ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月26日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第20回
巻 8
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171) 石激る 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも   志貴皇子(巻8・1418)
・ 「石激る」は「垂水」の枕詞であるが、意味が十分に伝わるので、形状を述べる言葉の形式化、様式化と見なし得る。「垂水」はあまり大きくない滝と理解される。巌の面を音たてて流れ落ちる滝のほとりには、もう蕨が萌え出ずる春となった。悦ばしい。志貴皇子の御歌は歌調が明朗・直線的で、荘重な歌である。「垂水の上の さ蕨の」で「の」を3回連ねるリズムが素晴らしい。「春になりにけるかも」で「に」をつらねる響きもまた良いものである。万葉集の「なりにけるかも」の用例は多いが、志貴皇子の御歌はけだし万葉集の傑作ともいえる。
172) 神奈備の 伊波瀬の杜の 喚子鳥 いたくな鳴きそ 吾が恋益る  鏡王女(巻8・1419)
・ 鏡王女は額田王の姉に当たり、始め天智天皇の寵愛を受け、藤原鎌足の正妻となった。つまり天智天皇のお古を鎌足が有り難くいただいたのである。これも臣たるもの政略であろう。神奈備とは龍田の神奈備で、龍田町の南の杜が伊波瀬の杜である。呼子鳥は閑古鳥である。神奈備の伊波瀬の杜に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋心が増すばかりだからという意味である。時代は万葉前期に相当するので、そのころの純粋な響き・語気を伝えている。
173) うら靡く 春来たるらし 山の際の 遠き木末の 咲きゆく見れば   尾張連(巻8・1422)
・ 尾張連とあるが、伝不詳。山間の遠くまで続く木立には多くの花が咲いている。もう春になったのだ。花は山の麓から頂上へ向けて駆けあがってゆく様子である。華やいだ感慨がつたわる。
174) 春の野に 菫採みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜宿にける   山部赤人(巻8・1424)
・ 春の野に菫を採みに来た自分は、野を懐かしく思って一夜宿たという。恋愛歌とも受け取れる。赤人の歌は晴朗な響きのする歌である。万葉第一流の歌人といわれる。
175) 百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも   山部赤人(巻8・1431)
・ 是も赤人の歌である。百済野は大和北葛城郡百済村の原野である。冬がれた萩の木は相当高い木になったようだ。その枝に居て春を待つうぐいすが鳴き始めたようだ。あまり構えずに気品を以て居るのはさすが赤人の歌であるからだ。
176) 蛙鳴く 甘南備河に かげ見えて 今か咲くらむ 山吹の花   厚見王(巻8・1435)
・ 甘南備河は飛鳥川にしておく〈龍田川でもかまわない)。この歌が後世の新古今に載っているのは、この歌の中心をなす「かげ見えて」と「今か咲くらむ」が後世の詞の先取りであるからだ。軽い歌であるが、後世本歌として模倣されたのである。
177) 平常に 聞くは苦しき 喚子鳥 こゑなつかしき 時にはなりぬ   大伴坂上郎女(巻8・1447)
・ 大伴坂上郎女が佐保の自宅(大伴安麿)で詠んだ歌。普段は聞き苦しい声で鳴く閑古鳥も、春になると懐かしい聞かれる季節になった。季節の変化に敏感な女の心に触れている。「時にはなりぬ」に詠嘆がこもっている。
178) 波の上ゆ 見ゆる児島の 雲隠り あな気衝かし 相別れなば   笠金村(巻8・1454)
・ 遣唐使(多治比真人広成)が立つときに、笠金村が贈った長歌の反歌である。波の上の小島のように見えなくなってしまって、ああ息衝くことだ、別れは悲しいことだ。「あな気衝かし」とは、吐息をつくという感嘆詞を唯一使っている。
