ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月14日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第8回
巻 2
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51) 小竹の葉は み山もさやに 乱れども 吾は妹おもう 別れ来ぬれば  柿本人麿(巻2・133)
・ 前の歌の続きである。サとミで調子を取る歌で決して軽薄に流れてはいない。聴覚的な歌である。前半の句は写生的であり、後半の「吾は妹おもう 別れ来ぬれば」が本論である。
52) 青駒の 足掻を速み 雲居にぞ 妹があたりを 過ぎて来にける  柿本人麿(巻2・136)
・ 人麿が岩見から大和へ上る時の歌である。「青駒」は「黒馬」のことである。馬に乗って駆け足で山を越えるさまを表現し、妻の居る里の辺りから遠く離れて、雲にかすんで何も見えなくなったというのである。
53) 磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば 亦かえり見む  有馬皇子(巻2・141)
・ 有馬皇子(孝徳天皇皇子)が斉明天皇の時、蘇我赤兄に欺かれ、天皇に紀伊の牟婁温泉へ行幸を勧め、その間に謀反を決行することを企てたが、事が露見して赤兄によってとらえられ、牟婁温泉の行宮に送られて処刑された。この歌は行宮へ送られる途中の磐代海岸を通過した時の歌である。「天と赤兄を知る」という激烈な皇子の詞は、自分を抹殺するために天皇と赤兄がしくんだ謀略を知ったという意味だが、なおこの歌には話せばわかる式の楽観的な気分が残っており、願いを枝に括り付けるとかなうつもりでいた様だ。現実は甘くはなかった。19歳の皇子には即刻死刑であった。
54) 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る  有馬皇子(巻2・142)
・ 前の有馬皇子の歌に続く。気楽な旅のお話になっており、痛烈、感慨的な言葉は何もない。しかし史実を取り去ってもなおこの歌は尋常な世界から異常な世界へ移行することを暗示している。この歌からそこまで感じなけれbならないという。
55) 天の原 ふりさけ見れば 大王の 御寿は長く 天足らしたり  倭姫皇后(巻2・147)
・ 天智天皇が突然病に倒れられたときの倭姫皇后の歌である。9月に倒れ12月に崩御という急なことであった。天皇の寿命は長く続く(続いてほしい)という希望を述べたものである。
56) 青旗の 木幡の上を 通うとは 目には見れども 直に逢はぬかも  倭姫皇后(巻2・148)
・ 前の歌に続く歌であるが、天皇崩御後の御作歌である。木幡は山城(山科)の木幡で天智天皇の墓のことで、目にはありありと思い浮かべることができるが、直接にお逢いできることはないという意味である。御歌は単純蒼古で万葉集中の傑作のひとつであるという。
57) 人は縦し 思い止むとも 玉かづら 影に見えつつ 忘れぬかも  倭姫皇后(巻2・149)
・ 前の歌に続く。「玉鬘」とは日陰蔓を髪にかけて飾ることから、かけから影に掛けた枕詞である。装飾語的な枕詞よりもう少し実体的な(写像的な)意味を持たせている。人はたとえ忘れても、私には天皇の面影が何時までもかかって忘れられないという趣旨である。前の句が主観的な言葉を使っているが、本歌は少し弱い。
58) 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなくに   高市皇子(巻2・158)
・ 十市皇女(天武天皇の長女、母は額田王、高市皇子の姉、弘文天皇の后)が亡くなられたとき、高市皇子が詠んだ歌。十市皇女は壬申の乱後明日香浄御原宮に帰っていたが、急逝された。挽歌として、道は黄泉の国への道であろう。十市皇女を山吹の花に比していることは言うまでもない。
59) 北山に つらなる雲の 青雲の 星離りゆき 月も離りて   持統天皇(巻2・161)
・ 天武天王崩御の時、皇后(後の持統天皇)が詠まれた歌である。北山とは大和から見て北にある山科の御陵の山である。御陵の上に棚引く雲の中の、月も星も映ってゆく感慨を述べられたものである。斎藤茂吉氏はこの歌を「春すぎてなつくるらし白妙の・・・」の句と同等に愛唱されているそうである。渾沌の気があるという。
60) 神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君も有らなくに   大来皇女(巻2・163)
・ 大津皇子が崩じられたとき、大来(大伯)皇女が伊勢の齋宮から京に来られて詠まれた歌。二人は弟姉の間柄。10月に大津皇子は死を賜ったことを姉は知っていたことだろう。11月に天武天皇が崩御され、大来皇女は斎宮を解かれ京に戻った。政治の激変期に遭遇し、運命に弄ばれた弟姉の悲劇は沈痛であったろう。「あらましを」は本来伊勢に居るはずの自分が、誰も頼る人のいない都に、何をしに戻って来たんだろうと激越・自虐の念にさいなまれているという意味に使われている。

(つづく)