ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月21日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第15回
巻 4
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121) 沖へ行き 辺に行き今や 妹がため 吾漁れる 藻臥束鮒   高安王(巻4・625)
・ 高安王(大原真人)が鮒の土産を娘に暮れた時の歌である。「沖へ行き 辺に行き」と調子のいい掛詞を発した歌謡である。束鮒とは一握りほど(二寸)の大きさの鮒のこと。結句「藻臥束鮒」の語呂がいいので選んだと茂吉は言う。
122) 月読の 光に来ませ あしひきの 山を隔てて 遠からなくに   高安王(巻4・670)
・ 女のつもりで詠んだ高安王の歌。来るのは男、待つのは女が普通の構図だからである。高安王の歌は2首ともに実に軽い、実感もない。
123) 夕闇は 路たづたづし 月待ちて 行かせ吾背子 その間にも見む   大宅王(巻4・709)
・ 月が出ない夕闇は暗くて不安だ。月が出てからいらっしゃい、御逢いしましょうという女心である。
124) ひさかたの 雨の降る日を ただ独り 山辺に居れば 鬱せかりけり   大伴家持(巻4・769)
・ 大伴家持が、新都の久邇京に居て、旧都にいた紀女郎に贈った歌である。「ひさかた」は天(雨)に係る枕詞。歌調はのびやかで率直である。家持の優れた特徴である。

巻 5
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125) 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり   大伴旅人(巻5・793)
・ 大伴旅人は大宰府において妻大伴郎女を亡くした。その時京より弔問がきたので、それに答えた歌を作った。世の無常を知る時、いままでよりますます悲しいという。「し」は強めの意味で、仏教の教えで人は無常であることは知っていたが、現実に自分の事として知ったという意味である。思想的抒情詩は難しいもので、誰も大伴旅人の程度を越えることはできない。この歌は一つの記念碑となったという。
126) 悔しかも 斯く知らませば あおによし 国内ことごと 見せましものを   山上憶良(巻5・797)
・ 大伴旅人の妻が亡くなった時、筑前国守山上憶良は「日本挽歌」(長歌1首反歌5首)を作って大伴旅人に贈った。旅人の心になりきって詠んだ歌である。このように妻が無くなることを知っていたならば、筑紫国の隅々を見せてあげておけばよかった。それをしなくて悔しいという気持ちを、旅人に代わって憶良が詠んだ。「悔しかも」という主観の詞を冒頭に持ってくることは万葉集にはなかった。これはむしろ新古今和歌集時代の手法である。憶良の訥々とした語調が伝って、流ちょうに流れるのを防いでいる。
127) 妹が見し 棟の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに   山上憶良(巻5・798)
・ 前の歌の続きである。「棟(おうち)」は栴檀のことで、初夏のころ薄紫の花を咲かせる。妻が死んで涙の乾かない間に、妻が庭に植えた栴檀の花は散ってしまった。逝く歳月の速さにただ驚くばかりであるという意味である。茂吉はこの歌を切実の響きが少ないと批判する。従来から万葉集中の秀歌として名高いこの歌をただ分かりやすいかっただけのことであると切り捨てる。憶良は伝統的な日本語の響きに合体できなかったと結論した。
128) 大野山 霧たちわたる 我が嘆く 息嘯の風に 霧たちわたる   山上憶良(巻5・799)
・ この歌も前の挽歌の続きである。「大野山」は筑紫大宰府近くの山である。息嘯(おきそ)は「おきうそぶく」のことで、「嘆きの息嘯」とは「嘆く長大息(ふかいためいき)」という意味になる。深く長い溜息のために、風が巻き起こり霧が発生するという。「霧たちわたる」を二度使うことで、大野山に霧が立ち渡るのは私の吐く長い溜息のせいであるということになる。線も太く、能動的であるが、人麿の歌の声調ほどの響きがないと茂吉の批評は厳しい。
129) ひさかたの 天道は遠し なほなほに 家に帰りて 業を為まさに   山上憶良(巻5・801)
・ 山上憶良は両親と妻子を軽んじる男を諭すため、「感情を反さしむる歌」を作った。反歌がこの歌である。道徳家である。「おまえは青雲の志を抱いて天に登るつもりらしいが、その道は遼遠である。それより率直に家に帰って家業に従事しなさい」という意味である。儒教精神は実生活の常識であるという道徳観の中で、この歌は窮屈だという。漢文調が好きな憶良らしさ歌で特殊な位置を占める。しかし万葉長にはなじまないというのが茂吉の憶良観である。
130) 銀も 金も玉も なにせむに まされる宝 子に如かめやも   山上憶良(巻5・803)
・ 憶良は「子等を思う歌」長歌反歌を作った。長歌は憶良の歌として第1級の作品である。歌と憶良の信条が一体化している。ここにあげた反歌は憶良の価値観を総括した。又仏典から新しい語感を持つ言葉をもって堅苦しいまでに仕上げている。