179) 神名火の 磐瀬の杜の ほととぎす ならしの岳に 何時か来鳴かむ   志貴皇子(巻8・1466)
・ 前の句で鏡王女が「神奈備の伊波瀬の杜の喚子鳥」を謳ったが、大伴家持は「神名火の磐瀬の杜のならしの丘の霍公鳥」を謳った。場所(竜田川)を同じくする、同じ構図の歌である。志貴皇子の歌はおおらかで、感傷の詞はないが独特の風格を感じさせるという。
180) 夏山の 木末の繁に ほととぎす 鳴き響むなる 声の遥けさ   大伴家持(巻8・1494)
・ 大伴家持の霍公鳥の歌は、夏木立の中で聴く、木立で反響した遥かな声であったという。「声の遥けさ」がこの歌の中心である。こだまする声の現実感がすばらしい。

(つづく)

文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月25日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第19回
巻 7
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161) しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿は無くして   作者不詳(巻7・1140)
・ 「しなが鳥」とは猪名に係る枕詞。しなが鳥は鳰とりのことで、「しなが鳥居並ぶ」の「居」と「猪」が同音なので、猪名野の枕詞になった。猪名野は摂津猪名川流域の平野である。「有馬山」は有馬温泉のあるあたりである。猪名野に来ると有馬山に夕霧が出ている。さて困った野宿はできないしという意味になる。
162) 家にして 吾は恋ひなむ 印南野の 浅茅が上に 照りし月夜を    作者不詳(巻7・1179)
・ この歌は旅先で詠んだ歌か、家に戻ってから読んだ歌か議論のあるところだ。この本では羇旅で詠んだことになっている。印南野は「いなみぬ」と読む。とすれば印象がかなり鮮烈で、この景色はきっと思い出すことになると予感した歌のようである。
163) たまくしげ 見諸戸山を 行きしかば 面白くして いにしえ念ほゆ    作者不詳(巻7・1240)
・ 「見諸戸山」とは後室処山」すなわち三輪山のことである。「たまくしげ」は三輪山に係る枕詞で、「面白く」は感深いという意味である。三輪山の風景が佳くて神々しく感じられるので、神代のことも思われるという意味である。
164) 暁と 夜烏鳴けば この山上の 木末の上は いまだ静けし   作者不詳(巻7・1263)
・ 「山上」は「をか」または「みね」と読む。もう夜が明けたといって夜烏が鳴くけれど、岡の木立はまだひっそりとしている。還る男を引き留める女の心情かもしれない。万葉の歌はだいたい男女関係の歌と見た方が無難な場合が多い。
165) 巻向の 山辺とよみて 行く水の 水泡のごとし 世の人吾は   柿本人麿歌集(巻7・1269)
・ 妻を亡くして嘆き悲しむ人の歌であろう。人の人生は、巻向山の近くを音を立てて流れる川の水のようにはかないものであるという意味になる。仏教用語の無常の観念から生まれた歌ではなく、川のたぎつ流れを見てから出てきた表現であるという。
166) 春日すら 田に立ち疲る 君は哀しも 若草の 嬬なき君が 田に立ち疲る   柿本人麿歌集(巻7・1285)
・ この歌は短歌ではなく旋頭歌である。柿本人麿歌集には旋頭歌が23首ある中のひとつである。万葉集には旋頭歌は少なく、内容的には古歌歌謡(労働歌)を人麻呂が集めたともいわれる。
167) 冬ごもり 春の大野を 焼く人は 焼き足らねかも 吾が情熾く   作者不詳(巻7・1336)
・ 比喩歌で「草に寄する」というが、激しい恋心を謳う。「冬ごもり」は春の枕詞。私の胸が燃えて苦しいのは、あの大野を焼く人が焼き足らないで、私の心を焼くのかしらという意味である。恋心と春の野焼きが連想させられるが、「焼く」を3回繰り返すところに民謡風の軽いリズムが発生する。
168) 秋津野に 朝ゐる雲の 失せゆけば 昨日も今日も 亡き人念ほゆ   作者不詳(巻7・1406)
