ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 倉野憲司校注 「古 事 記」 (岩波文庫 1963年)

2017年10月04日 | 書評
稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書 第16回
下 巻
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第21代 雄略天皇
大長谷若建命、長谷の朝倉宮で即位。雄略天皇が大日下王の妹若日下部王を娶ったが子はいなかった。また都夫良意富美の娘韓ヒメを娶って生まれた御子は、白髪命、妹若帯ヒメの二柱。白髪太子の御名代として白壁部を定め、長谷部の舎人、河瀬の舎人を定めた。こんとき中国の呉の人が渡来し呉原に住み着いた。大后、日下(北河内)に居られたころ天皇は日下の直越え道からから河内に出向かれた。山の上から見ると樫の木を使った立派な家を作っている家があった。天皇はこれを見て誰の家かと問うと、志幾の大縣主の家だという。天皇の家と同じ家を作ると言って、その家を焼かせようとした。大縣主は大いに恥じて平身低頭謝罪した。謝罪の贈り物に白い布と鈴をつけた犬と腰佩という名の犬の綱を取る人を献上した。天皇はこれを若日下部王への婚約のお祝い物として進呈した。そして若日下部王は天皇が日を背にして来られるのは恐縮だから、こちらから(河内)倭の宮に出向くことになった。又ある時天皇が遊びに出かけられたとき、美和河で衣を洗う童女がいた。その子が大変可愛かったので名を問うと引田部の赤猪子という。天皇はあなたを娶りたいので、呼ぼうと言って宮に還った。しかし天皇はそのことはすっかり忘れ何十年もたって、その童女は80歳になったので、死ぬ前に天皇に言いたいことがあると言って参内した。天皇は忘れていたことを大いに恥じて、その老女に数々の禄を与えた。天皇が吉野の宮に幸行でましたとき、吉野川のほとりに美麗しい童女がいたので、婚をして宮に還った。又吉野に幸行でまして、呉床を組んで琴を引き、その嬢子に舞をさせた。それから阿岐豆野に出て狩りをしていると、腕に虻が食い付いたがすぐに蜻蛉(秋津)が来てこれを食らった。倭の国を蜻蛉島という。よってこの地を阿岐豆野(あきずの)と呼ぶ。葛城山に登った時、大猪が出てこれを鳴り鏑で射止めたが、猪は唸って迫って来た。天皇は恐れてはりの木に登って難を逃れた。また天皇が葛城山に登られた時に、山の上に天皇の行列と同じ規模の行列を見た。誰ぞと問うにその受け答えも天皇と同じ格式であった。天皇は怒って彼らに矢を射た。そこで名乗るには「我は葛城の一言主大神」であるという。天皇は矢を収めた。また天皇が丸邇の佐都紀臣の娘袁杼(オト)ヒメを婚するために春日に幸行でました時、姫は逃げ隠れた。また天皇が長谷の百枝槻の下で酒宴を開いたとき、伊勢の三重女が大御盞を捧げて献上した。その大御盞の槻の葉が浮いているのを見た天皇は、その女を打ち伏せ首を斬ろうとした。女は歌を歌って助命を願ったので、これを許した。天皇は124歳で崩御、御陵は河内の多治比の高鷲にある。

第22代 清寧天皇
白髪大倭根子命、伊波禮の甕栗宮で即位。この天皇に后も子もなかったので、御名代として白髪部を定めた。天皇が崩御されて、継ぐ人がいなかった。そこで市邊の忍歯別王の妹、飯豊王が葛城の忍海の高木の角刺宮で政を執った。ここで山部連小楯が針間国の宰に赴任した時、志遅牟の館で酒宴がもたれ、傍にいた火焼きの小子二人にも舞をやらせた。その時弟が[「我は伊邪本和気の天皇の御子、市辺の忍歯王の末である」といった。 これを聞いた小楯連は飯豊王に報告し、角刺宮に連れ戻った。弟袁祁王に后を娶るために、平群臣の祖、志毘臣が歌垣に兎田首の娘大魚を連れてきた。二人は歌を掛け合って過ごした。翌日意祁王、袁祁王の二人の御子は、朝廷の臣がほとんど志毘臣の方に向いているのを憤って、志毘臣の家を兵で取り囲みこれを殺した。弟は兄に天皇位を譲り、袁祁王が帝位を継いだ。

第23代 顕宗天皇
伊邪本和気の天皇の御子、市辺の忍歯王の御子袁祁の石巣別命、近飛鳥宮(南河内)で即位した。天皇は石木王の娘難波王を娶ったが、子はなかった。天皇は父市辺王の御骨を探したが、淡海国の老婆が王の御骨の場所を覚えていたので、そこに御陵を作り韓?を守り部とし、老婆に置目老媼という名を与え、宮の中に屋を与えた。毎日鈴を鳴らして置目老媼を呼んで語らったという。昔兄弟が針間国に逃げる途中で山代の猪甘という老人に食べ物を奪われたが、天皇はその老人を捕まえ飛鳥の河原で老人とその一族を皆殺しにした。その場所を志米須(しめす)という。天皇は父市辺王を殺した大長谷天皇を恨んで、その御陵をこわそうとしたが、兄意祁王は他人にやらせるのではなく自分が壊してくるといって、御陵の片隅を少し掘って壊してきたと天皇に報告した。そのあまりに簡単なことをいぶかった天皇に対して、意祁王は「父の恨みに違いないが、大長谷天皇は叔父にあたり、また天皇でもあた御陵を壊しては後世の人の誹りを招く。だから少しだけ壊して恥を見せるだけでいい」といった。天皇は理ありと考え、復讐を断念した。顕宗天皇は38歳で崩御され、御陵は片岡の石坏の岡にある。意祁王が帝位を継いだ。

(つづく)