(つづく)

文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月20日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第14回
巻 3
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111) 妹として 二人作りし 吾が山斎は 木高く繁く なりにけるかも   大伴旅人(巻3・452)
・ 大伴旅人が都に着いて、わが家を見て詠じた歌である。「山斎(しま)」は庭のこと。都にいない間に、妻と二人して植えた庭の木は大きく茂っていた。単純明快のうちに尽きぬ感慨がこもっている。旅人の感慨が概ね直線的で太いからであろう。
112) あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 吾が大君かも   大伴家持(巻3・477)
・ 安積皇子が17歳で崩じられた時、内舎人であった大伴家持が作った挽歌である。満山の光るまでに咲き誇った花が一時に散ってしまったように、皇子は逝かれた。勉強家の家持はこの歌を作るほどに大成していた。

巻 4
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113) 山の端に 味鳧群騒ぎ 行くなれど 吾はさぶしゑ 君にしあらねば   舒明天皇(巻4・486)
・ 歌の口吻は女性のものであるが、舒明天皇が女の気持になって歌ったものか、或は註には斉明天皇(女性)の御製かもしれないという疑問符がついている。「山の端に 味鳧群騒ぎ」は、「行く」に続く序詞で、君以外の人が多く行き来するが、そこには君がいないので寂しいという意味である。この序詞を実景としても意味が連続して流れる。
114) 君待つと 吾が恋ひ居れば 吾が屋戸の 簾うごかし 秋の風吹く   額田王(巻4・488)
・ 額田王が天智天皇を思うて詠まれた歌である。だから近江京での作である。風が吹くのは恋人が来る前兆だという女性らしい信仰があって、巧まずしてこまやかな情味のこもった歌となった。
115) 今更に 何をか念はむ うち靡き こころは君に 寄りにしものを   安倍郎女(巻4・505)
・ 「心はもうあなたのものだから、今さら何を思おうか」、あなた一筋よというまるで演歌のような女の歌である。安倍郎女の伝は不詳。
116) 大原の この市柴の 何時しかと 吾が念ふ妹に 今夜逢へるかも   志貴皇子(巻4・513)
・ 「大原のこの市柴の」は「いつしか」に係る序詞である。歌の本意は「いつか逢えると思うあなたに、今夜逢えるかも」ということである。
117) 庭に立つ 麻手刈り干し しき慕ぶ 東女を 忘れたまふな   常陸娘子(巻4・521)
・ 藤原宇合が常陸守として数年滞在して、任を解かれて都に帰る時、任地で慣れ親しんだ遊行女婦の一人が別れに詠んだ歌。「庭に立つ 麻手刈り干し」は「しき慕ぶ」に係る序詞であるが、そのままで意味がつながる。「東女を 忘れたまふな」とは現地妻の情味というか、凄みというか、いやはやたくましい女である。
118) ここにありて 筑紫やいずく 白雲の 棚引く山の 方にしあるらし   大伴旅人(巻4・574)
・ 大伴旅人が大納言となって帰京した。大宰府から僧になって残った沙弥満誓から見の寂しさを謳った諧謔の歌が都に届いた。旅人の歌は笑うことができない、真面目に答えて剽軽になれぬ太さがある。
119) 君に恋ひ いたも術なみ 平山の 小松が下に 立ち嘆くかも   笠郎女(巻4・593)
・ 笠郎女(伝不詳)が大伴家持に贈った24首の歌より2首を挙げる。「平山」は平城京の北にある寧楽山で松が生繁っていたところである。笠郎女は相当の才女と思われるが、更に文学の習練が必要であった。歌として解釈されるにはまだまだであるが、簡明素朴の万葉長が残っている。
120) 相念はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後に ぬかづく如し   笠郎女(巻4・608)
・ 上の歌と同じく笠郎女が大伴家持に贈った歌である。才気の勝った諧謔の歌である。心の通じない人を慕うのは、餓鬼絵に額づくようなものだと男を笑い飛ばしている。この「唐変木」めと痛罵している。

