ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月30日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第24回
巻 10
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211) 秋萩の 枝もとををに 露霜置き 寒くも時は なりにけるかも   作者不詳(巻10・2170)
・ 「枝もとををに」は「枝も撓うくらい」という意味。「露霜」は初冬の寒露のこと。「寒くも時は」の「も」、「は」の助詞が感嘆の意を深めている。
212) 九月の 時雨の雨に 沾れとほり 春日の山は 色づきにけり   作者不詳(巻10・2180)
・ 「時雨の雨に 沾れとほり」がこの歌の中心である。のびのびと秋の景観を歌い上げている。空気の温度と清涼感を現すこのような表現は成功している。
213) 大阪を 吾が越え来れば 二上に もみじ葉流る 時雨零りつつ   作者不詳(巻10・2185)
・ 「大阪」とは大和北葛城郡下田村で大和から河内に抜ける坂である。二上山はその峠の南に位置するので坂を越えると二上山の紅葉が見えるのである。「もみじ葉流る」とは、時雨が横殴りに降ると紅葉葉も流れるのである。
214) 吾が門の 浅茅色づく 吉陰の 浪柴の野の もみじ散るらし   作者不詳(巻10・2190)
・ 「吉陰(よなばり)の浪柴(なみしば)の野」とは大和磯城郡初瀬町の東にある。持統天皇も行幸されたことがある。「自分の家の門前の浅茅が色づくころ、もう浪柴の野の黄葉がちるだろう」
215) さを鹿の 妻喚ぶ山の 岳辺なる 早田は苅らじ 霜は零るとも   作者不詳(巻10・2220)
・ 「もう早稲田は実っているだろう、しかし牡鹿が妻を喚ぶ丘に霜が降る季節になっても、鹿が哀れで稲を刈り取れないでいる」 主観語は一切使用していない。人間的感情が、有情・非情に及ぶことを「人間的」と呼ぶ。
216) 思はぬに 時雨の雨は 零りたれど 天雲霽れて 月夜さやけし   作者不詳(巻10・2227)
・ 「思いがけず時雨が降ったけれど、何時の間にか雲が無くなって月明かりとなった」というだけの平明な歌であるが、すらすらと言い連ねて充実した内容になっている。
217) さを鹿の 入野のすすき 初尾花 いづれの時か 妹が手まかむ   作者不詳(巻10・2277)
・ 前半の句は序詞で、「いづれの時か 妹が手まかむ」だけが意味部分である。「いつになったらあなたと寝られるのだろう」に尽きる。入野は山城国乙訓郡大原野上羽にある入野神社辺りである。鹿の居る入野はススキか初尾花のいずれだろうかと言って、いずれの時かに結び付ける。手の込んだ序詞テクニックで、初めて読んだときは面食らうのである。
218) あしひきの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降り来る   作者不詳(巻10・2277)
・ 高い巻向の山の「山かも高き」という表現は万葉の常套句で、「岸の小松に み雪降り来る」が歌の中心である。
219) あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降りければ   柿本人麿歌集(巻10・2315)
・ 「白橿の枝も撓むほどに雪が降ったので、山道は見えなくなった」
220) 吾が背子を 今か今かと 出で見れば 沫雪ふれり 庭もほどろに   作者不詳(巻10・2323)
・ 「ほどろに」は消えやすい沫雪がぼったりと庭に積ったということである。雪の降る夜に今か今かと男を待つ女の恨めしい語気が伝わる。

(つづく)