ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月07日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第1回
序(その1)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「万葉集」は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年以後とみられる。「万葉集』」の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説があり、「古事記」の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。「万葉集」の成立に関しては、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、「万葉集」は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。「万葉集」二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、おおむね以下の順に編集されている。
第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。
第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。
第3期は、733年(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。
第4期は、759年(天平宝字3)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。

歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。
ただし、この万葉集は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり大伴家持一族も連座したためである。その意味では、「万葉集」という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集が封印され、ようやく平安時代になってに本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから「万葉集」が史料にみえるようになったといわれている。
万葉集は万葉仮名で書かれている。万葉仮名で書かれた大伴家持の歌と訓読みを下に記すが、この例の訓への読み方は比較的簡単な方であるが、なかには必ずしも容易ではなく異義を発生する場合が多い。註釈書が数多く発行されてきた。
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)

万葉集の諸本は大きく分けて、古点本、次点本、新点本に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の九割にあたる四千以上の歌が訓みをつけられた。次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果をさし、藤原道長、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼、藤原基俊、顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。新点本は仙覚が校訂した諸本をさす。「万葉集」は全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されて寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本により歌数も種々様々である。各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌・挽歌の三大部類になっている。
雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。
挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。

(つづく)