・ 熊野の秋津野(火葬場がある)に朝雲がなくなるたびに、昨日も今日も亡くなった人のことが思い出されるという意味である。挽歌としてとくに優れているわけではないが、「雲の失せゆけば」という言葉が哀愁を呼ぶのである。
169) 福の いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹が音を聞く   作者不詳(巻7・1411)
・ 「福」は「さきはひ」と読む。自分の事は書いていないが、前提として、自分は早く恋しい妻を亡くしたが、白髪になるまで健やかで妻の声を聴ける人は幸せであるという意味になる。
170) 吾背子を 何処行かめと ささ竹の 背向に宿しく 今し悔しも   作者不詳(巻7・1412)
・ 「ささ竹の」は背向に係る枕詞。「何処行かめ」とは「あの世に行ってしまうとは」という意味である。私の夫が死んで行くなどとは思いもよらず、(生前にはつれなくも)背を向けて寝たりして、今となってはそんな自分が悔しい。

(つづく)

文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月24日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第18回
巻 7
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151) 春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも 清けかりけり   作者不詳(巻7・1074)
・ 作者不詳の民謡調の歌である。「この」は「現に今」という限定の意味である。春日山一体を照らしている月明かりは、妹の家にも現に清く照らしているという意味である。のびのびした濁りのない歌は、「妹が庭にも 清けかりけり」という結句で個別的、具体性を帯びるのである。
152) 海原の 道遠みかも 月読の 明少なき 夜はふけつつ   作者不詳(巻7・1075)
・ 海岸に居て、夜更けに上った月は光りが清明ではなくいくらか霞んでいるように見える。光が海原をはるばると通ってくるためだろうか。主観的にそう思うだけなのか、海上の水分を含んだ空気の為なのか、それは云々していない。
153) 痛足河 河浪立ちぬ 巻目の 由槻が岳に 雲立てるらし   柿本人麿歌集(巻7・1087)
・ 痛足河(あなしがわ)は大和纏向村にある、今の巻向川のことである。巻目(まきむく)ともいう。「由槻が岳」は巻向山の高い一峰である。痛足河に浪が立っている。おそらく由槻が岳に雲が立ち雨が降っているのだろうという意味である。「河浪立ちぬ」と「雲立てるらし」の繰り返しにそれほど違和感がない。固有名詞を三つ並べても荘重な響きを保てるのは人麿の作であろうと推測される。
154) あしひきの 山河の瀬の 響るなべに 弓月が岳に 雲立ち渡る   柿本人麿歌集(巻7・1088)
・ 前の歌をそのまま引き継いだ歌である。「山川」とは「痛足河」のことであり、「弓月が岳」とは「由槻が岳」のことである。違う点は中間の「なべに」という言葉である。共に、連れてという意味である。ふたつの自然現象(川浪が立つことと、岳の上に雲が立つという事)をそのままさながらに表現した写生の極地というべき作品である。山が雲で隠れる時にはすでに山には雨が降っている、そしてその結果川の水量が増え波立つのである
155) 大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ浪に 立てる白雲   作者不詳(巻7・1089)
・ 持統天皇が伊勢に行幸されたとき、従者が詠んだ歌と推測される。大海には山を持つ島は一つもないのに、たゆとう海上の波には白雲が立っているという意味である。この海原の自然現象をここまで大きく歌うことができるのは人麿クラスの歌人であろう。
156) 御室斎く 三輪山見れば 隠口の 初瀬の檜原 おもほゆるかも   作者不詳(巻7・1095)
・ 「御室斎く」は神を祀る社がある」という意味で、三輪山に係る枕詞である。「隠口の」は山で囲まれた地勢を示し「初瀬」の枕詞である。三輪山の檜原を見ると初瀬の檜原を思い出すという。鬱蒼とした檜の山林は神聖な場所と古代人には映ったのである。
