ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月25日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第19回
巻 7
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161) しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿は無くして   作者不詳(巻7・1140)
・ 「しなが鳥」とは猪名に係る枕詞。しなが鳥は鳰とりのことで、「しなが鳥居並ぶ」の「居」と「猪」が同音なので、猪名野の枕詞になった。猪名野は摂津猪名川流域の平野である。「有馬山」は有馬温泉のあるあたりである。猪名野に来ると有馬山に夕霧が出ている。さて困った野宿はできないしという意味になる。
162) 家にして 吾は恋ひなむ 印南野の 浅茅が上に 照りし月夜を    作者不詳(巻7・1179)
・ この歌は旅先で詠んだ歌か、家に戻ってから読んだ歌か議論のあるところだ。この本では羇旅で詠んだことになっている。印南野は「いなみぬ」と読む。とすれば印象がかなり鮮烈で、この景色はきっと思い出すことになると予感した歌のようである。
163) たまくしげ 見諸戸山を 行きしかば 面白くして いにしえ念ほゆ    作者不詳(巻7・1240)
・ 「見諸戸山」とは後室処山」すなわち三輪山のことである。「たまくしげ」は三輪山に係る枕詞で、「面白く」は感深いという意味である。三輪山の風景が佳くて神々しく感じられるので、神代のことも思われるという意味である。
164) 暁と 夜烏鳴けば この山上の 木末の上は いまだ静けし   作者不詳(巻7・1263)
・ 「山上」は「をか」または「みね」と読む。もう夜が明けたといって夜烏が鳴くけれど、岡の木立はまだひっそりとしている。還る男を引き留める女の心情かもしれない。万葉の歌はだいたい男女関係の歌と見た方が無難な場合が多い。
165) 巻向の 山辺とよみて 行く水の 水泡のごとし 世の人吾は   柿本人麿歌集(巻7・1269)
・ 妻を亡くして嘆き悲しむ人の歌であろう。人の人生は、巻向山の近くを音を立てて流れる川の水のようにはかないものであるという意味になる。仏教用語の無常の観念から生まれた歌ではなく、川のたぎつ流れを見てから出てきた表現であるという。
166) 春日すら 田に立ち疲る 君は哀しも 若草の 嬬なき君が 田に立ち疲る   柿本人麿歌集(巻7・1285)
・ この歌は短歌ではなく旋頭歌である。柿本人麿歌集には旋頭歌が23首ある中のひとつである。万葉集には旋頭歌は少なく、内容的には古歌歌謡(労働歌)を人麻呂が集めたともいわれる。
167) 冬ごもり 春の大野を 焼く人は 焼き足らねかも 吾が情熾く   作者不詳(巻7・1336)
・ 比喩歌で「草に寄する」というが、激しい恋心を謳う。「冬ごもり」は春の枕詞。私の胸が燃えて苦しいのは、あの大野を焼く人が焼き足らないで、私の心を焼くのかしらという意味である。恋心と春の野焼きが連想させられるが、「焼く」を3回繰り返すところに民謡風の軽いリズムが発生する。
168) 秋津野に 朝ゐる雲の 失せゆけば 昨日も今日も 亡き人念ほゆ   作者不詳(巻7・1406)
・ 熊野の秋津野(火葬場がある)に朝雲がなくなるたびに、昨日も今日も亡くなった人のことが思い出されるという意味である。挽歌としてとくに優れているわけではないが、「雲の失せゆけば」という言葉が哀愁を呼ぶのである。
169) 福の いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹が音を聞く   作者不詳(巻7・1411)
・ 「福」は「さきはひ」と読む。自分の事は書いていないが、前提として、自分は早く恋しい妻を亡くしたが、白髪になるまで健やかで妻の声を聴ける人は幸せであるという意味になる。
170) 吾背子を 何処行かめと ささ竹の 背向に宿しく 今し悔しも   作者不詳(巻7・1412)
・ 「ささ竹の」は背向に係る枕詞。「何処行かめ」とは「あの世に行ってしまうとは」という意味である。私の夫が死んで行くなどとは思いもよらず、(生前にはつれなくも)背を向けて寝たりして、今となってはそんな自分が悔しい。

(つづく)