(つづく)

文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月19日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第13回
巻 3
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101) 吉野なる 夏実の河の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山かげにして   湯原王(巻3・375)
・ 湯原王(志貴皇子の第2皇子)が吉野で作られた御歌である。「夏実川」は吉野川の一部で、宮滝の上流にある。結句の「山陰にして」は作者の感慨が集中した言葉である。静かなところだと言いたいのであろうか。従来よりこの歌は叙景歌の極めつけのように言われてきた。カの発音が多い(河、川、鴨、かげ)こと、「なる」が2回使われ、平易な歌にリズムを作っている。
102) 輕の池の 浦回行きめぐる 鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに   紀皇女(巻3・390)
・ 紀皇女(天武天皇皇女で穂積皇子の姉)の御歌である。平易な歌で比喩歌で、鴨に寄せて自分の心情を吐露したものである。一説に皇女の恋人の高安王が伊予に左遷された時の歌であろうとされる。
103) 陸奥の 真野の草原 遠けども 面影にして 見ゆとふものを   笠女郎(巻3・396)
・ 笠女郎が大伴家持に贈った歌3首のひとつ。比喩歌で、陸奥の真野は遠いけれども面影にして見えてくるものを、あなたはちっともやって来ないという女の愚痴だという読み方と、「陸奥の真野の草原」までは遠いに係る序詞として、あなたに遠く離れていても、面影は浮かんできますという女のいじらしさと読むこともできる。さてどちらでしょうか。本人に聞いても口を濁して曖昧な事しか言わないもの。
104) 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ   大津皇子(巻3・416)
・ 大津の皇子が謀反の罪で死を賜った時、磐余の池のほとりで、涙を流して読まれた歌と題詞に書いてある。時に24歳であった。妃山辺皇女は髪を洗ったのち殉死したという。「百伝ふ」は五十(い)そして磐余にかかる枕詞になった。磐余の池に鳴く鴨の姿を見るのも今日限りで私は死ぬという意味である。この歌は全生命を託した語気に圧倒されるが、有馬皇子の御歌と同じように、万葉集中の傑作である。
105) 豊国の 鏡の山の 石戸立て 隠りにけらし 待てど来まさぬ   手持女王(巻3・418)
・ この歌と次の歌の2首は、太宰師だった河内王を豊前国鏡山(田川郡鏡山)に葬ったとき、手持女王が詠まれた歌である。女性の語気が自然に出ている挽歌である。事実を淡々と述べて、結句「待てど来まさぬ」で哀惜の情がほとばしり出ている。「石戸」とは石棺の安置された石郭の入り口である。
106) 石戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば 術の知らなくに   手持女王(巻3・419)
・ 前の歌と同じ心境であるが、再生を表現する古事記の天の岩戸神話の話を借用されている。
107) 八雲さす 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 奥になずさふ   柿本人麿(巻3・430)
・ 出雲娘子が吉野川で溺死した。火葬に付した後、柿本人麿が詠んだ歌。人麿と出雲娘子の関係は不詳である。「八雲さす」は出雲にかかる枕詞。「等」は複数ではなく、親しみの詞。「オッフェリア」と同じく、女の水死者の髪が揺蕩うさまは美しくもあり、人麿は真心こめて追悼しているのである。
108) われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処   山部赤人(巻3・432)
・ 山部赤人が下総葛飾の真間の娘子(真間の手児奈)の墓をみて詠んだ長歌の反歌である。「手児名」は処女のこと。歌枕としての「真間の手児奈の墓」を解説する下の句は淡々としたそっけないものであるが、上の句の「われも見つ 人にも告げむ」は赤人の同情が現れている。
109) 吾妹子が 見し鞆の浦の 室の木は 常世にあれど 見し人ぞ亡き   大伴旅人(巻3・446)
・ 太宰師大伴旅人が、大納言を拝命して京へ還るとき、備後鞆の浦を過ぎて詠んだ3首の歌である。「室の木」とは「杜松」である。鞆の浦の室の木はいつまでもあるが、大宰府赴任の旅で妻と一緒に見た大木も、還りの旅では妻は任地で亡くなり、自分ひとりで見ることになった。吾妹子と見し人は同じ人である。
110) 妹と来し 敏馬の埼を 還るさに 独りして見れば 涙ぐましも   大伴旅人(巻3・449)
・ 第2首はさらに進んで摂津の敏馬(みるめ)の埼を過ぎて詠んだ歌である。「涙ぐましの」という句はこの時代に初めて使用された。歌全体は淡々と進むが巧まずして最後に悲哀がどっと出てくる。

