ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下(岩波新書 1938年11月)

2017年10月09日 | 書評
精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首  第3回
今日から毎日10首の歌を紹介してゆきますが、約1か月間の予定です。
巻 1
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1) たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野   中皇(女)命(巻1・4)
 舒明天皇が宇智野(大和五条町)に遊猟された時、中皇命が間人連老をして献上した長歌に対する反歌である。中皇(女)命は舒明天皇の娘であるので、皇極(斉明)天皇に当たる。斎藤氏はこの歌を万葉集中最高峰の一つだと称賛している。   
2) 山越の 風を時じみ 寝る夜落ちず 家なる妹を かけて偲びつ   軍王(巻1・6)
 舒明天皇が讃岐国安益に行幸あったときに、軍王が作った長歌に対する反歌である。軍王とは将軍に相当する一般名であろう。     
3) 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 兎道の宮処の 仮廬し思ほゆ   額田王(巻1・7)
・ 兎道(宇治)に行幸の際に設けた仮宮の記憶を追慕した歌であろう。額田王は鏡王の娘で、鏡女王の妹であった。はじめ大海人皇子と結婚し、次いで天智天皇に寵愛されて近江教に移った。一説に孝徳天皇の御製ともいわれる。   
4) 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は榜ぎ出でな   額田王(巻1・8)
 斉明天皇が新羅を討つため船出をし、熟田津に滞留した。お供をした額田王の歌。一句に明確な区割りはなく、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」などの助詞で自然につないだ流暢な歌である。 
5) 紀の国の 山越えて行け 吾が背子が い立たせりけむ 厳橿がもと   額田王(巻1・9)
 斉明天皇が紀の国の温泉に行幸あった時に額田王が詠んだ歌。前半の万葉仮名の訓みが難しく、いろいろな異説を呼んだ。前半は真淵説に従って訓み、下半は契沖説に従った。吾が背子とは大海人皇子のことと理解されている。  
6) 吾背子は 仮廬作らす 茅なくば 小松が下の 茅を刈らさね   中皇命(巻1・11)
 中皇命が紀伊国の温泉に行かれた時の御製3首のひとつ。 まえの中皇(女)命と同じかどうかは不明。単純素朴がいいと斎藤氏は言う。  
7) 吾が欲りし 野嶋は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠ぞ拾はぬ   中皇命(巻1・12)
 中皇命が紀伊国の温泉に行かれた時の御製3首のひとつ。古調の尊さがいいという。 
8) 香久山と 耳梨山と会ひしとき 立ちて見に来し 印南国原   天智天皇(巻1・14)
 中太兄(天智天皇)の三山歌(畝傍、香具、耳成)の反歌である。播磨国風土記にこの三山の争いを調停するために、出雲の阿菩大神が出立し、大和に向かったが播磨国揖保郡まで来たとき争いが止んだという。印南国原にも同様の伝説があったようだ。蒼古の響きがあるという。 
9) 渡津海の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明けくこそ   天智天皇(巻1・15)
 三山の歌ともとれるが、単に叙景の歌であってもいい。この歌の様な壮大な趣の歌は後代後を絶ったという。結句の「清明けくこそ」が推量とするか希望とするか、いずれも可だという。   
10) 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなむ 隠さふべしや   額田王(巻1・18)
 「しかも」は「そんなに」という意味。「あらなむ」は願望、「や」は強い反語である。結句に作者の情感が集中しているという。

(つづく)