157) ぬばたまの 夜去り来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き   柿本人麿歌集(巻7・1101)
・ 夜になると、巻向川の川音が高くなった。多分嵐が強いのだろうという意味である。単純な内容だが、前の歌と同様に流動的で調子が強い。結句の「嵐かも疾き」で強く締まっている。結語が「疾き」という二語で終わるのは万葉集でも珍しい。「独りかも寝む」などがある。人麿を彷彿とさせる歌である。
158) いにしえに ありけむ人も 吾が如か 三輪の檜原に 挿頭折りけむ   柿本人麿歌集(巻7・1118)
・ 今の吾にのように、昔の人も三輪の檜原に入って挿頭を折ったのだろうか。品が佳く情味のある歌である。昔の人は何の木でも小枝を折って頭に刺した。
159) 山の際に 渡る秋沙の 行きて居む その河の瀬に 浪立つなゆめ   作者不詳(巻7・1122)
・ 「秋沙」とは鴨の一種で小鴨といった。山際を飛ぶ小鴨が川に宿るだろう。その川に浪を立てないでくれという意味である。小鴨に愛情が集中して、妙に象徴的な意味合いを持ってくる。近代歌としても通用する。
160) 宇治川を 船渡せと 喚ばえども 聞こえざるらし 楫の音もせず   作者不詳(巻7・1138)
・ 山城の宇治川で作られた歌。宇治川の岸に来て、船を渡せと叫んでも、漕いでくる楫の音もしない。宇治川の急流を前にして、大きさを感じさせる歌である。

(つづく)


文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月23日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第17回
巻 6
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141) ぬばたま 夜の深けぬれば 久木生うる 清き河原に 千鳥しば鳴く  山部赤人(巻6・925)
・ 「ぬばたま」は夜にかかる枕詞、「久木」とは歴木とも書き赤目柏である。夜景で河原で鳴く千鳥が主役のたわいもない歌である。実景として見たかどうかも怪しい。夜ー久木ー清きー千鳥の写像の流れで歌っている。分かりやすいスケッチ映像で統一されている。
142) 島隠り 吾が榜ぎ来れば 羨しかも 大和へのぼる 真熊野の船  山部赤人(巻6・944)
・ 山部赤人が播磨国室津の沖にある辛荷島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。山部赤人の乗った船は大和から西に向かっていたのだろう。熊野は木材の宝庫であり、その材で作った船を真熊野船といった。歌の真ん中で「羨しかも」が効果的に存在し、まるで東西する船が交差するように、西に下る船の人がが東の大和に上る船の人を羨んだ様子が図解されるようである。
143) 風吹けば 浪か立たむと 伺候に 都多の細江に 浦隠り居り  山部赤人(巻6・945)
・ 前の作の続きである。この風で浪が荒くなるだろうと様子見をしながら、都多の細江の河口に船を寄せて隠れているのである。「伺候(さもろふ)」とは様子を伺うことである。「都多の細江」とは姫路の西南の津田あたりである。羇旅の苦しさは歌の常套手段で、むしろ冷静に旅を楽しんでいるようだ。赤人をもって叙景歌人の最右翼としたのもうなずける。赤人の歌は激情を排し、しずかに落ち着いて物を見ていることに感心させられる。
144) ますらをと 思へる吾や 水茎の 水城のうへに 涙拭はむ   大伴旅人(巻6・968)
・ 大伴旅人が大納言を牽引して大和に還るとき、多くの見送人のなかに児島という遊行女婦が歌を贈って別れを惜しんだ。旅人の歌はそれに応えたものである。「水茎の」は「水城」に係る枕詞。自分はますらおと自任しても、お前との別れがつらく、水城のうえに涙を落としている。諧謔の歌に分類されそうであるが、決して軽薄ではなくしっとりした情緒を演出している。
145) 千万の 軍なりとも 言挙げせず 取りて来ぬべき 男とぞ念ふ   高橋虫麿(巻6・972)