(つづく)


文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月18日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第12回
巻 3
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91) 此処にして 家やもいずく 白雲の 棚引く山を 越えて来にけり   石上卿(巻3・287)
・ 持統天皇が志賀に行幸あったとき、石上卿が作られた歌である。左大臣石上麻呂かもしれない。天皇が元正天王であったなら石上豊庭説が有力になる。思えば遠くに来たものだという感情を直線的に言い下している。
92) 昼見れど 飽かぬ田児の浦 大王の みことかしこみ 夜見つるかも   田口益人(巻3・297)
・ 田口益人が上野国司となって赴任する途上、駿河国浄見崎を通過したときの歌である。浄見崎は廬原郡あたりの海岸で、今の興津浄見寺だという。田子の浦は今は富士群だが、昔の廬原郡にもかかる広い範囲の海岸であった。なぜ昼に見ないで夜になったかというと宿の間隔と工程上の理由である。上古の田子の浦の考証では「薩?峠東麓から、由比、蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入江を上代の田子浦とする」トウ説がある。
93) 田児の浦ゆ うち出でて見れば 眞白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける   山部赤人(巻3・318)
・ 山部赤人が富士山を詠んだ長かの反歌である。「田児の浦ゆ」の「ゆ」はよりという経緯を示す言葉である。古来叙景歌の絶唱と称せられ、赤人の最高傑作である。見た位置は、田子の浦の中である。
94) あおによし 寧楽の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛なり   小野老(巻3・328)
・ 大伴旅人が太宰師であったころ、その部下として太宰少弐小野老朝臣であった頃の作である。天平の寧楽の都の繁栄を謳歌して、直線的に豪も滞るところはなかった。内容は複雑であろうがそれは考慮せずに、宏大な気分だけを現した、傑作である。
95) わが盛 また変若めやも ほとほとに 寧楽の京を 見ずかなりけむ   大伴旅人(巻3・331)
・ 太宰師大伴旅人が筑紫大宰府にて詠める歌。旅人63歳ころの作品。のち大納言となって帰京し、67歳で没した。「変若(おち)め」とは若返ることで、前の句で吾が若い盛りが再び戻ってくることがあるだろうか。それは叶わぬことだと言い切っている。辺土に居れば、寧楽都をも見ないでしまうだろう。自在な作風は思想的抒情詩を開拓していったが、歌は明快であった。その分深みが少ない。昔見た吉野の
96) わが命も 常にあらぬか 昔見し 象の小河を 行きて見むため   大伴旅人(巻3・332)
・ 昔見た吉野の象の小河を見るためにも、長生きしたいものだという。「か」は疑問の助詞だが、希う心がある為である。
97) しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖けく見ゆ   沙弥満誓(巻3・336)
・ 沙弥満誓は笠朝臣麻呂で在家出家して満誓となった。筑紫の観音寺を造営したことが続日本記に見える。仏教的観相の歌より、この率直な平易な歌の方が一段上であるとされる。「綿」は「真綿(絹)」のこと。「しらぬひ」は筑紫に係る枕詞。
98) 憶良等は 今は罷らむ 子哭くらむ その彼の母も 吾を待つらむぞ   山上憶良(巻3・337)
・ 山上憶良は遣唐使に従い少録として渡海し、帰ってきてから筑前守となる。筑前守時代の宴会を退出する時の挨拶歌である。子供も女房も泣いているから早く帰ろうという諧謔歌である。憶良は斎藤氏によれば、漢文の素養はあるが、万葉短歌の上代語の声調の理解が乏しく、とつとつとして流れないと批判的である。憶良は明治以降に生活の歌人として評価が高まったし、人間的な実のある歌人であるとされた。この歌はやはり憶良の傑作であろう。
99) 験なき 物を思はずは 一杯の 濁れる酒を  飲むべくあるらし   大伴旅人(巻3・338)
・ 太宰師大伴旅人の「酒を讃むる歌」13首のひとつである。「思はずは」は「思わないで」という意味である。「は」は詠嘆の助詞である。詰まらないことにくよくよせずに、まあ一杯の濁り酒を飲め。この一句は談話言葉による歌である。13首の酒の歌の内、この歌を茂吉は第一にあげる。他の12首の歌を参考に掲載している。思想的抒情詩の分野の歌集である。酒のみの屁理屈集である。
100) 武庫の浦を 榜ぎ回む小舟 粟島を 背向に見つつ ともしき小舟   山部赤人(巻3・358)
・ 武庫浦とは武庫川河口のことで今の神戸市である。「粟島」は淡路島の小島の一つだろうと推測される。「背向に」とは横斜めのことである。「ともしき」とは羨ましいという意味で、見方を変えて小舟を2回繰り返してきれいにまとめている。赤人は場所は違うが同じような情景の歌6首を作り、他5首が参考歌として掲載している。

(つづく)

