ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月15日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第9回
巻 2
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61) 現身の 人なる吾や 明日よりは 二上山を弟背と 吾が見む  大来皇女(巻2・165)
・ 前の歌に続く大来皇女の歌。大津皇子を葛城の二上山に葬った時に詠まれた。弟背(いろせ)とは同母兄弟のことをいう。前の激情は収まり、しっとりと底深い感情に沈下している。あきらめの認知に達している。
62) 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと云はなくに   大来皇女(巻2・166)
・ 前と同じ大来皇女の歌。「見すべき君がありといわなくに」が本歌の中心である。弟が亡くなったことを世間が言う様に認めている。
63) あかねさす 日は照らせど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも   柿本人麿(巻2・169)
・ 日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時、柿本人麿の作った長歌の反歌。「夜渡る月の 隠らく」とは日並皇子が逝去されたことをいう。本歌の中心をなす。前半は月と日の対比上そういったまでで、大した意味合いはない。「亡くなられて惜しい」というだけの歌である。
64) 島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず   柿本人麿(巻2・170)
・ 日並皇子尊の殯宮の時、柿本人麿の作った歌の一つと言われる。「勾の池」とは島の宮の池(高市村)であると言われる。真淵はこの歌は誰かの歌が紛れ込んだという。歌の格が落ちるからである。参考までにあげたと茂吉は言う。
65) 東の 滝の御門に 侍へど 昨日も今日も 召すこともなし   日並皇子宮の舎人(巻2・184)
・ 日並皇子に仕えた舎人などの作った歌が23首ある。その中の1首である。「東の滝の御門」とは皇子宮(東宮)の正門である。「昨日も今日も 召すこともなし」という侘しい感慨を述べた。
66) あさ日照る 島の御門に おぼほしく 人音もせねば まうらがなしも   日並皇子宮の舎人(巻2・189)
・ 日並皇子に仕えた舎人などの作った歌が23首ある。その中の1首である。前の句と同じ感傷である。「人音もせねば まうらがなしも」が中心である。
67) 敷妙の 袖交へし君 玉垂れの おち野に過ぎぬ 亦も逢はめやも   柿本人麿(巻2・195)
・ 川島皇子(天智天皇の第2皇子)が亡くなった時、柿本人麿が泊瀬部皇女(川島皇子の妻)と忍坂部皇子(泊瀬部皇女の弟)に奉った歌である。「敷妙の」、「玉垂れの」は袖、おち野のかかる枕詞。「過ぎぬ」とは亡くなる事である。越智野に川島皇子は葬られたので、もうお逢いすることはできないという意味になる。
68) 零る雪は あはにな降りそ 吉陰の 猪養の岡の 塞なさまくに   穂積皇子(巻2・203
・ 但馬皇女が崩ぜられて数か月たった雪の日、穂積皇子が猪養の岡(皇女のお墓)を望まれ、流涕して作られた歌。吉陰は磯城郡初瀬町である。「塞なさまくに」は塞となるだろうという意味であり、感情のこもった言葉である。あまり雪が降ると猪養の岡へゆく道が塞がれてしまう。墓に行きたくても行けないので雪よ降らないでほしいという意味が強く迫っている。
69) 秋山の 黄葉を茂み 迷はせる 妹を求めむ 山道知らずも   柿本人麿(巻2・208)
・ 人麿が妻に死なれて時詠んだ歌。死んで葬られることを、秋山に迷い込んで隠れ給うという。強い哀惜の情が現れている。
70) 楽浪の 志賀津の子らが 罷道の 川瀬の道を 見ればさぶしも   柿本人麿(巻2・218)
・ 吉備津釆女が死んだとき、人麿が作った歌。「(さざなみ)楽浪の」は志賀に係る枕詞。「ら」は複数ではなく親愛を示す言葉。罷道は黄泉国への道のことである。罷道=川瀬の道と繋がっている。この歌は不思議に形式に流れず、悲しい調べを持っている。

(つづく)