ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月16日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第10回
巻 2
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71) 妻もあらば 採みてたげまし 佐美の山 野の上の宇波疑 過ぎにけらしも   柿本人麿(巻2・221)
・ 人麿が讃岐狭岑島で、男の溺死者を見て詠んだ長歌の反歌。宇波疑は「よめ菜」のこと。「たげ」とは飲食すること。不思議な歌である。人麿は決してこのような事にも他人事ではなく、自分の愛情を注いで作歌している。
72) 鴨山の 磐根し纏ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ   柿本人麿(巻2・223)
・ 人麿が岩見国に在って死なんとした時に自ら悲しんで詠んだ、不思議な雰囲気の歌。石見国鴨山のほとりで亡くなった。人麿の妻の依羅娘子が人麻呂を悼んで作った歌が巻2に収録されている。享年45歳で疫病で死んだと推測されている。自分の死体を想像して、第3者的が見る視点は不思議な体験である。

巻 3
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73) 大君は 神にしませば 天雲の 雷のうへに 廬せるかも   柿本人麿(巻3・235)
・ 持統天皇が雷岳(明日香村雷)行幸のときに、人麿が詠んだ歌。雷は天に居られる神d、天皇はその上に立ったという意味である。この歌の荘重な響きは、抒情詩としての人麿の力量からして当然のレベルかも知れないが、声の調子は堂々と争う余地のない出来栄えである。
74) 否といえど 強ふる志斐のが 強ひがたり この頃聞かずて われ恋ひにけり   柿本人麿(巻3・236)
・ この二つの歌は、持統天皇と志斐媼のほほえましい問答歌である。この老女は語り部などの職にあって、ことに話が旨かったのであろうか。もうお話はいらないと言っても、無理強いして話を語る老女の頑固さがにじみ出るユーモアあふれる仕立てになっている。諧謔的問答歌はウイットに満ちたものであろう。
75) 否といえど 語れ語れと 詔らせこそ 志斐いは奏せ 強語と詔る   志斐媼(巻3・236)
・ 二つ目の歌は、媼がもうやめにしましょうといっても、語れと仰せになるので話しているのです、それを強い語りとは何ですかとむきになる様子が面白い。
76) 大宮の 内まで聞ゆ 網引すと 網子ととのうふる 海人の呼び声   長意吉麻呂(巻3・238)
・ 持統天皇(一説には文武天皇)が難波宮に行幸されたとき、長忌寸意吉麻呂が詔に応え奉った歌である。網引く者の人数を揃える海人の呼び声が大宮の中まで聞こえてくるという、飾らない素朴な写生歌となっている。特に帝徳を賛美する形式的な「ごますり歌」になっていないところがすばらしい。難波宮が番屋と同じ扱いなほど、民と朝廷の距離は少ないという寓意に取るのは考え過ぎという。
77) 滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに   弓削皇子(巻3・242)
・ 弓削皇子(天武天皇第6皇子)が吉野に遊ばれたときの御歌である。上の句の「・・・雲の」は「常にあらむと 我が思はなくに」に続く序詞となっている。下の句が本歌の中心である。人はいつまでも生きられないことへの感慨が深い。
78) 玉藻かる 敏馬を過ぎて 夏草の 野崎の埼に 船ちかづきぬ   柿本人麿(巻3・250)
・ 人麿の羇旅8首の一つである。いずれも船の旅であることが共通している。敏馬とは摂津武庫郡(今の灘区)の海岸、野崎は淡路の津名郡野島村である。「玉藻かる」は敏馬の枕詞、「夏草」は淡路の枕詞。二つの地名を挟んで「船ちかずきぬ」と距離感が具体的である。
79) 稲日野も 行き過ぎがてに 思へれば 心恋しき 可古の島見ゆ   柿本人麿(巻3・253)
・ 稲日野は播磨の印南郡の加古川の流域である。可古の島は現在の高砂町辺りである。この船の旅は播磨国印南から可古島へ向かう西から東への旅である。「行き過ぎがてに」はなかなか通り過ぎることが出来なくてという旅の難儀の気持ちである。
80) ともしびの 明石大門に 入らむ日や 榜ぎ別れなむ 家のあたり見ず   柿本人麿(巻3・254)
・ 難波から西へ向かう船旅の歌である。「ともしび」は明石に係る枕詞。明石大門辺りまでくると、もう大和の山々ともお別れであるという意味。歌柄の極めて大きいもので、詠嘆の言葉なしに「家のあたり見ず」とくくった手法は敬服すべきであるという。

(つづく)