ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月11日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第5回
巻 1
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21) 潮騒に 伊良虞の島辺 榜ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島周を   柿本人麿(巻1・42)
前の歌の続きで、場所は三河渥美郡の伊良虞辺りへ移動している。島巡り航路で難渋しているのではないかと、細やかな情を見せている。「妹乗るらむか」がこの句の中心であるという。
22) 吾背子は いづく行くらむ 奥つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ  当麻真人の妻(巻1・43)
・ 当麻真人の妻が夫の旅立ち後に読んだ歌である。「奥つ藻の」は名張に係る枕詞である。古来この歌は万葉秀歌として愛されてきたが、分かりやすさと口調がいいからである。 
23) 阿騎の野に 宿る旅人 うらなびき 寐も寐らめやも 古おもふに   柿本人麿(巻1・46)
・ 軽の皇子が阿騎野{宇陀郡松山市)に宿られて、父日並皇子(草壁皇子)を偲ばれた。のちに軽皇子が文武天皇となられる前の歌である。柿本人麿は4首の歌を作って、この句は最初の句である。「やも」は強い反語で、感慨を籠めている。 
24) ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ   柿本人麿(巻1・48)
・ 前の第2句目の歌である。たるみのない一気に歌い上げた傑作である。明け方の強い光に触発されて生まれた名句である。  
25) 日並の 皇子の尊の 馬並めて 御猟立たしし 時は来向ふ   柿本人麿(巻1・49)
・ 前の第4作目の歌で、軽皇子が狩りをなされる朝が来た。父の日並皇子の為されたように馬揃えをして群馬を走らせる日だという期待を柿本人麿が述べている。総じて人麿の歌は重厚で軽薄さがない。万葉集において最も尊敬された歌人が人麿である。  
26) 采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く   志貴皇子(巻1・51)
・ 飛鳥から藤原の今日に遷られ、人がいなくなってさびれた飛鳥の旧都には今日も風が吹く。 「采女」は古い訓では「たをやめ」、「たわれめ」と呼んだ。それでは安定が悪いので「うねめ」と読まざるを得ない。
27) 引馬野に にほふ榛原 いり乱り 衣にほはせ 旅のしるしに   長奥磨(巻1・57)
・ 太上天皇(持統天皇)が三河に行幸された時、長忌寸奥磨が詠んだ歌。 引馬野は浜松付近の野である。榛はハンの実か萩の花かというと、ハンの木は摺りぞめにできないので、萩と理解すべきか。かくも万葉仮名を訓読みする時には疑義が生じやすい。
28) いづくにか 船泊すらむ 安礼の埼 こぎ回み行きし 棚無し小舟   高市黒人(巻1・58)
・ 高市黒人は持統・文武両朝に仕えたので、柿本人麿と同時代の人である。安礼の埼は三河国の埼だが場所は不明である。結句のたよりない感じが漂う「棚無し小舟」は4・3調の名詞止で、緊張感のある言葉だ。  
29) いざ子ども はやく日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ   山上憶良(巻1・63)
・ 山上憶良が遣唐使で唐に居る時に、還りの出帆近い時期に作った故郷を思う歌。大伴の御津とは難波の湊の地域の名である。 前の句に期待の緊張が走るが、下の句は多少たるんでいる。山上憶良は漢文の教養が高かったが、大和詞の伝統的な声調を理解できなかったという。
30) 葦べ行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ   志貴皇子(巻1・64)
・ 文武天皇が難波宮に行幸された時、志貴皇子(天智天皇の第4皇子)が同行して詠んだ歌。歌の調子は平明でありながら定式に陥ることはなかった。「霜降りて」という言葉が断定的に響いてここちよい。

(つづく)