・ 藤原宇合(不比等の子)が西海道節度使(西方面師団)になって赴任する時、高橋虫麿の詠んだ歌。「言挙げせず」は不言実行の精神である。命を受けたら、あれこれいわずに、直ちに敵を討って取ってくるのが男だという意味である。この歌は調べを強くして、武将を送るにふさわしい声調を出している。茂吉はこれを万葉調の神髄だというが、もうそれはないと嘆いている。
146) 丈夫の 行くとふ道ぞ 凡ろかに 念いて行くな 丈夫の伴   聖武天皇(巻6・974)
・ 聖武天皇の御製。唐の制度に倣って節度使の制を敷いた。四道(東海、東山、山陰、西海の方面軍)の常駐軍制度となった。任地に赴く節度使に与えた聖武天皇の歌である。ますらおたちよ、夢おろそかに思わず大任を果たせという意味である。
147) 士やも 空しかるべき 萬代に 語りつぐべき 名は立てずして   山上憶良(巻6・978)
・ 山上憶良が病に臥した時、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を使として、病を問うたことへ答える歌である。丈夫として後の代に伝えられるような名を立てないで死ぬのは残念だという意味である。中国の思想として歴史に名を記されることが最大の名誉とされた。歌としては大づかみで感慨は少ないのはやむを得ない。
148) 振り仰けて 若月見れば 一目見し 人の眉引き おもほゆるかも   大伴家持(巻6・994)
・ 大伴家持の作った「三日月(若月)の歌」である。三日月は一目見た美人の眉引きの様だというたわいもない歌である。
149) 御民われ 生ける験あり 天地の栄える時に 遭へらく思えば   海犬養岡麿(巻6・996)
・ 海犬養岡麿が詔に応えたうたである。こうした政治色の強い歌は、おうおう天皇が気持ちよくなるだけが目的の「ごますり歌」に堕して、無内容な歌になる。それでも歌にするにはそれなりの力量が要求される。万葉前半期には耐える力量を持つ歌人がいたが、後半期には存在しない。
150) 児等しあらば 二人聞かむを 沖つ渚に 鳴くなる鶴の 暁の声   守部王(巻6・1000)
・ 聖武天皇が難波宮に行幸あった時、守部王(舎人親王の子)が応えた歌である。歌の内容はさしたることもないのだが、茂吉はこの歌が後世新古今和歌集時代の「名詞止めの歌調」の先駆けを為すからだという。結句を「暁の声」で締めている。上代の古調歌にはない名詞止めの歌であるからだ。

(つづく)

文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月22日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第16回
巻 5
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131) 常知らぬ 道の長路を くれぐれにと 如何にか行かむ 糧手は無しに   山上憶良(巻5・888)
・ 肥後国益城郡に大伴君熊凝という若者が、相撲部領使いの従者として都に向かう途中、安芸国高庭駅で病死した。18歳であった。詞書には、死にのぞんだ彼の心境を山上憶良が歌にしたと書かれてる。6首のうちの一つである。「かって知らなかった黄泉の国への長い道を、おぼつかなくも心悲しく、糧米も持たずにどう行けばいいのだろうか」という意味である。
132) 世間を 憂しと恥しと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば  山上憶良(巻5・893)
・ 万葉集の中で特異な位置を占める憶良の「貧窮問答歌」の反歌である。「やさし」は「恥ずかし」という意味である。反歌は長歌の総括的役割であった。一首の意味は「吾々は世間が辛いとか恥ずかしいとか言ってみたところで、鳥のように飛んでどこかへゆけるわけではない」という。筑紫国守でもあった憶良が貧しい生活をしていることはないのだから、実生活を表現するというより、観念歌から出発している。そして憶良の長歌には中国の出典を見つけることができる。
133) 慰むる 心はなしに 雲隠り 鳴き行く鳥の 哭のみし泣かゆ  山上憶良(巻5・898)
