ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月24日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首 第18回
巻 7
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151) 春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも 清けかりけり   作者不詳(巻7・1074)
・ 作者不詳の民謡調の歌である。「この」は「現に今」という限定の意味である。春日山一体を照らしている月明かりは、妹の家にも現に清く照らしているという意味である。のびのびした濁りのない歌は、「妹が庭にも 清けかりけり」という結句で個別的、具体性を帯びるのである。
152) 海原の 道遠みかも 月読の 明少なき 夜はふけつつ   作者不詳(巻7・1075)
・ 海岸に居て、夜更けに上った月は光りが清明ではなくいくらか霞んでいるように見える。光が海原をはるばると通ってくるためだろうか。主観的にそう思うだけなのか、海上の水分を含んだ空気の為なのか、それは云々していない。
153) 痛足河 河浪立ちぬ 巻目の 由槻が岳に 雲立てるらし   柿本人麿歌集(巻7・1087)
・ 痛足河(あなしがわ)は大和纏向村にある、今の巻向川のことである。巻目(まきむく)ともいう。「由槻が岳」は巻向山の高い一峰である。痛足河に浪が立っている。おそらく由槻が岳に雲が立ち雨が降っているのだろうという意味である。「河浪立ちぬ」と「雲立てるらし」の繰り返しにそれほど違和感がない。固有名詞を三つ並べても荘重な響きを保てるのは人麿の作であろうと推測される。
154) あしひきの 山河の瀬の 響るなべに 弓月が岳に 雲立ち渡る   柿本人麿歌集(巻7・1088)
・ 前の歌をそのまま引き継いだ歌である。「山川」とは「痛足河」のことであり、「弓月が岳」とは「由槻が岳」のことである。違う点は中間の「なべに」という言葉である。共に、連れてという意味である。ふたつの自然現象(川浪が立つことと、岳の上に雲が立つという事)をそのままさながらに表現した写生の極地というべき作品である。山が雲で隠れる時にはすでに山には雨が降っている、そしてその結果川の水量が増え波立つのである
155) 大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ浪に 立てる白雲   作者不詳(巻7・1089)
・ 持統天皇が伊勢に行幸されたとき、従者が詠んだ歌と推測される。大海には山を持つ島は一つもないのに、たゆとう海上の波には白雲が立っているという意味である。この海原の自然現象をここまで大きく歌うことができるのは人麿クラスの歌人であろう。
156) 御室斎く 三輪山見れば 隠口の 初瀬の檜原 おもほゆるかも   作者不詳(巻7・1095)
・ 「御室斎く」は神を祀る社がある」という意味で、三輪山に係る枕詞である。「隠口の」は山で囲まれた地勢を示し「初瀬」の枕詞である。三輪山の檜原を見ると初瀬の檜原を思い出すという。鬱蒼とした檜の山林は神聖な場所と古代人には映ったのである。
157) ぬばたまの 夜去り来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き   柿本人麿歌集(巻7・1101)
・ 夜になると、巻向川の川音が高くなった。多分嵐が強いのだろうという意味である。単純な内容だが、前の歌と同様に流動的で調子が強い。結句の「嵐かも疾き」で強く締まっている。結語が「疾き」という二語で終わるのは万葉集でも珍しい。「独りかも寝む」などがある。人麿を彷彿とさせる歌である。
158) いにしえに ありけむ人も 吾が如か 三輪の檜原に 挿頭折りけむ   柿本人麿歌集(巻7・1118)
・ 今の吾にのように、昔の人も三輪の檜原に入って挿頭を折ったのだろうか。品が佳く情味のある歌である。昔の人は何の木でも小枝を折って頭に刺した。
159) 山の際に 渡る秋沙の 行きて居む その河の瀬に 浪立つなゆめ   作者不詳(巻7・1122)
・ 「秋沙」とは鴨の一種で小鴨といった。山際を飛ぶ小鴨が川に宿るだろう。その川に浪を立てないでくれという意味である。小鴨に愛情が集中して、妙に象徴的な意味合いを持ってくる。近代歌としても通用する。
160) 宇治川を 船渡せと 喚ばえども 聞こえざるらし 楫の音もせず   作者不詳(巻7・1138)
・ 山城の宇治川で作られた歌。宇治川の岸に来て、船を渡せと叫んでも、漕いでくる楫の音もしない。宇治川の急流を前にして、大きさを感じさせる歌である。

(つづく)