、イザ自分のこととなると話は別。

 娘の恋愛には断固反対しながら、馴染みの祇園の女将・初(浪花千栄子)の娘・幸子(山本富士子)には「母親の意見など訊かず、自分の思い通りにしろ」と言う自己矛盾の可笑しさに自身は気づいていない。

 戦後15年近く経ち、徐々に父親を頂点とする家長制度は無くなってきているが、筆者のような庶民とは違って上流家庭にはまだ父親が絶対という風土が残っていたのだろう。

 その権威が新しい世代に侵食され始め、中学の同窓会で時代を懐かしむ雰囲気が今や文化遺産てき存在。余興で三上が詩吟を吟じるのを懐かしむなんてこの世代が最後だろう。

 主人公役の佐分利信は当時49歳、同期生の笠智衆、中村伸郎、北竜二とも50代前半なのに改めて驚かされる。

 有馬稲子、久我美子、山本富士子という20代の女優が揃って出演しているのも見所の一つ。なかでも山本の切れの良い京都弁は意外な役どころで、所属映画会社(大映)の壁を破って実現しただけあってこの映画最大のKEYを握る役柄を好演している。

 ベテラン田中絹代の芯のある妻、浪花千栄子の明るくちゃっかりした女将役は演技を感じさせない存在感で画面を惹きつける。

 初のカラー作品ということで小物に赤を配し、書画骨董、茶わんなど本物志向で挑んだ本作は小津らしいスキのない演出が際立っている。

 相変わらず固定カメラからローポジションで映し出されるカメラワークは妥協を許さない小津作品そのもの。やたらとアップやフェイドイン・アウト、オーバーラップを多用する最近の映画とは全く異質な映像美だ。

 なかでも築地料亭の庭越しで見える聖路加病院・本願寺は懐かしく感動させられた。

 気になったのは、カット変わりに喋るセリフが不自然に感じたこと。これも小津の個性か?
 

 

「サンドラの日曜日」(14・ベルギー 仏 伊)70点

2015-12-01 17:03:16 |  (欧州・アジア他) 2010~15

 ・ M・コテイヤールがディオールのミューズと真逆の役柄で大奮闘。

                  

 カンヌ映画祭の常連・「ロゼッタ」(99)、「ある子供」(05)のジャン=ピエール、リュック・ダルデンヌ兄弟の新作は、オスカー女優マリオン・コテイヤール主演の欧州が直面している経済や移民問題を背景とした雇用の現状を描いた究極の物語。

 メンタルヘルスの不調で休職していたサンドラが復職しようとしていた金曜日、会社は職員のボーナス捻出のためには1人解雇せざるを得ず、サンドラを解雇すると通告。

 同僚のとりなしで週明けに職員たちの投票でボーナスを諦めサンドラを迎え入れることに賛同する者が過半数を超えれば復職できることになるよう社長の承諾を得た。

 サンドラは夫の励ましを得ながら、一人ひとり同僚の家を訪ね説得して回って行く。

 日本人の感覚では、こんな理不尽なことはないと感じるが欧州では似たようなことが起きていてダルデンヌ兄弟は映画化を企画したという。

 筆者が退職して10年以上経つが、昨今のブラック企業などという言葉がメディアを賑わしている昨今、それほど非現実的ではないのかも。

 労組のない中小企業の経営者の視点でみると、経営が苦しい状況で社員へどう賃金配分すべきかと考えるとやむを得ない措置と思えてしまう。

 絶えず弱者からの視点で映画を撮り続けてきたダルデンヌ兄弟にとって、サンドラが願う平凡なマイホームを希望の灯を切り捨てるような社会を放置するわけにはいかないのだ。

 職場の連帯には利益を共有することが前提だが、雇用かボーナスかという究極の選択を17人の投票で決めるというのは酷な状況だ。

 サンドラは物乞いのような真似はできないといいながら、夫の励ましと2人の子供のため、マイホームを守るため一人ひとりを訪ねてゆく。

 同僚の家は様々でこの国(ベルギー?)特有のイスラムやアフリカの移民もいてそれぞれがボーナスは生活費として不可欠な人たちばかり。なかには居留守を遣う同僚もいる・・・。

 カメラはひたすら熱い日差しのなかタンクトップ姿のサンドラを追うドキュメンタリー風の趣で、例によって音楽は店やカーステレオ以外一切ない。

 気力を失い薬を大量に飲み自殺を図ったりする脆さをみせたりするが、サンドラは直向きさで一軒一軒尋ねまわり、月曜日を迎える。

 結果は、爽やかな結末が待っている。それは決して満足のいくものではないが、泣いてばかりいたサンドラが新たなる一歩を踏み出そうとするものだ。

 サンドラを演じたM・コテイヤールは13年の最も美しい女優に選ばれている。ディオールのミューズとしてもお馴染みだ。そんな彼女が髪を束ねるだけで着飾ることもなく終始歩き回るさまは、女優を捨てた感がある。オスカー・ノミネートも納得の自然な演技。

 独特の鋭い問題提起をしてきた一連のダルエンヌ作品と比較すると収まりの良い作品で、少し物足りなさを感じてしまったのは、夫や同僚などよき理解者がいてサンドラの暮らしがどん底ではなかったからだろう。