・ 老病のために苦しんでいても慰める手段もなく、雲隠れして鳴く鳥のように、一人忍び泣きをするばかりですという意味だ。観念歌であることは分っているが、なぜか悲しい響きが漂うので心が惹かれると茂吉は評している。
134) 術もなく 苦しくあれば 出でて走り 去ななと思へど 児等に障りぬ  山上憶良(巻5・899)
・ もう手段も尽きて、苦しくて仕方がないので走り出して自殺しようと思うのだが、子どものことを思うとそれもできない問意味である。観念歌でも概括的に言わないで具体的に言うのでリアリティがある。朴訥とした調べは憶良独特のものであり共感を生むのである。万葉集の時代にこれだけの材料を使いこなす力量はやはり群を抜いている。
135) 稚ければ 道行き知らじ 幣はせむ 黄泉の使い 負ひて通らせ  山上憶良(巻5・905)
・ 「男子 古日を恋ふる歌」 註には作者は不明だが、憶良の作と言ってもいいだろうとする。この死んでゆく幼子は冥途への道も知らない。冥途の番人よ、お礼はするから、この子を背負って通してやってくれという意味である。仏教的内容をぼつぼつと語る憶良の語り口は妙に具体的で、説得力があル、それが憶良の強みである。
136) 布施置きて 吾は乞ひ祷む 欺かず 直に率行きて 天路知らしめ  山上憶良(巻5・906)
・ この歌も前の歌と同じ趣旨の歌で、布施は仏教語で捧げものという意味で、前の歌の「幣」と同じである。ただ「黄泉」は使わず「天路」という言葉を使用する。どちらも死者の往く道であるが、「天路」は日本的表現である。「欺かず直に率行きて」は妙に諧謔的である。地獄の沙汰も金次第ではなかろうが、子供への哀惜がそう言わしめたのであろう。

巻 6
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137) 山高み 白木綿花に 落ちたぎつ 滝の河内は 見れど飽かぬかも  笠金村(巻6・909)
・ 元正天皇吉野離宮に行幸あった時、従駕の笠金村が作った長歌の反歌である。「白木綿花」とは栲(たえ)の川から作った白布である。その白布のように落ちる滝の状況を謳っている。「山高み白木綿花に」までは序詞と見てよい。「河内」は地名ではなく、河川敷を含めた川を遶る土地をさす。結句「見れど飽かぬかも」は万葉集の常套詞である。この歌は華朗で荘重に作っているが、類型的、図案的で人麿からの借り物が多い。人麿の語句、朗々とし荘重な歌調は万葉の伝統であった。
138) 奥つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠れゆかば 思ほえむかも  山部赤人(巻6・918)
・ 聖武天皇が紀伊国に行幸された時、従駕の山辺赤人が作った長歌の反歌である。「奥つ島」とは此処では玉津島のことである。潮が満ちて荒磯の玉藻が水面下に隠れてしまって、心残りがするという意味である。歌の内容としては何の変哲もない「ごますり歌」である。
139) 若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 蘆辺をさして 鶴鳴き渡る  山部赤人(巻6・919)
・ 前の歌の続きである。「若の浦」とは今は和歌の浦と書くが、弱浜とも書いた。若の浦に潮が満ちてくると干潟が無くなり、鶴は陸地の蘆辺を目指して鳴き渡るという意味である。写生像が鮮明でうまい歌である。「潮満ち来れば潟を無み」が説明的言わずもがなの感がある。高市黒人はこの歌に先行する同じ情景の歌で「潟を無み」は使わず、「鶴鳴き渡る」を2回繰り返している。黒人の歌の模倣といわれてもしかたないが、この歌は叙景歌の極みとして通俗化された。
140) み芳野の 象山の際の 木末には 幾許も騒ぐ 鳥のこゑかも  山部赤人(巻6・924)
・ 聖武天皇が紀伊国に行幸された時、従駕の山辺赤人が作った歌の続きである。「象山」は吉野離宮の近くの山である。一首の歌の意味は「芳野の象山の木立の繁みには、実にたくさんの鳥が鳴いている」というだけの中身の少ない歌である。「幾許(ここだ)」という強めの副詞が特徴的である。

(つづく)