文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月17日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第11回
巻 3
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81) 天ざかる 夷の長路ゆ 恋い来れば 明石の門より 倭島見ゆ   柿本人麿(巻3・255)
・ この歌は西から東へ戻る船旅の歌である。遠い西の国からの長旅で、都を恋い慕って帰る船で明石の大門辺りまでくると、もう向こうに大和の山が見える。人麿一流の声調で強く大きく豊かにに歌い上げた。「恋来れば」が唯一の主観語である。往きは「見ず」、帰りは「見ゆ」で、気持ち次第で見えなかったり、見えたりする。感情の綾であろうか。
82) 矢釣山 木立も見えず 降り乱る 雪に驟く 朝たぬしも   柿本人麿(巻3・262)
・ 人麿が新田部皇子に奉った長歌の反歌で、後半の句に難しい言葉が二つある。「驟く(うくつく)」とは馬を威勢よく入らせること、「たぬしも」は楽しもという意味である。上半分の句は平明である。矢釣山は高市郡八釣村であろう。人麿らしい出来のいい作品である。結句の「朝たぬしも」の意味であるが、雪の日は早朝におくれないで馬を勢いよく走らせて、伺候すべきという儀を考えるといい。ただし「雪にうくづきまいり来らくも」と訓む人もいる。
83) もののふの 八十うじ河の 網代木に いさよう波の ゆくえ知らずも   柿本人麿(巻3・264)
・ 「もののふの 八十うじ」は物部氏に氏が多いことを宇治川にかける序詞である。直線的でのびのびした調べの歌である。歌には意味の部分が後半の句に来て、前半の句に装飾的声調的序詞で豊かな言葉の世界を構成する技巧がある。だから意味を取るには前半の序詞を飛ばして読む方が混乱が少なくていい。すると歌はあまりに単純で、きれいとか悲しいとかにつきることがある。同じ言葉を何回も繰り返す哀韻は幾度も吟誦して心に伝わるものである。分かりやすいだけが歌ではない。斎藤氏はこの歌を人麿一代の傑作という。
84) 苦しくも 降りくる雨か 神が埼 狭野のわたりに 家もあらなくに   長奥麻呂(巻3・265)
・ 神が埼とは紀伊国牟婁郡の海岸であり、狭野(佐野)は素の西南方にあり、いずれも今は新宮市に編入されている。「わたり」は「渡し場」である。「苦しくも降り来る雨か」の本歌の本質がある。「なんと陰鬱な」と詠嘆する様子が分かる。古来、万葉の秀歌として評価の高い歌である。後代の定家のような空想的模倣歌ではなく、あくまで実地での写生歌に徹している。
85) 淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ   柿本人麿(巻3・266)
