ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月13日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第7回
巻 2
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41) 玉くしげ 御室の山の さなかづら 寝ずは遂に ありがつましじ   藤原鎌足(巻2・94)
・ 藤原鎌足が鏡王女に答えた恋愛歌である。句の前半は序詞で、「寝ずは遂に ありがつましじ」はお前と寝ないではいられない」という意味で、これが言いたいことのすべてである。そこに至る美辞麗句の遊びが和歌の世界である。肉欲的であるが、「遂に」が強く効果的で、なくてはならない言葉になっている。
42) 吾はもや 安見児得たり 皆人の得がてにすといふ 安見児得たり  藤原鎌足(巻2・95)
 ・ 内大臣藤原鎌足が美人で有名で皆のあこがれの的であった釆女安見児を獲得した喜びを露骨にうたった。「もや」は詠嘆の助詞で「まあ」という意味である。この直截性は戯れ性と一体化している。安見児という名は「安見知し吾大君」(容易に全体を支配する)に通じるからであるという説もある。
43) わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後  天武天皇(巻2・103)
・ 天武天皇が藤原夫人(鎌足の女、五百重娘、新田部皇子の母、大原大刀自ともいわれた。夫人とは後宮の職名で后に次ぐ位置であった)に賜った御製である。大原は今の明日香村小原の地である。飛鳥浄御原宮から少し離れた大原にいる藤原夫人に気使って消息を問う歌である。
44) わが岡の 竈神に言いて 降らしめし 雪の摧し 其処に散りけむ  藤原夫人(巻2・104)
 ・ 藤原夫人が前の天武天皇に和して贈った歌。おかみ竈神とは龍神のことで水や天雪を支配する神である。「そちらに降った雪は実は私が龍神に頼んで降らした雪の断片ですよ」と、天皇のからかいに答えてユーモアをもってした歌である。
45) 我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて あかとき露に わが立ち濡れし  大伯皇女(巻2・105)
・ 大津皇子(天武天皇の第3皇子)がひそかに伊勢神宮の斎宮大伯皇女(同母弟姉の関係)に面会した。大津皇子は史実では天武天皇の崩御後に謀反の疑いで死を賜った。歌の形式から見るとと恋愛歌でもあるが、姉が弟を諭して大和へ帰らせるという意思が「遣る」という言葉に現れている。
46 ) 二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越えなむ  大伯皇女(巻2・106)
・ 大伯皇女の前の歌の続きであろう。悲哀の情緒が感じ取れ単に親愛の実ではないと思われる。「代匠記」のは謀反との関連で解説している。
47) あしひきの 山の雫に 妹待つと われ立ち濡れぬ 山の雫に  大津皇子(巻2・107)
・ 大津皇子が石川郎女に贈った歌。「あしひき」は山に係る枕詞。裾を長く引く平らな山という意味合いである。
48) 古に 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より 鳴きわたり行く  弓削皇子(巻2・111)
・ 持統天皇が吉野に行幸された時(全部で32回)、従駕した弓削皇子(天武天皇第6皇子)から、大和に留まった齢とった額田王に贈った歌。「古に恋ふる鳥かも」という句に簡潔にして情緒あふれる言葉である。このことばで額田王の古い思い出が呼び起こされ、「鳴きわたり行く」で流れてゆくのである。額田王がこれに答えて歌を贈ったことは言うまでもないが、答える方はいつも受け身になるという事は避けがたい。
49) 人言を しげみ言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川わたる  但馬皇女(巻2・116)
・ 但馬皇女(天武天皇の皇女)が穂積皇子(天武天皇第5皇子)を慕われた歌である。皇女が高市皇子の宮に居られ、ひそかに穂積皇子と接したことが人の口に上った時期の歌である。皇女が男に逢って朝川を渡ったことは前代未聞であった。
50) 岩見のや 高角山の 木の間より わが振る袖を 妹見つらむか  柿本人麿(巻2・132)
・ 当時柿本人麿は岩見国の国府に居た。妻はその近くの角の里に居たので、妻を置いて上京する時に詠んだ歌である。現実的には妻が見える距離ではなかったが、人麿一流の波動的声調で統一しているという。

(つづく)