・ 人麿の代表歌の一つであるが、近江旧都回顧の歌と同時の作かどうか不明である。「夕浪千鳥」は古代からの定型句のひとつである。下の句「心もしぬに いにしへ思ほゆ」が歌の本質である。真から心が萎れて、昔の栄華が偲ばれる。「汝が鳴けば」はこの歌の転調点となり、後半の沈厚な趣に導かれる。
86) むささびは 木ぬれ求むと あしひきの 山の猟夫に あひにけるかも   志貴皇子(巻3・267)
・ 「木ぬれ」はこずえ梢のこと、「山の猟夫にあひにけるかも」は猟師につかまってしまうという意味である。歌の意があまりに単純で、まさか動物に対する憐みではなかろうとすることから、寓意が取りざたされてきた。「高望みをすると失敗をする」という寓意である。志貴皇子の人生観と感傷というレベルで鑑賞べきと斎藤氏は言う。
87) 旅にして もの恋しさに 山下の 赤のそほ船 沖に榜ぎ見ゆ   高市黒人(巻3・270)
・ 「山下」は紅葉が美しいことから、赤の枕詞に使っている。「そほ」とは赤赭土から朱にたる鉄分を含む塗料のことである。前の句「旅にして もの恋しさに」がこの歌の契機であり全てである。後半の句は写生である。赤い塗料を塗った船が都を目指して通って行く。羇旅の歌の常套手段である。黒人の歌は具象的で写象は鮮明であるが、人麿ほどの切実さはない、通俗と言ってもよい。
88) 桜田へ 鶴鳴きわたる 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴きわたる   高市黒人(巻3・271)
・「桜田」は尾張国愛知郡作良郷(今の熱田)、「年魚市(あゆち)潟」は愛知郡阿伊智(今の熱田南方の海岸一帯)である。陸から桜田の海岸に向かって鶴が群れて通ってゆく様を写生している。潮干になって餌を求めて渡ってくるのである。地名が二つ、桜田と年魚市潟、そして「鶴鳴きわたる」が繰り返されているので、内容はほとんど単純である。だからこそ高古の響きをもつのである。
89) 何処にか 吾は宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば   高市黒人(巻3・275)
・ 「高島の勝野」とは近江高島郡三山の内、いまの大溝町である。黒人の羇旅の歌8首は場所を変えその都度詠まれている。日も暮れたので今日は何処に宿ろうかなという程度の自然的詠歌である。事件性や感傷性は強くない。
90) 疾く来ても 見てましものを 山城の 高の槻村 散りにけるかも   高市黒人(巻3・277)
・ 「山城の高槻村」は山城国綴喜郡多賀郷という説がある。早く来て見たかった山城の高という村の槻の林の黄葉も散ってしまったというのが詠嘆歌の本意である。「高い槻の木」という意味を持たせているようだ。

(つづく)